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【また広島にて その3】

まだ広島にいる。ホテルの部屋で「缶詰」状態だ。昨日(20日)の公判3日目も傍聴できなかった。http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/local/yamaguchi_hikari_murder/

初めて3日間とも法廷の中に入れなかった。これまで何とか傍聴していた人もダメだったようだ。昨日は法廷で遺族の2人が陳述するとあって報道陣もいつもよりもさらに増えて、なおかつ力の入れようが違った。午後からのその陳述では遺族の声を一言一句逃すまいと、広島高裁の法廷前廊下から裁判所内の記者室や中継車両、さらには裁判所入口付近の中継リポート場所まで、人が入れ替わり立ち代わり全速力でバタバタと移動する。

公判後の記者会見も前回までと違って、遺族の男性と弁護団会見が同じ時間で重なった。したがって、多くの記者やカメラは遺族の会見の方に流れたので、弁護団側の会見はいつもより数は少なかった。

そして昨夜から今日にかけてテレビニュースをいくつか見たがあらためて思う。凄まじい差だ。

「報道が被害者の側に偏っているのではないかという批判があるが、私はそう思わない」と語るコメンテーターがいたが、よくよく考えると、実はそれは被害者の側に偏っているのではない。量的な問題ではなく、むしろ加害者の側に「偏っている」のだ。それがすべて同じ視線と前提で。

遺族の声はすべて「怒り」「悲しみ」「叫び」となって繰り返し伝えられ、逆の側の声はすべてが「無反省」の根拠かのように繰り返し結び付けられる。

しかし、被告が法廷内で書いている自分のメモにまで検察から介入されることに対して怒ることは、この事件の「反省」「謝罪」と関係があることなのだろうか?メモは自分が後から確認したりするために使うものであるから、ほかの人に見せたり、だれかに提出して読んでもらうために書くものではない。誰だってそうだ。それにケチをつけてくれる人に対して、少しぐらい怒りたくなる気持ちをもってはダメなのか。ほかの人は別によくて、被告の元少年がそれをやることはダメなのか。それが「許せない」のか、「反省していない証拠」だとでも言うのか。自分に向けられるすべてにおとなしく従うことが「反省」なのか。しかも、被告は遺族に対してそれをしたのではなく、あくまでも検察側にしたことだ。

もし僕が彼だったら、「検察の皆さんは、これまで僕の言ってきたことをちゃんと聞いてきたのですか?」と言い返したくなる。「裏切られた」検察に対して、それこそ最後の「怒り」「悲しみ」「叫び」だったと想像することはダメなのか。そんな「理解」を誰かほかの人がすることは、「してはいけないこと」「する必要がないこと」なのか?だとすれば、また同じような事件が起きて、また誰かが殺されて、そしてまた殺した人間も殺されていくだけの繰り返しだろう。それが「この国の社会正義」なのだろうか。

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綿井健陽 WATAI Takeharu
Homepage [綿井健陽 Web Journal]
http://www1.odn.ne.jp/watai

映画「Little Birds~イラク戦火の家族たち」
公式HP http://www.littlebirds.net/
DVD発売・各地で上映中
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2007-09-21 14:49 
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