〔お詫び 月曜日・水曜日と「ひとりごと」をお休みしてしまったことをお詫びいたします。お世話になった安宅さんが急逝された知らせを受けて、悲しい気分に浸されておりました。27日(水)に行なわれる「送る会」に出席して、そこで感じたことを書こうと思ったのです。以下、その報告をさせていただきます。〕
27日(水)午後5時から、東京プリンスホテル2階マグノリア・ホールで、「故 安宅克洋 お別れの会」が催された。
定刻のおよそ30分ほど前にホテルに着く。エスカレーターで2階に上がる。記帳をして、見知った顔を探す。残念ながら知らない顔の方が多い。安宅さんのつき合いの広さをいまさらのように思い知らされる。
しばらく会場の外で待った。やがて日音のTさん、元東芝EMIのディレクターでいまは芸団協に勤務しているジュニアさん、カンバセーション社長のHさんが相次いで姿を見せた。
会場内には花をふんだんにあしらった祭壇が設けられ、大きな遺影が掲げられている。帽子をかぶり、ステッキを片手にして椅子に腰かけてこちらを見ているポーズ。入口で配られた式次第の表紙を飾っているのと同じ写真だ。
祭壇に一礼。その右脇には故人が愛用した品々が展示されていた。マフラー、着物、パイプなど。いろいろなタイプの帽子も数点。なかでも白地に濃紺のリボンが巻かれたボルサリーノが、いかにもお洒落な安宅さんを偲ばせるように僕には思えた。
「お別れの会」は黙祷から始まった。続いて、女性司会者が故人のプロフィルを披露した。シャルル・アズナヴールの「ラ・ボエーム」がバックに流れる。
僕などが知っているのは、何といってもプロモーターとしての安宅さんだ。“ゴスペルの女王”マハリア・ジャクソンを招聘し、皇居内の桃華楽堂で皇室の方々を前にコンサートを開き、当時の美智子妃殿下から感謝された話も出た。大阪万博の際にジルベール・ベコーを呼んでいる。アズナヴールも同じ時期に日本に紹介した。この二人は以後、安宅さんの会社I.A.B.の看板スター歌手となる。アズナヴールとは家族ぐるみのつき合いもしていた。
前回にも触れたように、安宅さんの会社は後にマジェスティ・ミュージックと改称する。1978年、僕がこの世界に入るきっかけとなったベコーのツアー時はこの社名だった。
1980年代に入ると安宅さんはプロモーター業から手を引いてしまう。僕はシャンソン・フランセーズの仕事を続けることを心に決めていたから、安宅さんとの距離は次第に離れていった。
とはいえ、安宅さんが最初に僕にチャンスをくれたということを忘れた日はない。
解剖学の分野に手を広げ、「人体の不思議展」を開催するようになったのは50代前半のことだったという。60代に入ると趣味の骨董収集が高じて、東京国際フォーラムで「大江戸骨董市」を主催。
中国の北京や上海で開かれる医学のセミナーのブレーンとしても活躍しておられたとの説明があった。
プロフィル紹介の後、3名の来賓挨拶が続く。
江藤一洋さんはこの1月、安宅さんと北京に行ったご友人。16日にホテルで急に倒れた安宅さんを入院させ、最後までつききりで世話をされた。
100キロを超える偉丈夫の安宅さんの命を奪ったのは、敗血症。何らかの細菌が体内に入ったものと思われる。
続いて北村公宏さんが、大阪サンケイホールのプロデューサーだった頃の話をされた。また、レコード会社に移ってからも、安宅さんが招聘するアーティストのために協賛金を支出させられたことなどもユーモアを交えて話された。
もうお一方の森亘さんは東大名誉教授。主に安宅さんとは医学関連の分野でのおつき合いをされていたという。僕たちの知らない安宅さんの側面が語られた。ほんと、幅広い活動歴の持ち主だ。
弔電も読み上げられた後、佐藤修さんのご発声による献杯。突然に親しい友人を失ってしまった悲しみから途中で声を詰まらされた。
それから食事タイムに移った。僕たちも会場内を歩き、皿に少しずつ気に入った料理を取り分けて食べた。
祭壇には安宅さんが生前に選んでおいたという骨壷が置かれていた。きっと並々ならぬ鑑識眼によって選び抜かれた品物なのだろう。あの大きな身体がこの焼物のなかに収められていると思うと、少し不思議な感じがする。
食事の合間、友人たちが思い出話を語る場面もあった。どなたも個人への追慕の念が深い。涙ぐむ人もいた。
喪主である奥様の秀子さんが娘さん、息子さんと前に進み、挨拶を述べられた。こみ上げる悲しみを抑えながら、最後のフレーズまでしっかりと参会者たちに語りかけられる姿が印象に残った。
午後7時、「お別れの会」は閉幕した。
何となくそのまま帰る気になれない。ジュニアさんやTさんも同じ思いだった。誰言うともなく、「どこかで一杯やろう」ということになった。
地下鉄都営三田線で内幸町に出て、虎ノ門の居酒屋へ。
日本酒の盃を傾けながら、安宅さんの想い出を語り合った。
Tさん、ジュニアさんはI.A.B.時代にアルバイトを経験している。捨て看と呼ばれる、電柱にくくりつける形式の看板を設置しに夜の街に繰り出した話。ツアーの宿泊先で酔っ払って繰り返した蛮行など、いまではちょっと信じられないような面白おかしい体験談が聞けた。
僕がお世話になったマジェスティ・ミュージックの頃には、さほど過激なことはなかったなぁ。
シャルル・トレネをはじめとするアーティストの資料や写真をただで僕にくれた。同社を閉じる決意を固めた頃だったのだと思う。安宅さんが積み重ねてこられたそれら財産の一部をありがたく頂戴したことは言うまでもない。
「イヴ・モンタンの本があるからコピーしに来いよ」と、四ツ谷に移った事務所に僕を招いてくれたことがあった。その時も、遠慮なくお言葉に甘えさせて貰った。
朗らかで恰幅のいい安宅さんが66歳の若さで逝ってしまうなんて思いも寄らなかった。それが居酒屋に流れた三人に共通した偽らざる思いだった。
気がつけば、三人とも50代後半にさしかかっている。それぞれ肉体的にも問題がないわけではない。
元気だった安宅さんは、「お前たちも健康に気をつけろよ」と注意を促してくれているのかもしれない。
招聘した外国人アーティストたちからフレッドという愛称で呼ばれていた安宅さん。「お別れの会」式次第の裏表紙に愛用の帽子が掲げられ、そこに"FRED" と記されている。
アズナヴールがその死を知ったら何と言うだろうか。