東京都豊島区のJR池袋駅北口にある歓楽街の一角が「池袋チャイナタウン」に変ぼうした。中国人のためのインターネットカフェや書店、旅行代理店、カラオケなど約100店舗が雑居ビルに入居。本場中国の家庭料理のにおいが辺りに漂う。
名付けたのは華僑を研究する山下清海・筑波大大学院教授。「中華街」と呼ばないのは、中国の改革・開放政策が始まった1978年以降に来日、急増した「新華僑」が形成したからだ。
「首都圏で暮らす新華僑の生活を支える街になった」と感慨深げな湖南省出身の編集者、段躍中さん(49)。妻の留学を機に91年に来日し、在日中国人の活動を紹介する情報誌を創刊した。「貧しいころは自転車で情報をかき集めた」。この街にも通った。
日本語学校に入った福建省や上海の若者が80年代半ばから、バイト先も充実し、安いアパートが残る池袋に集まったのが始まり。中国物産店が生活のよりどころとなり、中国ドラマのビデオレンタル店が待ち合わせや情報交換の場になった。
今や中国語のフリーペーパーが10紙以上発刊される新華僑の情報発信地。「新華僑は向学心があり、若さというパワーもある。事業に成功し、裕福になった人もいる」と段さんは振り返る。
最近は遼寧、吉林、黒竜江の東北三省出身の新華僑も料理店を出し、にぎわいを見せていた。
しかし、中国製ギョーザ中毒事件が発生してから、約二割を占める日本人客の足が遠のいた。「無関係なのに…」と顔を曇らせる店主ら。段さんは「日中間には偏った情報が多く流され、相互理解のために必要な情報が不足しがちだ」と嘆く。
幕末の開港都市に形成された横浜、神戸、長崎の各中華街は「観光地」として発展した。段さんは「庶民が暮らす池袋は、日中の市民が気軽に交流する場になってほしい」と願っている。
北京五輪開幕まで1年となった昨年8月。在日中国人や中国語を勉強したい、使いたい日本人が集まり自由に語り合う「漢語角」が近くの公園で始まった。北京の「公園英語会」をまねた。
呼び掛け人は段さん。「参加者はみんな五輪のボランティアをしたい、日中友好の懸け橋になりたいと思っている」