ひっそりと更新中・・・
「日本人に謝りたい」
2005-10-13 Thu 23:31
「日本人に謝りたい」〜あるユダヤ人の懺悔〜
     モルデカイ・モーゼ 著
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モルデカイ・モーゼ・・・ユダヤ人。
戦時中にルーズベルト大統領のブレーンとして日本を研究し、1943年頃から戦後の対日処理立案(GHQ政策)にも加わった人。
先週からずっと彼の著書を読んでいるのだが、このモーゼという人が何故このような本を書いたのか?という理由がいまいちわからなくて・・・
1979年に出版された古い著書だが、内容が濃い。
一見、内容が胡散臭い印象を受けるが、読むと、曖昧で謎だったことが氷が溶けるようにすっと入ってくる。
複雑な政治を理解するというよりも、そうだったのか、、と感覚的に納得できた気がする。

今更ながら歴史や世界を作ってきたのはユダヤ人なのだと実感させられる。
彼が語るユダヤ人としての日本に対する歴史の”事実”だけを紹介しておきたい。
ユダヤ人問題というものは、知れば知るほど深みにはまってしまう・・・単にアウシュビッツ問題だけではない。

「我々ユダヤ人は、第二次大戦においてはドイツは我々に対する加害者であると考えているが、日本に対しては我々こそ加害者であり日本は被害者ではないかと考えているのである」
・・・この加害者という言葉が重たい。
(単に原爆投下したことを謝っているわけではない)
詳しくはぜひ「日本人に謝りたい」を読んでください。

(以下部分的に抜粋しますので個々で感じてください)
●民主主義も共産主義もユダヤ人が作り出したもの(マルクスもレーニンもユダヤ人だった)

●日本国憲法はドイツ・ワイマール憲法の丸写し。
ドイツ・ワイマール憲法は、ご存知の通り、ユダヤ人で内相も務めたフーゴ・プロイス以下3名のユダヤ人によって作られたものである。
明治時代の大日本帝国憲法を起草した伊藤博文、井上毅がドイツのユダヤ法学者の影響を受けているため、憲法のルーツは同じものである。
当時ドイツの法学界はユダヤ人法学者が牛耳っていた。

●軍人であるマッカーサーは、政治には弱かった。
当時東京のGHQへ送られる諸々の指令は、トルーマン大統領以下閣僚の全く関知しないうちに国務省の秘密グループから発せられていた。
(占領軍を事実上支配していたのはユダヤ勢力──もっとはっきりいえばニューディール派)

●ユダヤ人の大思想家でフランス革命に大きな思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で次の如きことをいっている。

「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである。」

ここでいう君民共治というのは、君主が決して国民大衆に対して搾取者の位置にあることなく、したがって国民大衆も君主から搾取されることのない政治体制のことである。
ユダヤ人はルソーのいった如く、国民との利害関係をもたない君主が理想なのである。
戦後の占領改革にも拘らず天皇制が存続できたことは、私の最も喜びとするところである。
これはひとえに当時GHQを牛耳っていたニューディール派、つまりユダヤ勢力が天皇制に自己の民族の理想を見出したからに他ならないのである。
日本国憲法は後で詳しく述べる如くユダヤ人がユダヤ思想に基づいて作った作品であるが、その憲法の冒頭に天皇の項を設けたのはこのためである。
我々は戦後の占領改革において大きな過誤を犯したのであるが、ただ一つの喜びは、天皇制の偉大さを認識でき、それを憲法の冒頭で存続させることができたことである。

だがここで日本人に謝らなければならないのは、戦前において我々の認識不足から、天皇制を最大限に攻撃し、なんとかこれを打倒しようと努力してきたのも我々ユダヤ人である、ということなのである。
全く穴があれば入りたい気持ちである。

まずフランス革命でフランスの君主制を打倒したのが、我々の最初の大事業であった。(民主主義を作ったのはユダヤ人)
つづいて、ヨーロッパの主な君主制を打倒することが至上任務となるのである。
何故そうなるのかということは、マルクス主義の国家論をお考え頂ければ十分と思う。
マルクス主義というものは別章で詳しく述べる如く、ユダヤ人が自己の民族的解放事業のための道具として編み出した虚構論理なのである
マルクス主義の国家論はご存知のように、国家とは破壊、転覆すべきものであるということを根本原理としているものである。
国家というものがあるためにユダヤ人は過去幾千年、迫害、虐殺をくり返されていたものである。
自己をこのような悲惨な境遇から救うためには、国家というものを転覆することが唯一の方法であったのだ。

つまり、それによりユダヤ人が権力と財産──後にこれは生産手段という社会科学的用語にかえられたが──を奪取することによってのみ解放されるということである。
これがマルクス主義の根本原理なのであるが、この国家の破壊という大事業の前に最も邪魔になるのが君主制という制度であったのだ。
そのため特に、君主制の打倒ということが最大の目的となったわけである。

今世紀に入ってからは、第一次大戦時に、ヨーロッパの主な三つの王冠、ドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリーにおける君主制の打倒に成功したのであった。
さて後に残された有力な君主制は、東洋の一角に燦然と輝く日本の天皇制だったのだ。
ユダヤ人は、これの打倒に全精力を注ぐことになったわけである。
戦後史の解説書などでしばしばいわれている天皇制存続の理由、「占領政策のため利用する目的で存続させた」といったことが如何に認識不足かということをお分かり頂けると信ずる。

●「国際連盟」の労働部長であったユダヤ人、アルベール・トーマが日本の労働事情調査のため来日した。
「国際連盟」といっても、教科書的歴史観しか教えられていない日本人にはその本質を知る人は少ないようだが、これはユダヤの世界政府ともいうべきものである。
第一次大戦の結果、金融支配力に自信をつけたユダヤ人は政治面へも進出をはかり、その結果つくられたものが「国際連盟」なのである。
この連盟の指導者は、日本人の杉村陽太郎氏を除いて他は皆ユダヤ人だったのである。

●戦前の日本の家族制度はこれまた類い稀な存在であったのだ。
戦前の日本の家族制度にはとても及ばないが、現在世界中で一番この家族制度というものを強固に有しているのは我々ユダヤ人社会であろうと思う。
この点、我々は常にそれを誇りとしている。

ここでまた日本人にお詫びしなければならないのであるが、この日本のすばらしい家族制度を破壊したのは我々ユダヤ人なのである。
具体的には、占領改革の時ニューディール派が行なったものである。

レーニンは「家庭は利己主義の砦である」といって、婦人を全部社会へ出してしまった。
現在のソ連で依然として女性が男性と同じ肉体労働までしているのは、その名残なのである。
女性の社会への進出というとなにか進んだ制度の如く感じるかも知れないが、家族制度という観点から見た場合、これもやはり崩壊へ導く要因であるようである。
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杉原氏のドラマ
2005-10-13 Thu 10:10
ユダヤ人問題についての記事を書くとアクセス数が減るので、ユダヤ人への関心は終戦記念日前後にしか思い出さない程度なのだろうな・・・と思っていたのですが、この2日ばかりユダヤ人関係で検索してこられるかたが多いので「??」と思っていたところ、スナッチャーさんの記事で納得(笑)
以前こちらで取り上げた杉原千畝氏のドラマが今週放映されたんですね・・・
日本のシンドラー「杉原千畝物語・・六千人の命のビザ」
あいにく私は観てないのですが、こういう情に訴える作品はまさに日本人向け。
多くのかたが感動されたのではないかと思います。

私個人としても、杉原氏は立派なかただと思います。
でも、いまだに彼の行動の背後には日本政府・軍部の方針があったからだ、という説が根拠もなく語られているのも事実です。
詳しくは・・・松浦寛「捏造される杉原千畝像」で。
何故、自国の美談を悪意に取るのか、理解できないんですよね。
本当に不思議の国、ニッポンです(苦笑)

以前、原爆開発や原爆投下を決定したのはユダヤ人だった話、エノラゲイ乗組員の半数以上がユダヤ人だったことなどを紹介しましたが、次は、何故、ユダヤ人が日本を嫌ったのか、という理由に迫りたいと思います。
ユダヤ人に興味のあるかたは、カテゴリーの「世界の中のユダヤ人」でまとめてありますのでご覧ください。
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知られていない原爆秘話 後編
2005-10-01 Sat 12:12
前回、反日派ユダヤ人の記事を書きましたが今度は親日派のユダヤ人の話・・・
ユダヤ人の原爆開発と、日本への投下へのこだわり、、、そして後に書きますが、日本国憲法・・・全てユダヤ人が作ったものなのでした。
全く知られていませんが、ユダヤ人とは、日本と強いつながりを持つ人々だったわけです。

現在も、日本に何の興味も持たないユダヤ人もいれば、”日本人とユダヤ人が同じ祖先だ”と、日ユ同祖説を信奉する強烈な親日家もいる。
また、アジアの中では日本よりも中国(華僑)との友好を求めるユダヤ人もいるし、人種差別でアジア全体を嫌悪するユダヤ人もいます。
アメリカのユダヤ人は、親日家と反日家含め、実にさまざま・・・

同じ人種の集まりではない、同じ民族でもない、大雑把に言えば、同じ宗教を信じる者の集団をユダヤ人と呼ぶ。
そして、昔から世界各国に散らばり、同化し、その飛びぬけて優秀な頭脳(これは皮肉にも長い間虐げられたゲットーでの高い教育によるものが大きいと思われる)と財力で、どこの国をも陰で操れる立場にいたわけです。
歴史を動かしてきたのはユダヤ人だといっても過言ではないと思います。



<原爆投下に反対した親日ユダヤ人たち>

レオ・シラード。
シラードはアインシュタインを説得して、ルーズベルト大統領宛に
原爆開発を促す「手紙」(右)を送った。(1939年)
彼もハンガリー生まれで、アメリカに亡命したユダヤ人科学者である。
彼は原爆のアイデアを思いつき、同じユダヤ人でドイツからアメリカに亡命したアインシュタインの知名度を利用して、ルーズベルト大統領宛に原爆開発を促す手紙=「アインシュタイン書簡」(1939年8月)を送ったことで有名である。
この手紙がきっかけとなって、アメリカの原爆開発はスタートしたのだ。

ちなみに、シラードがアインシュタインに自分のアイデア(核連鎖反応)を話したところ、アインシュタインは「考えもしなかった」と驚いたという。
アインシュタインは、シラードが手紙を持ってきてから、2週間悩んだすえに、署名したのだった。
ちなみに、アインシュタイン博士は親日ユダヤ人である。(1922年に日本に来ている)。
1945年8月、アメリカ軍が日本に原爆を投下したニュースを聞いたとき、彼は「ああ、何ということか!」とうめいたという。
「マンハッタン計画」にアインシュタインは参加していない。
彼は、手紙に署名したことを生涯の最大の過ちとして、その後の人生を平和のために捧げた。

1952年に雑誌『改造』へ「日本人への弁明」を寄稿。
1955年には、核兵器の廃絶と紛争の平和的解決を求める「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名。
その1週間後に動脈瘤破裂のため、76歳の生涯を閉じたのであった。
(また、アインシュタイン博士は、「シオニズム」に理解を示していたが、権力や権威的なものは嫌いで、イスラエル大統領への就任を辞退していた。彼は拡張主義の考えはなく、パレスチナ人と共存できると信じていたのである)。

ノーベル物理学賞受賞のジェームズ・フランク、「近代量子論の父」で同じくノーベル物理学賞受賞のニールス・ボーアも「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者である。
ドイツからアメリカに亡命したフランクは、オッペンハイマーと違って、実戦使用される前から原爆の対日投下に反対していた。
彼は大戦末期の1945年6月に、対日戦での原爆の不使用を強く勧告する「フランク・レポート」を政府に提出したことで知られている。

ニールス・ボーアは、アインシュタインにつぐ、20世紀で最も影響の大きかった物理学者で、「近代量子論の父」と世界的に認められている。
彼は大戦中、アメリカに渡り「マンハッタン計画」に参加した。
しかし、原爆が日本に投下される以前に、その巨大な破壊力がいかに恐ろしい惨禍をもたらすかを悟った。
戦争が連合国側の勝利に終わると、ボーアは祖国デンマークに戻り、その後の人生を、超大国が責任を自覚し、核エネルギーの適正な管理をし、平和利用に専心するように促すことに捧げた。
しかしその努力は、実を結ばなかった。

なお既に触れた、最初に原爆製造を進言したユダヤ人科学者レオ・シラードも、ナチス・ドイツの敗北が決定的になると、原爆の実戦使用(対日投下)に反対するようになった。
彼にとって「原子爆弾」とは、ナチスの脅威に対抗するためのものであって、日本に使用するためのものではなかったのだ。

1945年3月、シラードは、アインシュタインと会い、再び大統領への手紙にサインするよう求めた。
原爆の対日投下を阻止しようと、シラードは、大統領に働きかけるつもりだった。
原爆開発を進めるにも、原爆投下を止めるにも、アインシュタインの名声が必要だったのである。
アインシュタインは、再びシラードの意見に同調しサインした。
しかし、効果はなかった。
シラードは対日戦争での原爆使用に対して最後まで「反対請願」を展開したが、時すでに遅しだったのである。
(戦後、シラードは、生物学へ転向した)

結局、原爆開発に関わる科学者たちを駆り立てた「戦争早期終結論」は、広島に続く長崎への原爆使用によって、「ドイツ原爆対抗論」と同様に虚構の理論であったことが明らかにされた。

最新の調査によると、アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に議論していたことが判明している。
大戦中、アメリカとソ連は同じ陣営に属してはいたが、戦後の世界再建に向けてにらみ合っていた。
ともに増大する軍事的脅威に危機感を感じ取っていた。
ソ連はヨーロッパ戦線でベルリンを陥落し、東ヨーロッパの大部分を手中に収めるにまで至っており、アメリカと対等の席につくはずであった。
ところが、原子爆弾という切り札によってソ連の優位は崩れ、アメリカに交渉のイニシアティブを握られてしまったのである。
原子爆弾は対ソ外交を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったのである。

原爆投下の決定を聞かされた軍部指導者の中には嫌悪を催した者もいた。
ヨーロッパのアメリカ軍司令官アイゼンハワー将軍(非ユダヤ)は、スチムソン陸軍長官から計画を報告された時のことをこう記している。
「彼の報告を聞いているうちに、暗い気持ちになった。私は彼に深い不安を伝えた。まず、日本はすでに敗北しており、原爆は全く必要ないということ、次にアメリカ人の命を救う手段として、もはや不要ともいえる兵器を使用することで国際世論に衝撃を与えることは避けるべきだと伝えた。」
アイゼンハワーの見解は「日本はできる限り体面を損なわない降伏の方法を模索している。恐ろしい兵器で日本に打撃を与える必要はもはやない」というものであったのだ。
彼は日本に対し原爆投下は不必要」とトルーマン大統領に進言していた。
   (ヘブライの館HPより抜粋させていただきました)
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知られていない原爆秘話 前編
2005-09-29 Thu 01:33
ホロコーストは「焼き殺す」という意味を持つが、壊滅寸前の日本に対する“炎の絶滅兵器”の使用は、まさに「原爆ホロコースト」と呼ぶにふさわしい。

<アメリカで政治力を持っていた反日ユダヤ人たち>
全人口に対してユダヤ人口が5〜6%にしか過ぎなかった当時のアメリカで、広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ号」の搭乗員として特別に選ばれた15名のうち、ユダヤ人が7名も占めていた・・・
このことからも、ユダヤ人の中には原爆の対日投下に反対する一方で、日本に対して敵対的な感情を持つユダヤ人がいたことが伺える。

「マンハッタン計画」とは、第二次世界大戦中にアメリカが極秘にスタートさせた原爆開発計画のことである。
5万人にのぼる科学者・技術者を使い、総計20億ドル(7300億円)の資金が投入された。
(ちなみに、1940年の日本の一般会計は60億円、1945年で220億円)。
ニューメキシコ州の山奥に新設された秘密軍事研究所「ロスアラモス研究所」で、科学者たちは「原子爆弾」を完成させるべく日夜研究に没頭したのである。
この軍・産・官・学の連携によって進められた「マンハッタン計画」は、多くのユダヤ人科学者が参加したことで知られている。

有名なオッペンハイマーといえば、「原爆投下は日本に警告なしに行なわれるべきだ」と反日的な強硬論を主張した人物である。
彼は、最初から最後まで投下目標について日本だけを論じており、ドイツを投下目標として論じたことはなかった。
彼は戦時中、日本への原爆使用に反対した科学者たちを巧みにのけ者にしていった。
そして、1945年7月に、ロスアラモスで最初の原爆実験に成功した際、狂喜して、「今、私は死神になった。世界の破壊者だ!」と叫んだ。

ちなみに、「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者の中で、もっとも反日強硬派だったのはフォン・ノイマンだろう。
彼は日本人を蔑視し、京都を原爆の最初の血祭りにあげるべきだと主張。
京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっていたというまさにその理由によって、京都の破壊を求めていたのである。

しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官の反対によって、京都は原爆のターゲットから外された。
彼は、京都の代わりに長崎の追加を指示したのである(1945年7月22日)。
スチムソンが京都を原爆のターゲットから外した理由として、「スチムソンは京都が歴史のある都市であることを理解していたから」という“美談”で語られる場合があるが、だまされてはいけない
この“美談”は、戦後、GHQがお涙頂戴好きの日本人を洗脳する為に、意図的に流したニセ情報である。

アメリカ軍部の一部は京都を原爆投下目標とすることを諦めず、空襲を実施しなかった。
原爆投下後に原爆の影響を正確に把握するため、空襲が禁止されていたのである。
京都が最後まで空襲されなかったのは、原爆投下の前に日本が降伏したからにすぎない。
スチムソン以外にも、「京都を戦禍から救った恩人」と言われるアメリカ人が何人かいるが、すべて何の根拠もない流言に過ぎないのだ。
詳しくは吉田守男著『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』を読んで欲しい。
当時のアメリカ政府は、日本の文化遺産を根こそぎ破壊することに、なんのためらいもなかったのだ。

「マンハッタン計画」をスタートさせたルーズベルト大統領は、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。
一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。
当時のアメリカの雑誌にはこう書かれていた。
「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」
「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない。」彼は、強烈な親中反日主義者だった。

ブレーミー将軍はこう演説していた。
「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。日本人を根絶しなければならない!」

ところで、「強制収容所」といえば、真っ先にナチスを思い浮かべる人は多いと思うが、第二次世界大戦中、自由と民主主義の国、アメリカ合衆国にも「強制収容所」があった。
それも日本人と日系人専用のもので、約12万人もの民間人が財産と市民権を奪われて、カリフォルニア州からルイジアナ州までに広がる10数ヶ所の強制収容所に収容されたのである。
このアメリカの日系人に対する強制収容政策の裏には、白人の有色人種に対する人種的偏見や差別意識があったことは明らかである。
この時期、同じ敵国であったドイツ系・イタリア系のアメリカ人は「お構いなし」の状態だった。

ヘンリー・スチムソン。
広島と長崎への原爆使用を決定した。
彼は日系アメリカ人を強制収容所に送った最高責任者でもある。
戦争が終わると、スチムソンは、原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と発言(1947年2月)。
これが原爆使用正当化の定説となった。(「原爆神話」の誕生)。

念のために繰り返しておくが、「原爆の責任は全てユダヤ人にある」と主張するつもりはない。これら原爆に関わったユダヤ人たちに対する評価は、人によって大きく分かれると思うが、いずれにせよ、広島と長崎の悲劇は、アメリカが犯した「戦争犯罪」だったことは確かである

「原爆ホロコースト」に重大な責任がある人物を挙げるなら、その筆頭は、直接ゴーサインを出したトルーマン大統領だろう。
「原爆の誕生」自体は、当時の原子物理学の流れにおいて避けられなかったとしても、原爆の「実戦使用」に関しては、彼個人の「政治的な判断」で避けようと思えば避けられたのだ。
しかし彼は、原爆を使わずに戦争を終わらせるなどとは考えもしなかった。
彼は誕生したばかりの超兵器=原爆を使用したくてたまらなかった。
人間のいない荒野で爆発させるのではなく、人間が密集する大都市の上で爆発させて、その破壊力を試してみたい気持ちに駆られていたのだ。人体実験をしたかったのだ。
彼は日本から提示された降伏条件をはねつけ、日本への原爆投下を命じた。
しかも無警告で。2発も。
そうしたうえでその降伏条件を認めたのだった。
彼は自分の行動を正当化するために、「原爆投下により100万のアメリカ兵の生命が救われた」とする「原爆神話」を積極的に広めた張本人でもある。

  〜〜*〜〜

▼広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、1994年に次のように述べている。

「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。
だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。
第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。
第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。
たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。
そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。
第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。
加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」
トルーマン大統領は原爆の惨状についての報道を一切禁止し、被爆治療を徹底的に妨害した。
そして、被爆者を「治療」せず「実験動物」のように観察する組織「ABCC」
(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置した。

▼広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。
まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。

「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 
ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。
これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。
そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。

その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。
そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。
日本政府もそれに協力しました。
こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。

しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実です。
私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。
あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。

このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。
このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。」

  〜〜*〜〜

現在では、原爆は恐らく戦争を長引かせ、アメリカ兵の命を救うどころか、奪ったと信じる歴史家もいる。
なぜなら、国務次官ジョセフ・グルーは、1945年5月には降伏条件を変えるだけで戦争は終結すると大統領に進言しており、また大統領は原爆が完成するまで明らかにそれを引き延ばしたからである。
タフツ大学の歴史家マーティン・シャーウィンは、「トルーマン大統領がジョセフ・グルーの助言を受けていれば、アメリカ兵、日本人の犠牲者の数は大幅に削減されたことであろう」と語っている。

スチムソン陸軍長官もまた後になって、「歴史の中で、アメリカは降伏の条件を延期したことによって戦争を長引かせた」としている。

結局、アメリカが日本に対して原爆を使用したのは、前章でも触れたように、戦争を早期に終結させるためではなく、戦後の対ソ外交を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったためである。

アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に議論していたのだ。

大戦末期、米軍幹部の間では、原爆を投下しなくてもいずれ日本は力尽きるという予想が大勢をしめていた。
しかし、トルーマン大統領は、ソ連の対日参戦で日本が降伏する前に、原爆という圧倒的なインパクトのある兵器を投入することで、日本にとどめを刺したのはソ連ではなく原爆、というイメージを全世界に与えようとしたのだ。


後編へ続く・・・

参考:ヘブライの館HPより
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最後に・・・ (現代編)
2005-09-19 Mon 18:19
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何千年も前から宗教と政治に振り回され続けている人間。
何故、同じ人間同士、戦い傷つけるのでしょうか。
宗教は人間を導くもの、心のよりどころになるはずのものなのに、政治に利用されて迫害や戦争の原因にされ、人間に艱難辛苦を与えてしまうという矛盾。
これは一神教のせいだといわれています。
他の宗教を認めない → 他宗教を信じる人・国を認めない → 差別する →殺戮・・・これが延々と繰り返されてきた人間の歴史。

最後は、現代の模様と未来の平和への希望はあるのか、という期待と不安を含め、パレスチナ問題のカテゴリーの〆にしたいと思います。

池の中に小石・・・いや、ここは弱小ブログなので、水溜りの中に砂粒を投げてみました(笑)
砂粒であってもみなさんの中に、小さくてもさざなみが立てられたら嬉しいです。
そして、いかにつまらないことで世界がもめていて、何万人もの人が死んでいるのか・・・を感じ取ってくださることを願って。
そしてパレスチナ問題が日本も他人事ではない、無縁ではないということも。


  〜〜*〜〜

欧米キリスト教勢力の中東戦略は20世紀半ばに入ると、より露骨なものになります。
1948年に国連の承認を得て建国された“イスラエル共和国”という人工国家は、100万人以上のパレスチナ難民を生み、アメリカの全面的なバックアップを受けて中東一の軍事国家となり、周囲のイスラム諸国を挑発し続け、実際に武力介入&領土拡張(不法占拠)を行ないました。

有名な「モサド」という超一流諜報機関と最新兵器に身を固めたイスラエル精鋭部隊は、常時、イスラム勢力の動向と旧ソ連の南下政策ににらみを利かせることに成功してきたわけですが、歴代のイスラエル政権が白人系ハザール人によって独占され続けていることを含めて、イスラエル共和国というものは建国当初から、欧米勢力が軍事的経済的戦略を中東の地で展開する上での「不沈空母」としての役割を宿命づけられていたことが伺えます。

しかし、80年代後半あたりから、イスラエル共和国の存在価値は軍事的な面においても経済的な面においても、欧米勢力にとって以前ほど重要ではなくなってしまったと言われています
イスラエル共和国の中東におけるイニシアティブの低下を世界に見せつけたのは、1990年8月2日以降の湾岸危機であり、湾岸戦争だったといえます。
なぜならば、この時、イスラエル軍の力を借りずして、アメリカ主導の多国籍軍によって中東をコントロールすることができるようになってしまったためです。

イラク軍のスカッドミサイルを市街地に打ち込まれながらも、出撃をアメリカに制止され、屈辱に耐え忍んだイスラエル市民の姿はまだ記憶に新しいです。
このイスラエル軍不参加の湾岸戦争を境にして、国連はその巨大な中央集権能力をもって世界の表舞台に立つことになったわけですが、冷戦終結や湾岸戦争を境にして欧米の中東戦略そのものが急変してしまったといえるでしょう。

また、湾岸戦争後に大きな動きを見せたのはカトリックの総本山であるバチカン(ローマ法王庁)です。
1993年12月、バチカンは独自の外交権を駆使して、イスラエル共和国との国交を樹立させました! 
新聞では「2000年がかりの和解」という見出しが踊っていましたが、両国の国交締結はイスラエル政府が不法占拠し続ける「聖地エルサレム」の帰属問題をユダヤとアラブだけの問題ではなく、全世界的な宗教問題として広げることになったといえます。

ちなみにバチカンは、1965年の「第二回バチカン公会議」において、「イエス処刑に責任があるのは直接関与したユダヤ人だけだ」との公式声明を出し、ユダヤ勢力に歩み寄りの姿勢を示していました。
更にバチカンは、湾岸戦争後に対イスラエル関係に限らず、アラブ諸国との活発な外交活動を開始しており、中東和平という枠組みの中に積極的に入り込んでいこうとの姿勢を明らかにしているわけですが、今後、中東問題におけるバチカンの国際的発言力は急速に高まっていくものと思われます。
(参考までに、バチカンは聖地エルサレムは国連によって“国際管理”されるべきだと主張しています)

戦後の中東地域は、イスラエル共和国の建国によって永続的な政情不安定状態に置かれてきたわけですが、イスラエル共和国をサポートしてきた欧米キリスト教勢力がイスラム勢力に対して、歴史的にどのような態度を見せてきたか、そして今後どのような態度を見せていくのかに注目することなしには、バチカンを含めた欧米勢力が描く“中東和平構想”という代物を総合的に考察することができないと思われます。

現在、中東地域には険悪なムードが漂い始めておりますが、今後の中東情勢を測る上で筆者が大きな関心を払っているのは、「アメリカによる露骨なイラン叩きの行方」です。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争や湾岸戦争を見て、現在のアメリカ主導の“国連”の活動を“十字軍活動”になぞらえてしまうのには、多くの無理があるかもしれませんが、近い将来、イランを中心に結成されたイスラム連合が第二次湾岸危機を起こし、国連によって最終的に征伐されるという最悪パターンがチラつき始めています。

世界警察を目指すアメリカ主導の国連の軍事戦略、宗教的主導権の世界的確立を目指すキリスト教勢力(バチカン)のエキュメニカル運動、中東和平そのものをご破算にしかねない強硬派ジオニスト勢力(ネタニヤフ政権)のかたくなな態度、アメリカとの対立を先鋭化しつつあるイラン&イスラム原理主義勢力などなどの諸勢力の思惑を絡めた、総合的な中東情勢分析・未来予測も、慎重に展開していく必要があると思います。

   〜*〜

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あまりにも複雑かつ気が遠くなる話なので、私個人の意見だけでまとめるのは無理がありました。
みなさんがこのような資料を読んで各自で感じてもらう方がいいと思い、資料的には「ヘブライの館」HPが1番わかりやすいので参考にさせていただきました。
あと、またの機会に、広島・長崎の原子力爆弾製造・投下にユダヤ人が積極的に関係していたこともアップしたいと思います。
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世界の金融システムを作った人たち (歴史編)
2005-09-19 Mon 11:27
歴史というものは、(当たり前のことですが)ずっと繋がっていて、ただひとつの事柄・結果だけで判断しては危険だし、事実が歪められる可能性もあります。
そして、その歴史には、国と国、さまざまな個人と個人の思惑が絡み、経済や政治・宗教が介入して作られていく・・・
つまり人、私たちひとりひとりが作っていくもの、でもあるということ。

パレスチナ問題について長くなりましたが、ユダヤ人と、世界の金融システムについて要望がありましたので、参考資料をアップします。
今までの資料を断片的にでも読まれると、今のパレスチナに関していろいろ見えてきたのではないでしょうか。
そして、パレスチナ人と同じ宗教を持つ、アフガンやイラクなどイスラムの国が何故、欧米に対してテロを行うかも・・・
欧米諸国(特にアメリカ)・ユダヤ・アフガン・イラクなどのイスラム諸国のテロリストについての関係、ずっと昔からの歴史の流れがあるわけです。
日本は人種差別の問題にも宗教的にも全然無関係なのに、ただ、「テロは悪だ」というだけでアメリカに追随していっていいものでしょうか。
巻き添えを食いかねない危険があるわけです。

「なんで今、パレスチナ問題なの?」と、疑問に思われたかたもいるでしょう。
パレスチナ問題、ユダヤ人問題、欧米の酷い人種差別と植民地支配からのツケ、テロ、核問題・・・全て繋がりがあります。
私たち日本人には今となってはもう、無関係ではなく、この大きな手のつかない問題に、既に片足を突っ込んでいる状態なのです。

  〜*〜

▼世界の金融システムができた流れについて

ユダヤ人金融家は、迫害の離散状態を生かし、遠い町との貿易決済業にたずさわるようになり、為替技術を発達させた。
さらに彼らは、貿易商人から毎月いくらかの積立金を徴収し、船が海賊や遭難の被害にあったときの損失を肩代わりするという保険業や、事業のリスクを多人数で分散する株式や債券の考え方を生み出した。

一方、中世にはユダヤ人だと分かっただけで財産を没収されることがあったので、ユダヤ人にとって自らの名前を書かねばならない記名型の証券は安全ではなかった。
そのためユダヤ人の金融業者たちは、無記名の証券(銀行券)を発行・流通させる銀行をヨーロッパ各地で運営していた。
この技術は、やがてヨーロッパ諸国が中央銀行を作り、紙幣を発行する際に応用された。

こうしてみると、銀行、為替、保険、証券、債券といった現在の金融業態のすべてに、ユダヤ人は古くからかかわり、金融システムの構築に貢献したことになる。
中央銀行や株式市場ができて、ユダヤ人金融業界内部にあった金融システムを国家が肩代わりしてくれることは、地位が不安定なユダヤ人にとっては資産の安全性を確保できる望ましいことだった。

彼らはシステムを囲い込むことをせず、積極的なノウハウの提供を行ったが、それは自分たちのルールを世界に通用させることにつながった
はるか後の現在まで、ユダヤ人の銀行や証券会社が金融市場を牛耳ったり、中央銀行の決定に影響を与えたりできるのは、この「創業者利得」から考えて、歴史的必然であるともいえる。
シャイロックに象徴されるベニスの商人とその同僚たちがいなかったら、現在のような金融ビジネスは生まれなかっただろう。

そして、イギリスとユダヤ人との関係について・・・

▼イギリスとロスチャイルド家

産業振興や、市場獲得のための侵略戦争など、国家の運営に必要な資金を最も上手に調達できるユダヤ人は、ヨーロッパの各国の王室にとって、なくてはならない存在となった。
各国政府の中枢に食い込むことは、差別されやすいユダヤ人にとっては安全確保の手段でもあった。

ヨーロッパ各国政府のなかで、最もユダヤ人に寛容なのはイギリスであった
イギリスは政教分離や国家の近代化、産業革命が大陸諸国よりも早く、ユダヤ人を重用することの利益が明確だったからだろう。

各地に分散するコミュニティをつないで、貿易や為替、金融の取引をしていたユダヤ人の技能は、世界各地に設立した植民地を一体運営する「大英帝国」の発展にも役立った。
イギリスでは1858年からユダヤ人でも国会議員になれたし、19世紀の後半には、大蔵省や外務省などの官庁に、かなりの数のユダヤ人官僚が在籍していた。

この時代に民間資本家として、イギリスの国家運営に最も影響を及ぼしたユダヤ人は、ロスチャイルド家の人々であった。
この一族は、もともとドイツ・フランクフルトのゲットーにいた高利貸しだったが、1793年に始まったナポレオン戦争の後、ヨーロッパで多発するようになった国家間戦争のための資金調達をあちこちの政府から引き受けることで、急速に力をつけた。
一族のうちの一人は1797年、産業革命が始まっていたイギリスに進出し、綿花産業への資本提供やドイツなどへの販路拡大を引き受けて大成功し、イギリス政府に食い込んで資金調達を手伝うようになった。

ロスチャイルド家がたどった歴史の詳細は、よく分かっていない。
彼らは他のユダヤ人資本家と同様、自分たちに関する情報が広がって反ユダヤ弾圧に使われることを恐れ、亡くなった家族の日記や手紙、メモなど一切の記録を焼いてしまうような情報管理を行っていたためである。
実態が分からないので、仕方なく反ユダヤの人々は「陰謀家」のレッテルを一族に貼り、マイナスのイメージを語り継ぐようになった。

ロスチャイルドは、稼いだ金をふんだんに使って慈善事業を展開することでも知られていた。
その事業の一つに、19世紀末に帝政ロシア政府が国内のユダヤ人に対する激しい弾圧を展開し、多くのユダヤ人がロシアを逃げ出したとき、彼らを後に「イスラエル」となるパレスチナに移民させ、資金を出して集団農業を作ったことがある。
この事業こそ、イスラエルの建国とパレスチナ問題の発生につながる最初の起源であった。


ヘブライの館HPより


そして、イギリスとロスチャイルド家は、イスラエル建国の取引き(バルフォア宣言)をした・・・
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パレスチナ問題のキッカケ (歴史編)
2005-09-17 Sat 22:33
紀元1世紀前後に、古代ローマ帝国に迫害されたオリジナル・ユダヤ人(東洋系ユダヤ人)の多くはスペインに移住していたが、このイスラム勢力下にあったスペインが、15世紀にキリスト教勢力に支配されると、スペインの地にいたユダヤ人は全て国外追放されてしまった。
(1492年の有名なユダヤ追放事件)
ユダヤ人を追放しなかったキリスト教国でも、イエスを殺害した民族という偏見から、ユダヤ人は抑圧対象とされた。中でも「ユダヤ人集団隔離居住区(ゲットー)」の誕生はその典型である。

ゲットーは1554年にヴェネチアに初めて設置されたもので、ローマ教皇パウルス4世がユダヤ人にゲットーへの居住を強制すると、またたくまに世界各地へ広まった。
ゲットー内ではシナゴーグ(ユダヤ教会堂)や学校が設置され、ユダヤ人の高い教育水準と宗教文化が保たれることになったが、ユダヤ人に対する差別政策は完全に制度化してしまったのである。

しかし、全てのユダヤ人がゲットー生活を強いられていたわけではなかった。
完全に自由な特権を享受していたユダヤ人が存在していたのである!
彼らはドイツ諸侯の高級官僚や宮廷出入りの御用商人となっていたため「ホフ・ユーゲン(宮廷ユダヤ人)」と呼ばれていた。
彼らは天性の商才によって、莫大な富を蓄積していった。
現在、世界最大最強の財閥として地上に君臨しているロスチャイルド財閥も、もともとはホフ・ユーゲンの出であることで知られている・・・

1789年、「自由・平等・博愛」を掲げるフランス革命が勃発すると、その2年後に、フランス議会はユダヤ人に平等の権利を認めた。
つまり、法的にユダヤ人差別の撤廃が決定されたのである! 
これはユダヤ史上、画期的な出来事であった。
ナポレオンがその人権宣言を基に、ユダヤ人を隔離してきたゲットーを解体すると、その潮流はヨーロッパ各国に広がっていき、世界的にユダヤ解放政策が行なわれた。

もともと優秀な頭脳に恵まれていたユダヤ人は、それまでのゲットーでの隔離生活から解き放たれると、水を得た魚のように爆発的に各界に進出し、各地で目立つ存在になった。
しかし、ユダヤ人の解放が行なわれたとはいえ、それは法的なレベルであり、現実的にユダヤ人差別が解消されたわけではなかった。
ユダヤ人は国家を持っていなかったので、他人の国に住み着くしかなかった。
そのため民主・民族主義の興隆とともに、ユダヤ人を自分たちの国から排除しようとする強烈な反ユダヤ主義勢力(ナチスなど)が台頭するという最悪の事態が生じた。

19世紀初頭から、ドイツを中心に反ユダヤ暴動が起こっているが、これはユダヤ人を諸悪の根源とみなす過激な反ユダヤ主義運動にまで発展し、1870年代頃から顕著になってきた。
ロシアでは1881年から「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人大虐殺事件が波状的に起こり、十数万人がその犠牲になった。
1894年のフランスでは、ユダヤ人士官アルフレッド・ドレフュスが国家機密文書をドイツに売ったというスパイ容疑で逮捕されるという「ドレフュス事件」が起こり、真偽を巡ってフランスの世論は二分された。
この事件は結局、冤罪ということが判明したが、ドレフュスがユダヤ人であったために、犯人にでっちあげられたのである。

近代ヨーロッパ社会において、ユダヤ人の解放と脱ユダヤ化(キリスト教社会への同化現象)が進むようになってからも、ユダヤ人に対する弾圧や差別は依然として解消されなかった。
そのために、ユダヤ人の間に伝統への回帰指向が強まり、“ユダヤ版の民族主義”すなわち「シオニズム(シオン主義)」が盛んになっていった。
ここでいう“シオンの丘”とは、かつてソロモン神殿があった聖地エルサレムを中心にしたパレスチナの土地を意味している。

近代における反ユダヤ主義と民族主義の台頭が、シオニズム運動形成への大きなベクトルとなったことは疑いがない。
ユダヤ人は迫害されればされるほど民族的結束を強めていき、自分たちの民族的独立を夢見た。

シオニズム運動の先駆者にはヘスなどがいたが、政治的シオニズム運動に決定的な役割を果たしたのはヘルツルであった。
この「ユダヤ建国の父」と称されるヘルツルは、シオニズム運動とは全く無縁な“同化ユダヤ人(キリスト教社会同化者)”であった。
ところが、フランスのドレフュス事件に遭遇し、自らの民族感情を呼び覚まされたのであった。
ヘルツルは、ユダヤ人の悲劇の根源は“国家”を持たないところにあると考え、ユダヤ国家樹立こそ急務であるとした。
シオニズム運動の国際認知のために、精力的な外交活動を展開していった。

一口に“シオニズム”といっても複雑多様な運動形態があったわけだが、互いに反目しあったり、更にはシオニズムそのものに反対するユダヤ人も多かった。

文化的シオニズム運動」を提唱していたアムは、ヘルツルの「政治的シオニズム運動」を批判していた。
また、ユダヤ教の主流ともいうべき伝統にのっとった「ユダヤ教正統派」は、シオニズム運動そのものが世俗的なものであるとして支持しなかった。
ユダヤ人社会主義組織「ブント」のメンバーも、シオニズム運動を“反動ブルジョア的”と決めつけ非難していた。
更に「ユダヤ教改革派」も、ユダヤ人は民族ではなく宗教集団であるから、国家を樹立する必要はないとして反対していたのである。

しかし、興味深いことに、シオニズム運動は、第一次と第二次にわたる「世界大戦」を通じて急激な展開を見せていく・・・。

  〜〜*〜〜

1914年に始まった第一次世界大戦において、イギリス政府はユダヤ人に対して、連合国を支援すればパレスチナにユダヤ国家再建を約束するという「バルファア宣言」を行なった。しかしこのバルフォア宣言は、実際にはイギリス政府とユダヤ人大富豪ロスチャイルドとの間で勝手に交わされたもので、パレスチナの地に圧倒的多数を占めるアラブ人の意向を全く無視した約束だった

シオニズムを支持するユダヤ人たちはイギリス政府の約束を信じ、連合国に協力して参戦。
第一次世界大戦後、パレスチナ地方はそれまでのオスマントルコ帝国の支配からイギリスの信託統治領(植民地)となった。ユダヤ人たちは、いよいよユダヤ国家建設が本格的に着手されると胸を躍らせた・・・。

しかし、イギリス政府はユダヤ人に対するバルフォア宣言以前に、アラブ人側と「フセイン・マクマホン書簡」も取り交わしていた! 
イギリス政府はユダヤと同じような取り決め(アラブ国家樹立の約束)をアラブ側にも行なっていたのである! 
あの有名なアラビアのローレンスは「アラブ国家樹立」を夢見て活動していたわけであるが、結果的にユダヤ国家樹立計画もアラブ国家樹立計画も宙に浮いてしまったのは、誰もが知るところである。

宙ぶらりん状態になったパレスチナ地方は、 イギリスとフランスの植民地になってしまった! 
しかも、それまで仲が良かったユダヤ人とアラブ人との間には大きな亀裂が生まれ、この時にアラブ人による本格的な反ユダヤ運動が初めて開始された。
そして、ヨーロッパにおける反ユダヤ運動が高まり、それを恐れた多くの白人系ユダヤ人が東方の地パレスチナの土地を買い漁り、入植を始めると、アラブ人の反ユダヤ感情は激しいものとなっていった。

1930年代、ドイツに反ユダヤ主義を高々と唱える「ナチズム(アーリア人至上主義)」 が台頭してくると、シオニズム運動に対して意見がまちまちであったユダヤ人たちは一致団結し、進んでシオニズム運動に協力するようになった。

ナチス・ドイツによる過激なそして露骨なユダヤ人迫害( ホロコースト)が世界に報道・宣伝されると、世界の多くの人々がユダヤ人に同情するようになった
多くの人がファシズムを恐れ、ユダヤ人に涙した。
ナチスをきっかけにユダヤ人に対する国際世論が180°転換され、良好になったことは、ユダヤ史において非常に重要な意味を持っている。
この時期を境にして、ユダヤ人の国際的発言力は高まった。

ナチスのホロコーストが誇張されて報道されているとか、アウシュビッツは無かったとか、一部の特権的ユダヤ人がナチスに資金援助していたとか主張する研究家が後を絶たないが、真偽はともかくいずれにせよ、“ユダヤ人”と呼ばれる多くの人間が徹底的に迫害されたことは歴史的事実である。

国際世論に支持される形で勢いに乗ったシオニズム運動は、第二次世界大戦終結後にイスラエル共和国を樹立するという快挙を成し遂げた。
しかし、イスラエル共和国がユダヤ人の純粋な“宗教心”によって建国されたと断定してしまうには、あまりにもムリがあるように思える。

ユダヤ人が悲願の建国を果たしたイスラエル共和国を、 超正統派ユダヤ人は認めようとしない。
なぜならば、イスラエル共和国は建国において“メシア信仰”を無視し、しかも政教分離という近代国家の原則を採用した世俗国家であるためだという。
超正統派ユダヤ人からすれば、このようなイスラエル共和国が“国家”と名乗ること自体、神に対する許しがたい冒とくに他ならないという。

この超正統派ユダヤ人は「聖都の守護者」を意味する「ナトレイ・カルタ」と呼ばれ、現在のイスラエル共和国はユダヤ教の本質を完全に逸脱した世俗的な寄せ集め集団に過ぎない、として徹底的に批判している。
超正統派のユダヤ人の主張によれば、メシア(救世主)が出現して初めて真の栄光に満ちたイスラエル国家が誕生するという。
従って彼らは、メシアの出現を待望してやまず、祈りと戒律を厳守した極めて求道的な生活を日々送り続けている。

超正統派ユダヤ人の主張に限らず、イスラエル共和国が全てのユダヤ人にとっての理想の国であるのかといえば、必ずしもそうといえない現実がある。
膨大な軍事費や移民政策により、国家財政は赤字であり、インフレ率も極めて高い。
希望に満ちてイスラエル共和国に移住したものの、 失望してもとの国へ帰ってしまうユダヤ人も少なくない。

しかも、イスラエル共和国に住むユダヤ人よりアメリカ合衆国に住むユダヤ人のほうが100万人も多い。
また、ユダヤ教そのものが風化し始めており、イスラエル共和国の持つ宗教的求心力は弱まりつつある。
中東戦争は過去4回も行なわれ、かつて迫害される立場にあったユダヤ人は、現在、 パレスチナ先住民を迫害する立場に立っている。
何かが矛盾している。
世界の多くの人々も、イスラエル共和国に何か矛盾したものを感じ始めているようだが・・・


ヘブライの館HPより。
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オルガ・アピール
2005-09-13 Tue 17:41
・・・とはいえ、もちろんイスラエルの中にも心ある人々はたくさんいます。
イスラエルの政治が過激なのは、権力を極右翼が握っているからです。

これは、イスラエルの中の町、オルガから出された声明です。
ユダヤの左派と学者たちの、いわば内部告発みたいなもの。
これを読めば、いかに今のパレスチナ情勢がどんなものか想像できると思います。
私はナチスドイツのアウシュビッツの残忍な殺戮まではユダヤ人に対し、100%同情していました。
でも、3000年前に住んでいたから、と言って今まで住んでいたパレスチナの人々を追い出して奴隷のように扱うことが許されることでしょうか。

9.11のテロは決して許されるものではありません。
しかし、何故アラブの過激派からアメリカが狙われたか、の背景が見えてきませんか?
そしてイラク戦争に加担したイギリスでのテロ。
イラク戦争も今はアメリカの原油に対する執着、利権を狙って起したものだといわれています。
日本のこれからは・・・?
自衛隊はどうすればいいのでしょうか?
アメリカの建前と本音が違うことをアラブ人は知っています。
暴力は暴力でしか返ってこないのです。



「オスロ合意から10年、我々は愚かなる植民地支配の現実を生きている
──これこそが問題の核心だ。」
オルガ・アピール
〜真実と和解のために、平等とパートナーシップのために。
イスラエルの中からの声
 (翻訳:岡田剛士)
                             
       オルタナティブ・インフォメイション・センター〔AIC〕
                           2004年7月25日

イスラエル国家はユダヤ人たちの安全保障を実現することになっていた。
ところがこの国家は、死の落とし穴を作り上げてしまい、住民たちは絶え間ない危険にさらされながら生きている。
このような状況は、他のいかなるユダヤ人社会においても経験されたことはない。
 
イスラエル国家はゲットーの壁を突き崩すことになっていた。
ところがこの国家は、ユダヤ人の歴史において最初で最大のゲットーを今まさに建設しつつある。
 
イスラエル国家は民主主義を実現することになっていた。
ところがこの国家は、見誤ることができないほど明確なアパルトヘイト的諸要素と暴力的な軍事占領の意図的な継続とを結合した、1つの植民地支配構造を打ち立ててしまった。
 
2004年の今イスラエルは、どこに行き着くかも分からない道の途上の国家となった。
建国から56年──農業や科学技術の分野での多くの成果にもかかわらず、最後の審判の日のための武器で武装した、この地域における軍事大国であるにもかかわらず──その市民の多くは、存在自体に関わる悩みと自らの将来への不安を抱えて意気消沈している。
 
イスラエルは、その建国以来ずっと剣に頼って生き延びてきた。
「報復」の絶え間ない継続、そして繰り返される軍事作戦と戦争が、イスラエルのユダヤ人たちの生命維持のためのドラッグとなってしまったのだ。
そして今、パレスチナ人たちの第2のインティファーダ開始からほぼ4年が経過し、イスラエルは占領と抑圧のぬかるみに首まで浸かりながら、それでもなお自らに対して「我々は和平交渉をしたいのに、適切な相手がいないのだ」などと、うんざりするほど繰り返しながら、入植地を拡大し、仮設入植地も倍加させ続けている。
 
オスロ合意から10年、我々は愚かなる植民地支配の現実を生きている──これこそが問題の核心だ。
ヨルダン川西岸地区とガザ回廊に残っていたパレスチナ人たちの領土をイスラエルが征服してから37年間、そのイスラエル支配下で350万人以上のパレスチナ人たちが自らの町や村に閉じ込められている。
「パレスチナ国家」という言葉は──長年、和平のための具体的な選択肢を意味していたのだが──今や多くのイスラエルの政治家たちによって、占領の現実を見えなくさせる蜃気楼のごときフレーズとして使われている。
つまり、こうした政治家たちは、抜け目なく目配せしながら囁く──「将来においては、パレスチナ人たちの領土における彼らの存在は『国家』と呼ばれることになるでしょう」と。
そして同時にイスラエルは、西岸地区とガザ回廊の惨状をさらにひどいものにしている。
まるでパレスチナ人たちを粉々の灰にしてしまおうと決意しているかのようだ。
 
オルガ・アピールの続きを読む
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イスラエル軍ガザから撤退完了
2005-09-12 Mon 19:26
<アパルトヘイト・ウォール>
まるで、ナチスドイツ下でユダ人達が強制収容されたゲットーのように、
今もパレスチナの町が巨大な「壁」で囲い込まれつつある。
地中海沿岸に沿って、長く巨大な壁が築かれている・・・
qalqiliyawall.jpg

(クリックすると拡大します)
地図のずっと下のエルサレム以南にも建設が予定されている。
uuuuu.jpg

画像はヘブライの館2よりいただきました。

イスラエル軍が、占領地ガザ地区から、12日早朝までに全域からの撤退を完了した。
軍隊が入ってから38年ぶりの自由となったパレスチナ自治区。
パレスチナ人は「この100年で経験したことのない喜びだ」と、大喜びしている。
長い間ずっと、一方的に一箇所に押し込められ、壁を張り巡らされた中に閉じ込められていたわけだから開放感もひとしおだろう。
開放されたといっても、誤解なく。
兵士がいなくなっただけで、相変わらず壁の中に押し込められているのに変わりはないのだ。

しかし、このにせ和平というべき撤退劇の裏には、”(ガザ地区に対して)イスラエルは陸海空のコントロールを保持していて、自分たちは武力を行使することができ、出入国(物流も含めて)の権限も持っているのに変りはないらしい。
(↑シャロン首相オフィスによる「撤退計画の概要」による)
ガザ内に兵士やユダヤ住民がいなくても、それは占領となんら変わりはない。

リンク「子供を殺すことはもはやたいしたことではなくなっている」
リンク「イスラエル人にナチスを連想させた兵士の行動」

ここ数日ユダヤ人の歴史の資料をご紹介したが、ユダヤ人は迫害を受ける立場ばかりではない。
戦後からは迫害をする側に回っているのだ。
しかも、バックには、アメリカがスポンサーとなっていて、イスラエルのために国連を動かしている。

国連がユダヤ人にパレスチナの地でイスラエルを建国することを許可した。
イスラエルは1948年と1967年に80万人のパレスチナ人を家から追い出し難民にした。
国連が何故そんな無謀なことをしたかと言えば、もちろんアメリカの発議・決定権が大きいから。
アメリカの経済を握る大金持ちはユダヤ人が多いのだ。
そしてあらゆる政治家に莫大な政治献金をしたり、イスラエルに資金を送っている。
リンク「イスラエル支援企業」
マクドナルドやアフリカで搾取しまくりのスターバックス・コーヒーなど。
欧米ではボイコットキャンペーンの対象になっています。
それと、コカコーラのコロンビアでの人権侵害。
許せないのは、マイクロソフト社
イスラエル軍によるジェニンへの侵攻と虐殺が行われていた 2002年 4月、マイクロソフトは、イスラエルのテルアビブ付近の高速道路脇に「心からイスラエル国防軍への感謝を捧げます」と書かれた広告を多数掲げた。
これはジョークのつもりだろうか。
開いた口がふさがらない。
アメリカの巨大企業(ユダヤ人経営が多い)はアフリカや中南米で植民地時代そのままに搾取を続け、その利益をイスラエルに送っているのだ。

差別された者が、今度は差別をする。
差別されたからこそ、痛みがわかるはずなのに・・・

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何故汚名をきせられたのか。(歴史編)
2005-09-11 Sun 17:08
旧約聖書のユダヤ人と現在のユダヤ人は関係がない(キリスト殺しではない)のにも関わらず、何故、ユダヤ人が迫害され続けるのか・・・
結局は、宗教や権力者に都合のいいように利用され続けた・・としかいえません。
その背景には近親憎悪。
3つの宗教は、実は元は同じ宗教(ユダヤ教)なのだという意見。
(それぞれは否定していますが)

 〜*〜

「聖都」エルサレムの聖域の中心は、城壁に囲まれた旧市街の東側にある「神殿の丘」である。
高い石垣に囲まれた、長方形の丘になっているこの土地は、ユダヤ教とイスラム教の両方にとって聖地なのだが、イスラム教の聖地は丘の上にあり、ユダヤ教の聖地は丘の地中にあるという、2階建て構造になっている
この丘は、イスラエルとパレスチナ、ユダヤ教徒とイスラム教徒との、激しい対立の焦点になっている。
その背景には、この丘や、パレスチナ地方のいくつかの場所が、2つの宗教にとって聖地として重なっていることにある。

(西欧諸国が最近の100年間あまりの間に、ユダヤ人を植民地支配の「尖兵」として中東に送り込み、そういう対立構造が仕立てられたという見方もできる)

神殿の丘を最初に聖地としたのはユダヤ人だった。
紀元前1000年ごろ、古代イスラエル王国を統一した王ダビデが、エルサレムを首都と定めた。

ユダヤ教には、ユダヤ人の最初の祖先アブラハムが「神」に忠誠を試され、命じられるままにモリア山という場所で息子イサクを殺そうとしたが、殺す寸前で神から制止されたという故事があった。

ダビデは、エルサレムの中心をなす神殿の丘が、この故事が起きたモリア山であると主張し、そこを聖地とした。
ダビデ王の息子のソロモン王の代になって、ここに神殿が作られ、アブラハムがイサクを乗せて殺そうとした場所であるとされる岩が、神殿の祭壇になった。
(ずっと後代に、この岩を囲んで「岩のドーム」が建造された)

▼地中にある失われた神殿に向かって祈る

やがて、古代イスラエル王国は2つに分裂した後に滅亡した。
神殿は侵攻してきたバビロニア軍に破壊され、ユダヤ人は職人や知識層を中心にバビロニアに連行されて使われた。
彼らは50年後にエルサレムに戻ることを許され、再び神殿を作り直した。

その後ギリシャやローマ帝国の支配下に入ったものの、紀元前1世紀にローマ帝国からこの地域の国王に任命されたユダヤ人のヘロデ王は、ギリシャ・ローマ風の新しい大神殿を建造し、ユダヤ人をローマ帝国に従わせようと図った。

ところがその後になってローマ帝国の支配に反発するユダヤ人の反乱が2回も起きたため、帝国はヘロデ王の神殿と市街地を破壊して廃墟にしてしまい、多くのユダヤ人がエルサレムから追放されたり奴隷として売られ、2000年近くにわたる国を持たない離散状態に入った。

紀元3世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になると、エルサレム市はキリスト教の発祥地として再建された。
ユダヤ人もエルサレムに戻ることを許されたが「キリストを殺した罪人」として扱われ、神殿の丘への立ち入りは禁じられて、ユダヤ教の神殿は廃墟のまま放置された。

ユダヤ人たちは、神殿の丘の山腹を成している壁面に向かって立ち、神殿が失われたことを嘆きつつ、廃墟として地中に埋まっている神殿に向かって礼拝するようになった。
その壁はヘロデ王が建造したものだったため、壁面は「嘆きの壁」として、ユダヤ教の信仰の中心地となった。
(神殿の丘の西壁にあたるので「西の壁」とも呼ばれる)

▼キリストの実在を証明するために生存させられたユダヤ人

人類の歴史上、国を失った民族の多くは、生き残った人々が他の民族に吸収されるかたちで滅亡し、忘れ去られたが、ユダヤ人がそうならず、国のない離散状態の民族として存在し続けた背景には、いくつかの要因が指摘されている。

一つは、離散した社会を共同体として維持し続けるため、宗教上の教えをあらゆる生活上の規範にまで拡大するとともに、ユダヤ人どうしで職能をみがき、経済的に助け合う体勢を作りあげていったことである。
それができたのは、ユダヤ人は以前にもバビロニアへの50年間の捕囚という離散を経験していたため、自分たちの宗教の教典や法律を写本のかたちにして持ち運べるようにするなど、離散への対策に長けていたという背景が考えられる。

離散状態の社会の方が強みを発揮できる産業が選ばれ、遠隔地間の貿易業や金融(為替)業、情報産業(マスコミ)などが、ユダヤ人の職業となった。
また、貴金属やダイヤモンド加工など、土地を必要とせず、技術力がものをいう産業も得意分野となった。

ユダヤ人が民族として生存し続けたもう一つの理由として考えられるのは、ヨーロッパのキリスト教会との関係である。
キリスト教会、特にカトリック教会は、ローマ時代から中世を通じて、イエス・キリストがユダヤ人の政権によって十字架にかけられたことを重視し、ユダヤ人を「キリストを殺した人々」として規定し、抑圧し続けた。

キリストを殺したユダヤ人が実在していることによって、教会は人々に対し、キリストという人物が本当に存在していたことの証拠を示すことができ、その上に立ってキリストの素晴らしさを人々に説くことができる。
その視点に立てば、ユダヤ人を滅亡させることは得策ではなく、むしろ「嫌われ者」として、貧しいまま生存させ続けることが重要だったことになる。

ユダヤ人がローマ帝国に支配されていた紀元前1世紀から紀元後2世紀には、宗教(社会・政治)改革運動がいくつも起きたが、その中の一つに、イエス・キリストが始めた活動があった。
当時のヘロデ王政権と、その背後にいたローマ帝国は、キリストによる改革運動を嫌い、彼を十字架にかけて処刑してしまった。
その後ユダヤ人社会はローマ帝国に歯向かって自らの国の滅亡を招いたが、キリスト教はその後ローマ帝国内での布教に成功し、ローマの国教となった。

歴史的には、キリスト教に対するユダヤ人の嫌悪もあったようだ。
西暦614年にペルシャ帝国がエルサレムを攻撃し、キリスト教会を破壊してキリスト教徒を多数殺害したが、この攻撃を手引きしたのはユダヤ人勢力であった。
629年に東ローマ帝国軍がエルサレムを奪還すると、復讐として今度はユダヤ人たちが殺害される結果となった。
638年にイスラム教徒の軍隊がエルサレムを征服し、その後の1300年間にわたるイスラム時代が始まる直前の出来事だった。
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ユダヤ資本の金融力で戦った日露戦争
2005-09-10 Sat 10:04
今度は日本がユダヤ人にお世話になった話です。

文庫本、「高橋是清自伝」にユダヤ人と日本人との関係に関する内容の記述があります。
日露戦争の途中で戦費に困った日本政府は、高橋に命じて、外国で国債の販売を行ないました。
誰も滅亡寸前のアジアの小さな国、日本の国債を買ってくれる人はいませんでした。
ところがロンドンでユダヤ人の金融家が、国債を買ってくれたのです。
ロシア帝国の敗北が、ユダヤ人の地位向上に役立つ事を期待して協力したのですが、この金のお陰で日本は満州の日本軍に食料、兵器、弾薬を送り、優勢を維持できたわけです。
金が調達できなければ、満州の日本軍は孤立し、ロシア軍の殺戮にあっていたでしょう。
そしてこの列島にも南下してきてロシア人のものになっていたかもしれないですね。
それにしても資金が足りないのに大国に戦争を始めたなんて、今考えると無謀のひとことですが、それだけ切羽詰まっていた、ということでしょう。
もしかすると国民性なのかもしれないですね。
普段は穏やかでも追い詰められると何をするかわからない・・・
(何だか第二次大戦にも同じことが言える気がするのは私だけでしょうか、資源も物資も足りないことはわかっていたのに無謀な軍司令部の戦略の甘さで突き進んだところなど)

人間関係だけで投資をしていた時代、シフと高橋是清の間でどんな会話がなされたかはわかりませんが、短い時間の中でお互いを信頼したからに他ならないでしょう。
歴史は人と人が作りだすもの。
表舞台の話よりも、こういう裏話に実に興味がそそられます。

  〜*〜
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2万人のユダヤ人を救った樋口少将 (歴史編)
2005-09-10 Sat 10:02
前回の杉原氏と同様に、自分の立場と危険を省みず、自分の強い意志で遣り通した樋口氏を尊敬します。


■1.偉大なる人道主義者、ゼネラル樋口■

エルサレムの丘に高さ3m、厚さ1m、本を広げた形の黄金の碑が立っている。
ユダヤ民族の幸福に力をかした人々の恩を永久に讃えるために、と世界各国のユダヤ人が金貨や指輪などを送って鋳造したものである。
モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインなどの傑出したユダヤの偉人達にまじって、上から4番目に「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」とあり、その次に樋口の部下であった安江仙江大佐の名が刻まれている。
樋口季一郎少将−6千人のユダヤ人を救ってイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授けられたた外交官・杉原千畝氏とともに、日本人とユダヤ人との浅からぬ縁を語る上で、不可欠の人物である。

■2.ユダヤ人排斥は日本の人種平等主義に反する■

1933年にドイツにナチス政権が誕生して以来、大量のユダヤ人難民が発生した。
しかし、難民を受け入れる国は少なく、ユダヤ人に同情的だった英米でさえ、入国を制限していた。
難民のドイツ脱出がピークに達した39年には、ドイツ系ユダヤ人難民930人を乗せたセントルイス号が、英国、米国での接岸をそれぞれの沿岸警備隊の武力行使によって阻まれ、結局はドイツに戻って、大半が強制収容所送りになるという事件も起きている。

こうした中で、当時の日本政府もユダヤ人難民に対する方針を明確にする必要に迫られ、39年12月に5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決定した。
その内容は、ユダヤ人排斥は日本が多年主張してきた人種平等の精神と合致しない、として、
・ 現在居住するユダヤ人は他国人と同様公正に扱い排斥しない。
・ 新たに来るユダヤ人は入国取締規則の範囲内で公正に対処する。
・ ユダヤ人を積極的に招致はしないが、資本家、技術者など
  利用価値のある者はその限りではない。(すなわち招致も可)
・・・という3つの方針を定めたものであった。
1919年、国際連盟の創設に際し、人種平等条項を入れるように提案した事に見られるように、当時の日本は有色人種の先頭に立って、人種平等を訴えていた。
その立場からしても、ユダヤ人排斥は当然反対すべきものであった。

■3.ユダヤ人の脱出ルートを確保した日本■

この方針は現実に適用された。
当時の日本軍占領下の上海は、ビザなしの渡航者を受け入れる世界で唯一の上陸可能な都市だった。
ユダヤ難民は、シベリア鉄道で満州のハルピンを経由し、陸路、上海に向かうか、日本の通過ビザを取得して、ウラジオストックから、敦賀、神戸を経由して、海路、上海を目指すルートをとった。
杉原千畝氏が命がけで日本の通過ビザを発行した6千人のユダヤ人難民は、後者のルートを通った。
そして、前者のルートで2万人のユダヤ人を救ったのが、樋口季一郎少将である。

ちなみに、当時の上海には、2万7千人を超すユダヤ人難民が滞在していた。
42年には、東京のドイツ大使館からゲシュタポが3度にわたって、上海を訪問している。
この事実をつきとめたドイツ・ボン大学のハインツ・マウル氏は、上海にドイツと同様のユダヤ人強制収容所を建設する事を働きかけたと見ている。
しかし日本側は居住区を監視下においたが、身分証明書を示せば自由に出入りできるようにしており、大半のユダヤ人は戦争を生き抜いて、無事にイスラエルや米国に移住した。
猶太(ユダヤ)人対策要綱は、日米開戦後に破棄され、新たに難民受け入れの禁止などを定めた対策が設けられたが、ここでも「全面的にユダヤ人を排斥するのは、(諸民族の融和を説く)八紘一宇の国是にそぐわない」とした。
樋口季一郎少将はこの精神をそのまま体現した人物であったと言える。

■4.反ナチ派の闘士・カウフマン博士の依頼■

「夜分、とつぜんにお伺いしまして、恐縮しております。」
流暢な日本語でカウフマン博士は毛皮の外套を脱ぎながら言った。
昭和12(1937)年12月、満州ハルピンの夜は零下30度近くまで下がり、吹雪が続いていた。
博士は、50を超えたばかりの紳士で、ハルピン市内で総合病院を経営し、日本人の間でもたいへん評判のよい内科医であった。
大の親日家であると同時に、ハルピンユダヤ人協会の会長として、反ナチ派の闘士でもあった。

カウフマン博士が訪ねたのは、8月にハルピンに赴任してきたばかりのハルピン特務機関長・樋口季一郎少将である。
樋口少将は、着任早々、
「満州国は日本の属国ではないのだ。
だから満州国、および、満州国人民の主権を尊重し、よけいな内部干渉をさけ、満人の庇護に極力努めるようにしてほしい」
と部下に訓示し、
悪徳な日本人は、びしびし摘発しろ」と命じた。
カウフマン博士は、その樋口に重大な頼み事を持ってきたのである。

それは、ハルピンで極東ユダヤ人大会を開催するのを許可して欲しいということだった。
ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の暴挙を世界の良識に訴えたいというでのある。
樋口はハルピンに来る前にドイツに駐在し、ロシアを旅行して、ユダヤ人達の悲惨な運命をよく知っていた。
樋口は即座に快諾し、博士を励ました。
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6千人のユダヤ人を救った日本人外交官 (歴史編)
2005-09-10 Sat 09:46
日本人とユダヤ人・・・全く関係がないようですが随分昔に、いくつか双方の美談・・・お世話になったりお世話したり、の民間の関係があったようです。
特にこの杉原氏の行ったことは日本人としてだけではなく、人間として立派だったと誇りに思います。

■1.押し寄せたユダヤ人群衆 ■

1940年(昭和15年)7月27日朝、バルト海沿岸の小国リトアニアの日本領事館に勤務していた杉原千畝(ちうね)領事は、いつもとは違って、外がやけに騒がしいのに気がついた。
窓の外を見ると、建物の回りをびっしりと黒い人の群れが埋め尽くしている。

ポーランドからナチスの手を逃れてここまで歩いてやってきたユダヤ人達で、これから日本経由でアメリカやイスラエルに逃げようとして、通過ビザを求めている、今は200人ほどだが、数日中に何千人にも増えるだろう、と言う。

前年9月、ナチス・ドイツとソ連の密約により、両軍がポーランドに同時に攻め込み、東西に二分割していた。
そのドイツ軍占領地から、ユダヤ人狩りを逃れて、このバルト海に面したリトアニアまで避難してきた人々であった。
すでにオランダもフランスもドイツに破れ、ナチスから逃れる道は、シベリア−日本経由の道しか残されていなかった。

■2.杉原領事の苦悩と決断 ■

これほど多くの人々にビザを出すことは、領事の権限ではできない事だった。
外務省に暗号電報で許可を求めたが、回答は「否」。
日独伊三国同盟を目指す方針の下で、ドイツに敵対するような行為は認められなかった。

しかし、ビザを出さなければ、外のユダヤ人達の命はない。
杉原領事はあきらめずに二度、三度と電報を打つ。
8月3日には、ソ連がドイツとの密約通り、リトアニアを正式に併合し、日本領事館にも8月中の退去命令を出した。
日本の外務省からも、「早く撤収せよ」との指示が来る。

眠れない夜が続く・・・
ついに意を決して、杉原は夫人に言った。

「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」
「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください。」
私の心も夫とひとつでした。
大勢の命が私たちにかかっているのですから。
夫は外務省を辞めさせられることも覚悟していました。
「いざとなれば、ロシア語で食べていくぐらいはできるだろう」とつぶやくように言った夫の言葉には、やはりぬぐい切れない不安が感じられました。
「大丈夫だよ。ナチスに問題にされるとしても、家族にまでは手は出さない」
それだけの覚悟がなければ、できないことでした。(夫人談)

■3.書き続けたビザ ■

夫が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げた時、人々の表情には電気が走ったようでした。
一瞬の沈黙と、その後のどよめき。
抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。
窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。(夫人談)

それから約1ヶ月間、退去期限ぎりぎりまで、杉原は朝から晩まで一日300枚を目標にビザを書き続けた。
すべてを手書きで一人一人の名前を間違えないように書く。
途中で万年筆も折れ、ペンにインクをつけて書く。
効率を上げるために、番号付けや手数料徴収もやめた。
一日が終わると、ベッドに倒れ込み、夫人が腕をマッサージしていると数分で眠り込む。

外には大勢のユダヤ人が順番を待って朝から晩まで立っている。
やっと順番が巡ってきて、ひざまづいて杉原の足もとにキスをする女性もいた。
夜はもう寒いのに、近くの公園で野宿して順番を待つ人もいる。

ソ連から退去命令が何度も来て、杉原はついに8月28日に領事館を閉鎖して、ホテルに移った。
領事館に張り紙をしておいたので、ここにもユダヤ人がやってきた。
ありあわせの紙でビザを書き続ける。

■4.バンザイ、ニッポン ■

9月1日の早朝、退去期限が過ぎて、ベルリン行きの国際列車に乗り込んだ。
ここにもビザを求めて何人かの人が来ていた。
窓から身を乗り出して杉原はビザを書き続けた。
ついに汽車が走り出す。

走り出づる列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは「許してください、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています。」
夫は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。
茫然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼き付いています。
「バンザイ、ニッポン」誰かが叫びました。
夫はビザを渡す時、一人一人に「バンザイ、ニッポン」と叫ばせていました。
外交官だった夫は、祖国日本を愛していました。
夫への感謝が祖国日本への感謝につながってくれる事を期待していたのでしょう。
「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」
列車と並んで泣きながら走ってきた人が、私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました。(夫人談)
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自ら汚名を背負った民族 (歴史編)
2005-09-09 Fri 11:15
(歴史で教えないタブー)

現在のユダヤ人と旧約聖書に出てくるユダヤ人は血統に関係がない。
旧約聖書のユダヤ人(ヘブライ人)は、白人ではなかった。
セム系(ノアの長男)と呼ばれる黒い眼、黒髪、浅黒い肌を持つ人々だった。
モーゼ、ダビデ、ソロモン、そしてイエス・キリストも白人ではなく黄色人種だった。
選民思想と呼ばれる神の寵愛と契約も、このヘブライ人に対するものであった。
なのに現在のユダヤ人の多くは白人である。
8世紀以前の世界には白人系ユダヤ人はいなかったのに、何故かこのあたりを境にして突然歴史の表舞台に登場してくるのである。

7世紀頃、カスピ海北岸に100万人ほどのハザール王国が存在した。
住民はトルコ系白人で、商人・職人・武人として優れていたが宗教を持たなかった。
不運にも東ローマ帝国とイスラム帝国にはさまれ、両国から干渉されるようになるが、どちらに改宗しても、戦火に巻き込まれるのは必至だった。
ハザールの王は、どちらも選ばずユダヤ教に改宗したのである。
キリスト教もイスラム教もユダヤ教が母体だから、宗教的干渉を回避できるだろうと計算したのである。

しかし、東ローマ帝国と新しくできたモンゴル帝国の攻撃を受け、12世紀に滅亡した。
このときに発生した大量の難民は、西へ西へと移住し、東ヨーロッパに住み着いた。
祖国を失ったハザール人は、このときからユダヤ人として生きることになった。
ハザール王の書記は、自分たちは黄色人種のセム系ではなく、ヤペテ(ノアの三男)の直系子孫だと断言している。
改宗だけではなく、アブラハムの子孫としてユダヤの仮面をつけることになったのだ。
このように白人系ユダヤ人は旧約聖書に出てくるユダヤ人とは血統的に全く関係がないヤペテ系民族であり、国を挙げてユダヤ教に改宗して以来、現在に至るまでユダヤ人になりきっている。

そもそもユダヤの分裂はイエスによって始まる。
イエスの登場による宗教戦争は、ユダヤ人同士のいわば身内の争いだった。
12人の弟子は皆ユダヤ人、イエスに帰依した人もユダヤ人だったし、ユダヤ教の範囲内でイエスを信じていた。
イエス派ユダヤ人 対 保守派のユダヤ人、といったところだろう。
「キリストはユダヤ人に殺された」ということになっているが、
イエスもユダヤ人なので、これは正しい表現ではない。
イエスは宗教改革をしようとしただけだった。
キリスト教としてローマ帝国が認めたのはイエスの死後300年経ってからだった。
こういうわけで、現在のユダヤ人の90%以上が本来のヘブライ人とは全く関係のない民族であり、にせユダヤ人なので世界史のタブーと言われている。
長い間、キリスト殺しの汚名を背負って迫害を受け続けてきたのであった。
選民思想を持ち、神に幸福を約束された当のヘブライ人はローマ時代に姿を消している(表舞台に出てこないので行方がわからなくなっている)

そして現在、イスラエル国家を建国し、新たにパレスチナ問題の火種を作ってしまったユダヤ人。
ユダヤ人がアパルトヘイトやアフリカの貧困にも関わってくるのである。
(イスラエル建国後のパレスチナ問題はまた別の機会に)

  〜〜*〜〜

(ユダヤ人の定義)

ユダヤ人国家イスラエル共和国においてはどうかというと、移民に関する法律「帰還法」において「ユダヤ教徒=ユダヤ人」という定義を正式に採用している。
本人がユダヤ教徒でなくても、母親がユダヤ人ならばユダヤ人であるが、母親が非ユダヤ人である場合はユダヤ人ではないという。
ちなみにユダヤ人が他の宗教へ改宗した場合、ユダヤ教ではその人を終生ユダヤ人とみなす。
他の民族が「ユダヤ人」になるには、ユダヤ教に改宗すればいいわけで、インド人でも黒人でもユダヤ教に改宗してユダヤ人になろうと思えばなれるというわけだ。
しかし、ユダヤ教に改宗するためには聖書やヘブライ語を学ぶほか、ユダヤ教の宗教法に従って、ラビ(導師)の指導を受けながら、改宗の手続きを取っていくのだが、審査は非常に厳しいという。
日本でも主に結婚を理由に、男女合わせて数十名がユダヤ教に改宗している。
もっとも、ユダヤ教は伝道活動をしないので、異教徒の改宗者が大幅に増えることはないという。

(ユダヤ人関連の迫害の歴史)

66年-ローマ帝国に対しユダヤ人の不満が爆発し、ユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発。
独立を目指して始まったユダヤ戦争では、ローマ軍が半年にわたってエルサレムを包囲し兵糧攻めにして陥落させた。
ユダヤ人は国を失った。
132年-バル・コクバの乱、第2次ユダヤ戦争がおきた。
大きな反乱が続発し、ユダヤ人の統治の困難さに手を焼いたローマ人はユダヤ地方からユダヤ色を一掃しようと考え、ユダヤ人が忌み嫌っていたペリシテ人の名前をとり、この地方をパレスチナと名づけた。
ユダヤ人たちはこれ以前にもすでに広くローマ帝国内や各地に離散していたが、再び多くのユダヤ人が追放された。
313年 - ミラノ勅令(ローマ帝国で、これまで弾圧を受けていたキリスト教が公認される)
392年 - ローマ帝国がキリスト教以外の宗教を禁止。
7世紀頃-ハザール人がユダヤ教に改宗。
7世紀以降 - イスラム教徒がイベリア半島に進出するに伴い、メソポタミア地方、シリア、小アジア、エジプト、そして勿論マグリブのユダヤ教徒がイベリア半島に移住。
10世紀 - 白人系ユダヤ人がライン地方に定着。
11世紀 - 十字軍、イスラム帝国分裂の結果、中東のユダヤ教徒が弾圧され、多くがベネチアに移住。
キリスト教のローマ教会(バチカン)がユダヤ教徒をほとんどの職業から追放した。
この結果、キリスト教が禁止している職業(質屋や金の保管人、両替商などの利子を扱う職業)などにユダヤ教徒が就かざるを得ないことになり、結果的に金融業・銀行業を発達させることになったといわれる(ユダヤ教は異教徒から利子を受け取ることを許している)。
このころからユダヤ教徒への偏見・中傷が芽生える
15世紀 - スペインがイスラム王国からキリスト教王国に代わり、イスラム王国に協力したとされたユダヤ教徒が迫害される。
一部はキリスト教に改宗し、1492年改宗を拒否したユダヤ人は追放され、多数が地中海周辺の都市に移住。
1786年 - ユダヤ教徒居住区設置。
18世紀末 - フランス革命:ユダヤ教徒の権利向上の動きもあり、ユダヤ教徒への弾圧が弱まって行ったが、逆に新反ユダヤ主義が芽生える面もあった。
1881年 - 帝政ロシアでアレクサンドル3世即位。
ユダヤ教徒迫害始まる。
19世紀末 - 東欧で続く弾圧から逃げるため、東欧のユダヤ教徒がパレスチナ(イスラエルの地)に移住し始める。
ロスチャイルド家から移住の費用が補助されたといわれる。(これが、後のイスラエル建国へとつながる)
テルアビブの都市建設などが始まる。
ドレフュス事件が起き、シオニズムが活発になる。
(フランス軍のユダヤ人大尉がスパイの冤罪を着せられた事件)
1930年代 - ドイツの独裁体制ナチスによる人種論と「ユダヤ人」の虐殺(ホロコースト)が行われ、ヨーロッパから数万人のユダヤ人がパレスチナに移住する。
600万人以上のユダヤ人が死亡 。
1948年5月14日 - 国連決議181号に基づきイスラエルの独立宣言。


参考:ヘブライの館HP
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