2005年01月26日
「ニート」は「オトコのセンギョー」か
これはこの記事に対する議論の続きです。論点をクリアにするために、何度か加筆修正しましたが、あまり何度も修正するのもなんですので(^^;)新しく書くことにしました。ここでの話題は「ニート」と「センギョー(専業主婦)」の類似点です。
もう一度「ニート:非生産という反逆?」の中の関連部分の論点を整理してみましょう。論者は、「センギョー」は「家事サービスを生産している」ので「私は問題視しない」一方、もし、「ニート」が「家事も含めた生産活動をまったくせずに、ひたすら消費活動のみをする」なら問題である。なぜなら、生産活動をしないということは「他者が生産した財を食いつぶすということである」からだと述べています。
私は、後半には賛成です。「他者が生産した財を食いつぶす」だけの人が増えるということは社会不安につながる脅威であり、増税の主たる原因にもなりましょう。しかし、問題は、「(家事を含めた)生産活動をしている」ということが直ちに「他者が生産した財を食いつぶさない」ことにはならない、というところにあります。本人はなにか生産しているつもりであっても、他人の財を食いつぶしているかもしれないし、逆になんにも生産していなくても、(赤の)他人に迷惑をかけているわけではない人も沢山います。
これは昔から繰り返されている「主婦業は無価値か?」というような議論とも関係していますが、およそ「主婦業にどのくらいの価値があるか」という議論が不毛なのは、生産活動、あるいはその結果としての生産物に絶対的価値があるかのような考えに捕われているからです。生産活動や生産物には「絶対的価値」がつけられるわけではありません―たとえ可能であったとしても、それは神様の仕事であり経済学者の仕事ではありません。これは主婦業であっても教職であっても同じことです。経済学が興味の対象とする、「財の価値」はマーケットの評価、つまり神様ではなく人がつけるものなのです。言い換えれば「財」あるいは人の「存在価値」を認めて私的にお金を払う人がいる限り、「ニート」も「センギョー」もペットの仔犬もアイボも大学のセンセイも、なにか生産している(たとえば「癒し」を提供しているとかね)とみなしても差し支えないと思います。彼/彼女が"生産"するものは、教育とか癒しの提供のように手に取れないものであってもかまいませんし、その人の存在そのものでしかなくてもかまいません。また、対価の支払い者(たとえばペットなら飼い主)以外の人にその価値がわかる必要もありません。ある人には価値があるけれど別な人にはぜんぜん価値がない、ということは財としてはむしろ普通です。ですから、個人的にお金を払っている人がいる限り、「ニート」だろうが(経済学者の目から見て)訳のわからない芸術家だろうが、その存在というかありかたを経済学者が「問題視」する必要も権利もないと考えられるのです。
しかし、誰かが-それも「五体満足で高等教育も受けている」人-が「他者が生産した財を(その他者の意に反して)一方的に食いつぶしている」のであれば、経済学者はこれを問題視するでしょう。あるいは、特定の人々の個人的な選択を社会が支えているとすれば問題視される可能性はあります。たとえば、犬を飼っている人全員に特別控除として税制上の優遇を与えれば、犬嫌いの人は不当だと考えるかもしれません(もちろん、犬を飼わない人を含めて全員の納得が得られるなら別に問題ではありません)。つまり議論は、ある人や集団が「他者が生産した財を食いつぶしているかどうか」つまり外部的な不経済があるかどうかを基準にしてなされるべきであり、(主観的に)生産活動をしているかどうかはどうでもいい話だと思うのです。
で、外部的な不経済があるかどうかを基準にして考えますと、「ニート」が「センギョー」に比べて、より問題だとは考えられない、というのが私のポイントです。なぜなら後者には、税制面での優遇措置や払わずにもらえる年金制度*1など2重3重の厚遇が用意されている(つまりそれだけ社会的な費用が発生している)一方、前者には今のところ何もないからです。数でみても比較になりません。「ニート」はオトコの「センギョー」だ。この程度の認識で十分だと考えます。ただし、納税者としては、ばら撒き福祉をやめるように政府に要求する当然の権利があるだろうとも思います。国民負担率は2年連続上昇しています。これからもどんどん上昇しつづけることでしょう。働かない人のツケを働く人にタダ押し付けるだけの再分配を温存しつづければ、より多くの若者が働かないことを選択するようになるだろうと思われるのです。
*1 これだけ年金制度が議論されているにもかかわらず、まだ、三号の制度を理解していない専業主婦の人がいて、「主婦は年金を払っていないと言いますが、私の夫は年金を払っています!」などと言い張っていたりするので解説をしておく。専業主婦(三号被保険者)の国民年金は、配偶者が代わりに払っているわけではない。彼女の夫が払っているのは、夫本人の分であり、主婦の分まで含めて余分に払っているわけではない。つまり、彼が払う年金の掛け金は、彼の妻がフルタイムで働らいていようが、専業主婦をしていようが変わらないのである(嘘だと思ったら試しに年300万くらい稼いで、主婦時代と掛け金を比べてみるといい)。だが、夫婦単位でみれば、単身者と専業主婦持ちのカップルとでは受け取る金額は全然違う。専業主婦を養っている男のほうは、同じ掛け金に対してもらう額が(主婦の分だけ)多くなるのだ。だからこそ「三号」がこれだけ問題になるのである。
この事情はアメリカでも同じのようだ。以下スティグリッツの教科書からの引用である。
「社会保障制度を計画する上で特に厄介な問題は、結婚している人と独身者との取り扱いである。二人の個人、ボブとジョー、を考えることにしよう。彼らは働いているとき同じ所得をい稼ぎ、したがって同じ額の社会保障税を支払っていたとしよう。ボブは結婚しているが、彼の妻は全く働いたことがない。ジョーは結婚していない。ボブが受け取る年金額は、ジョーが受け取る額よりもずっと多くなる。独身者は何故彼らが、結婚している夫婦に援助を与えなければならないのか、とたずねるであろう。」(J.E.Stiglits Economics of the public sector).
Category: Opinion Posted by seo at 19:44
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