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中国のチベット侵略(本多 勝一)

 北京オリンピックを端緒として起きたチベットの今度の騒乱は、本誌今月11日号「論争」で井波玲子氏が指摘するように、これは「良心の問題」であろう。私はチベットを訪ねたことはなく、古い旅行記を読んだ程度だが、現代チベットはたとえば根深誠『風の瞑想ヒマラヤ』(中公文庫)によれば、バスの席も中国人(漢民族)が優先的に乗降するなど差別がひどいらしい。

 チベットはもともと独立国だが、元朝(13世紀)の征服で自治領とされたのち、清朝滅亡後にいったん独立状態をとりもどしていた。第2次大戦後の1949年に現政権・中華人民共和国が成立後、中国は少数民族保護政策重視を標榜したものの、実体はかなり異った。以下は中国特派員を長くつとめ、かつ冷静な観察者でもある元『朝日新聞』記者・田所竹彦氏の解説によるが、援用の責任はむろん私にある。

 現政権成立のわずか2年後にあたる1951年、これは朝鮮戦争に出動した中国軍がソウルに突入した年でもあるが、中国軍はチベットに進駐して首都ラサを「武力解放」した。このとき原則的にはチベットは清朝後の独立国のはずだが、第2次大戦後に成立した国際連合はチベット独立を認めなかった。チベットに隣接するインドを長く支配してきた英国が独立に賛成しなかったせいもあろう。チベットの社会主義化をめざす中国の支配が続き、チベット人の反感をかう政策や行動・態度が多かったので、ついに1959年の反乱、ダライ・ラマ一四世のインド亡命となり、中国軍武力制圧に到る。

 さらに文化大革命がチベットに波及した1966年からの約10年間にわたって、チベットの寺院をはじめ宗教関係施設も人心もメチャメチャに破壊された。さすがにこれには中国側も反省し、党ナンバーワンの胡耀邦総書記がチベットに行って謝罪したので、宗教の復活とともに1985年ごろまで一応の友好関係が保たれた。

 しかし胡耀邦失脚でまた「大漢民族」主義が頭をもたげて抑圧的になる。反面、道路開発・工業発展などは進んだが、江沢民や胡錦濤の時代になっても抑圧的基本は変らない。ダライ・ラマも「独立が無理なら高度な自治でも」と軟化したが、中国人のチベット移住がすすむなど、チベット人はもはや漢民族に希望を抱かなくなっている。(一部敬称略)


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