|
||||||||
|
||||||||
|
||||||||
ドイツ参謀本部に見るリーダーと参謀のバランスの大切さ | ||||||||
----- | 渡部先生は、英文学だけでなく、歴史や哲学、人生論など幅広い分野で論文やご著書を発表されています。なかでも印象深いのが『ドイツ参謀本部』。お書きになった意図、背景をぜひお聞かせください。 | |||||||
私は昭和30年(1955年)にドイツへ留学しました。ドイツでは、行ってまもなく徴兵制が復活し、日本では偉い軍人だった人は自殺したりしていたのに、軍人が颯爽と観劇に来ている。いろいろ聞いてみると、ドイツ陸軍は立派な国軍でナチスと関係なく、だから戦前の勲章も通用すると。近代ヨーロッパは、ドイツの陸軍なしには考えられないことがわかり、何メートルにもなるくらい本を買いこんで(笑)。 ビスマルクという政治の天才と、ドイツ参謀本部という世界で最初に大型組織された参謀部が、車の両輪のようにうまく働いて、奇跡のごとくドイツ帝国ができたんです。ところが次の皇帝ヴィルヘルムU世になると、リーダーシップは全然機能しない。しかし、参謀本部だけは健在で、第1次大戦でドイツ陸軍は全戦場で勝っている。なのに、勝ったまま負けた。 そこで国民も軍人も、リーダーが悪くて負けたと思って、「強いリーダーを」と望んで、ヒットラーを選んでしまったのです。ヒットラーはものすごい政治権力で参謀本部を押さえ、そして最後には参謀本部を解散してしまう。結局、参謀本部抜きのリーダーシップだけになってしまった。そして負けたわけです。ドイツの参謀本部の歴史を見ると、大切なのはリーダーと参謀のバランスだということがよくわかります。 |
||||||||
山しかなかったスイスは「相続税ゼロ、あっても2%」でお金持ちの国になった | ||||||||
----- | ベストセラーにもなったご著書『相続税をゼロにせよ!』は、どんな背景からできたんですか。 | |||||||
私のイギリス留学です。イギリスは日本に勝った国だし、空襲にあったといっても、町がほとんどそっくり残っているんですよ。それが、どんどん貧乏になっていく。これはどういうことだろうと思っていたら、『パーキンソンの法則』という本が出た。そこに、イギリスはなぜこんなにだめになったか、全部税制だということが歴史的に書いてあるんです。 外国にいると愛国心が強くなるんですね。だから、私は、「日本もこんな税制をやっていて、イギリスの二の舞になったらだめだ」と、税金に対してはずっと関心があったのです。 その後、何の間違いか、大蔵省の税調委員になった。そのとき、私は「日本の相続税には資産再配分する思想があるのではないか? 憲法第30条に、国家は私有財産に介入してはいけないという条項がある。再配分思想で税制をやるなら憲法違反ですね」と発言しました。それで私は1期で委員を、クビ。 そのうち、私はスイスの思想家・ヒルティの『幸福論』に興味があって、その本を書くためにスイスに行きました。そのとき、ちょうどスイスの議会――カントーンですから州の議会で、「相続税ゼロ」が通ったんです。それまで私は相続税を廃止するなんて考えたこともなかったから、「どうしてそんなことが可能か」と現地の人に聞いたら、きょとんとして「『生きている人は生きている間、税を払っている。死んで、なぜ残した金に税金を取られるのか。おかしいじゃないか』と言う人が議員の半分になったから」と、それだけ。相続税がある州もあるけれど、高くても2%ぐらい止まり。 スイスは貧乏で有名だった。だって山しかないんだから。いまでこそ高い山に登る人がいて、麓にホテルがありますが。湖はあるけれど漁業はできない。農業もできない。何の産業もないわけ。 ところが気がついてみたら、スイスは、ものすごく金持ちになっている。なぜか。昔は傭兵隊に若者が出て、うちに送金する。そして相続税がほとんどない。すると、どんな貧しい国でも富が蓄積するんです。そうすると、いつの間にか高いものをつくるようになる。戦前はせいぜいオルゴールと時計だったのが、今度は世界一の薬品会社とか、世界一の機械工場ができる。 そして、たった人口50万のチューリッヒという町が、ある意味ではロンドン以上の金融の中心です。 そのもとは、全部金持ちから金を取り上げなかったということだけですよ。 |
||||||||
----- | だから、スイスに銀行業が発展するわけですか。 | |||||||
プライバシーの金が絶対守られる。国が取り上げませんから、個人が集めた美術のコレクションもいっぱいあるんです。 スイスがあんなに金持ちになれるのは、私有財産の保護に尽きるんです。だから、スイス人は本当に働きます。なぜそう勤勉かというと、働いたものが自分のものとして残るからだと私は思います。 |
||||||||
発言権もないのに国連に二番目に多くのお金を出す日本のセンス | ||||||||
----- | 現実に日本の税制や、税金の中身を見てみると、増えることはあっても減ることはないという、ひじょうに絶望的な気持ちになってしまいますが。 | |||||||
税金というのは、ノーベル経済学賞受賞者経済学者フォン・ハイエクが言っているように、国家権力の最後の砦なんです。日本は自由主義国の中では、まだ一番社会主義的です。一番税率が高いということは国家が国民の富を握っているということ。そして、それで何をやっているかというと、ODAでアメリカを越えてみたり。それから国連に納めるお金。日本は二番目に多い19.5%だけれど、ほかの国が納めないから、結局国連全体からいうと、30%ぐらい納めることが多い。 実際、納めるのはときどき一番なんです。アメリカは22%だけれど、滞納の常習犯。イギリスは5.6%、フランスは6.5%ぐらい。中国もロシアも1%台ですよ。それで日本は理事国でもない、発言権もほとんどない。こんな馬鹿げたことに平気で金を出すセンスというのは、税金を勝手に取れるからです。 ブッシュ大統領も、10年以内に相続税はゼロにすると言っています。それから、私が知っている限り、もっと広まったかもしれませんが、オーストラリアの北部の州も相続税ゼロ、カナダもゼロ。なぜブッシュ大統領が相続税ゼロを検討したかというと、アメリカの金持ちがカナダに逃げる可能性があるからです。アメリカが相続税ゼロになった場合を考えてみれば、日本人だってアメリカに国籍を取りたくなりますよ。アメリカ国籍を取って日本に住んだっていいわけでしょう? 本当に働いている人はアメリカの国籍を取ったほうがいいじゃないか、となる。いまのところ、日本人は素朴な愛国心があるから、それをやる人は比較的少ないだけの話です。しかし、崩れ始めたらダダーッと崩れる恐れはあります。 |
||||||||
デフレの時代には、洗練された本当にいいものが生まれる | ||||||||
----- | このデフレの中で、経済社会の改革の具体的方向性が見えてこないというか、これは変わらないんじゃないかという危惧があるように思いますが。 | |||||||
それは、そもそもはじめの認識が間違っているんです。デフレは変えようがないということを、はじめから言うべきだった。デフレとインフレはお札と物資の関係です。お札が多くて物が少なければインフレ、物が多くてお札が少なければデフレ。決まっているんですよ。 同じことがヨーロッパでもあった。ビスマルクが30ケ国を統一してドイツ帝国をつくったとき、どう言ったかというと、「自分の目的はドイツ統一だった、もう戦争は要らない」と。真ん中にいるドイツが戦争をしなければ、戦争はない。それで30年間戦争がなくなった。すると、着実にデフレです。 そのとき生き残ったのは何かというと、技術革新したところだけ。だから、イギリスは蒸気機関で断トツの先進国だったけれど、ちょっと遅れた。その30年間のデフレの間に電気やベンツのディーゼル機関などが発達して、アメリカとドイツがバーッと突出して、イギリスが相対的に遅れたんです。次のインフレは、第1次大戦直前までないんですよ。 インフレがほしいからといって、日本は戦争なんかできませんね。だから「デフレですよ。デフレから生き延びる道は新しい技術開発だけです」ということを政府は宣言し、税金を安くして社内留保でも自由にできるようにして。それで生産とは関係ない景気をよくするためには、交際費なんか税金を取らないでドンチャンやりなさいと。 ヨーロッパだって、30年間のデフレの間に何が起こったかと言うと、私がよく知っている本の世界では、装丁の立派な良い本が出る。フランスではベルエッポックという洗練された時代や、アール・デコ、音楽でも浪漫派が来る。インフレの時代は粗製濫造でも物が売れる。デフレになると洗練されたもの、本当にいいものでないとだめ。 デフレの時代はアイデアを出しなさいよ、ということなんです。 |
||||||||
----- | 相変わらず国債をたくさん発行して政府が公共投資をやって需要をつくろうとしていることを、どんなふうに受け止めたらよいか、考えてしまいますね。 | |||||||
私は明治で偉かったと思うのは、朝令暮改ということ。いろいろな法律を出して、だめだったらすぐやめる。だって、新しい時代は何がいい法律かわからない。 アメリカはそうです。ものすごく対応が早いです。エンロンの問題のときも、あっという間に法律を作って、それでピシーッと直っちゃった。ただ、アメリカやイギリスがそうできるのは、昔の法律と矛盾してもいいから。矛盾したときは、自動的に昔の法律がだめだということになる。昔のローマも、古い法律と関係なく、新しい法律が作れる。矛盾だと言われたら、それは古いほうを押さえればいいと。日本は昔の法律と整合性を求めてしまう。だから、いつまでたっても変えるのが大変なのです。 どんどんやってみて、悪かったらすぐやめればいい。3日後にやめたって構わない、ぐらいの精神でやったら、明治維新のときの活力が出てくるんじゃないかなと思うんですけれどね。 |
||||||||
|
||||||||
英文学を専攻したきっかけは、英語の先生の影響 | ||||||||
----- | 先生は山形県の鶴岡でお育ちになられましたが、小さいころの環境から聞かせていただけますか。 | |||||||
明治のはじめに義務教育令が敷かれて学制発布があったときに、村に学校は急には建たないということで、寺子屋みたいなのをやって教えたのが、お寺のお坊さんと私の祖父だったんです。それで、うちの父は祖父からだけ習って、いわゆる学校教育を受けられなかった。 だから教養に憧れていまして。当時としては珍しく、ずいぶん雑誌をとっていました。私が小さいときは『幼年倶楽部』『少年倶楽部』、姉は『少女倶楽部』、上の姉は『婦人倶楽部』もあったかな。あと大人たちは『キング』。それから、講談社の絵本とか。周囲は極端に言えば明治維新以前のような世界でしたけれど、うちの中はポッカリ東京の中流階級の読書会系の本が入っていたという感じですね。 |
||||||||
----- | 大学では、なぜ英文科をお選びになったんですか。 | |||||||
私のときは旧制中学5年から新制高校3年。その最後の2年間でお世話になった英語の先生の影響です。新制高校3年のときの教科書のレッスンワン、これがベーコンのエッセイなんですよ。そのときの先生が、ベーコンのエッセイを見て、「こういうのは本当はわれわれは教える資格がないんだ」と率直に言われて。そして、先生はひじょうに広い知識があって、「この単語は」なんて脱線される。脱線しつつ、丁寧に、本当に丁寧に、たった3ページを3カ月かかって読みました。そのときの、「わかった!」という感じ。 ベーコンというのは、いまから350年前のイギリスの貴族で大金持ちで、近世哲学の大物。こっちは350年後の地球の裏側で、敗戦国の東北の貧乏人で、ようやくアルファベットのマスターに毛が生えたぐらい。その人間がベーコンの文章を一つひとつ追って、完全にわからないところがなくなった。そして、少なくとも、ここに関しては私の年頃のイギリス、アメリカのいかなる青年にも劣らないだろう、という実感が持てた。そんなことで、英語でもやろうかなと思ったのです。 |
||||||||
書斎のある家をはじめて見たときの衝撃が、現在の職業を選んだきっかけ | ||||||||
卒業直後だと思いますが、先生の家へ呼ばれて行き、そこで私ははじめて本物の書斎のある家を見ました。先祖伝来の倹飩(けんどん)という桐の箱に和綴じの本が天井までザーッと積んである。英語の先生ですから、厚さ30センチ以上もある辞書だとか百科事典だとかがあって。また部屋の隅には碁盤があったり。そして、部屋の外には小川が流れていて。そのときに私は、「あ、僕はこういう老人になって死のう」と思った。それが、いままで続いているんです。 大学を受けるとき、その年に限って学制改革があって、私立は3月、国公立は6月に試験があったんです。そのときの進学係の先生が、これまた変わっていまして、推薦した大学がたった一つ、上智大学。東京でいろいろな大学を視察したところ、「上智大学だけが卑しくない。あの大学は伸びる」なんて言ったもので、クラス50人ぐらいのうち6人が上智を受けました。私を含めて2人受かって、1人は6月に一橋大学に移って。それで私だけ残って、今日に至った。 |
||||||||
----- | 巡り合わせというか、節目節目でいい巡り合いが。 | |||||||
一橋に移った人も、それはそれでよかったと思いますよ。私は、授業がものすごく充実していたので、「まあ、これでいいや」と、他の大学に移ろうという気はなくなりました。私はなんでもある程度いくと、「まあ、いいや」ってなるんです。結婚も40数年続いていますけれど(笑)。 | ||||||||
----- | それで修士課程までいらっしゃって、そのあとは留学をされるわけですか? | |||||||
そうです。私は田舎から出て来て貧乏だったし、戦前の風習もあって弊衣破帽というか、汚い格好をするのを恥じない、変な癖があったんです。いま考えると、上智のアメリカ人の先生方はそれを嫌っていた。アメリカへ留学する募集があって面接試験があったのですが、アメリカ人の先生が反対して、私はだめだった。要するに社交性がないと見られたわけです。ところが、他の先生が同情してくれ、「いまはだめだけれどヨーロッパに留学させてやる」というので、ヨーロッパに留学したんです。 これは私にはひじょうによかった。アメリカに留学したら、アメリカのことしか知らないし、アメリカのことを知っている人は山のようにいる。あのときアメリカに行ってしまえば、ヨーロッパ、そしてドイツとも全然関係なかったと思います。だから、何が不幸で何が幸福かというのはわからないです。 |
||||||||
----- | 途中で挫折されたりとか、違うことをやろうとか、お考えになったことはなかったですか。 | |||||||
変な話だけれど、私の人生の目標が、高校を卒業して大学に入るまでに決まっていたわけです。あの先生のようにああいう書斎を持って、本を読んで、小川もあって……という。そのぐらいの人生の目標は達成できるんですよ。総理大臣になろうとか、他人の力を借りなきゃならないようなものには、なれるかなれないか、わかりませんけれどね。 | ||||||||
「できない理由を探すな」 | ||||||||
----- | いま、こういう世の中で、いろいろなことがうまくいかず、先の見通しが立たなくて悩んでいる方がひじょうに多いと思います。そういう方に対するメッセージをぜひいただければと思うのですが。 | |||||||
私などは、考えてみますと、目的も何もかも偶然のことが多い。私の先生は、「こういう書斎で老年を送ると幸せだよ」なんて言ったわけじゃない。私だけその先生を訪ねたわけでもない。一緒に行った人でも、そんな希望を持たなかった人もいます。だから、それは巡り合いで、何を求めるかは、その当人なんです。付き合ってきた人のなかから、そのヒントをご自分で得るべきだと思うんですね。 | ||||||||
----- | つねに自分の生きていく過程の中に、何かチャンスはあるし、出会いがある。それを一つひとつ見落とさないで生きていけば何かがあるのではないかという……。 | |||||||
それと、小学校の先生から受けたのは、「できない理由を探すな」という教訓。できない理由はいくらでも探せるから、それを探し始めたら何もできなくなっちゃうよ、ということを言われて、それは妙に忘れないんです。だから、できない理由を探さなければ、わりとうまくいくのではないかと思います。 |