私の略歴
1956年(0歳)
父・那田和三郎(当時63歳)、母・満留(当時35歳)の一人息子として、愛媛県東宇和郡(現・西予市)野村町に生まれる。
父は明治生まれ。祖先は紀州和歌山(現・海南市)の住人、南北朝の昔からの地侍で江戸時代に代官を勤めた森家である(森家は無敵の鉄砲隊・雑賀衆に縁が深く、明智光秀が本能寺の変を起こした後、雑賀衆に協力を要請した最期の書簡を本家は所有している)。故あって幕末に有馬家に養子に出され、明治維新とともに愛媛に脱出した有馬福三郎の孫が父である。父は戦前、旧制中学卒業後、検定試験を八度連続して合格し、若くして旧制小学校校長に登りつめ、退任後は村議会議長、助役等を務めた立志伝中の人物であった。私が生まれたときは楽隠居の身分だった。
母は地元愛媛県東宇和郡(現・西予市)城川町の戸長(町長の前身)の孫。第二次大戦中は軍属として満州に移民。私が生まれたときは料亭と芸者置屋を経営していた。
父は知性と道徳の人。母は激情的で信仰心厚く、敗戦時の満州を生き抜いただけあって、ヤクザの脅しにも屈さない男勝りの性格だった。
1959年(3歳)
母が芸者、仲居、板前などの管理に疲れ、神経症を患う。在日朝鮮人の夫婦に勧誘されて創価学会(戸田会長時代)に親子3人で入信する。3歳から日蓮書簡の原文を読み聞かされたおかげで、後々古典の授業が得意となる。
1960年(4歳)
幼稚園に上がる前、梅雨の季節に廊下で玩具の自動車を走らせて遊んでいるとき、突如として、「自分はいずれ死ぬ」ことを悟り、恐怖に怯える。鬱病の萌芽となる。
1966年(10歳)
警察道場で剣道を習い始める。師範は元ヤクザ。荒い、古流の稽古を受ける。
1968年(12歳〜)
中学一年にあがる時、東京に創価学園(中学高校)が創立され、親の勧めで受験する。競争率4倍を合格。親は受験させてみたかっただけで本心は行かせたくなかったが、私自身の意思で入学を決意。13歳で単身上京し、寮生活を送る。
入学後まもなく太宰治の「人間失格」を読み、それ以来不眠症に苦しむ。
剣道の腕が急速に伸び、中学生相手では練習にならず、高校生と混じって鍛錬するが、普通の高校生ではもの足らず3段の主将と互角に渡り合う。5段の師範と試合し、逆小手を奪って褒められる。2年連続校内剣道大会で優勝(公式試合では一本もとられたことがない)。
俳句にも熱中し、寮内俳句大会でしばしば上位入選する。
中学3年になってまもなく校外学習で歌舞伎を見学してショックを受け、剣道部を辞めて演劇部を創設。自ら演出と演技に熱中する。文化祭で創作劇を脚本・演出して、自分は女役を演じる。
1970年(14歳)
創価中学入学以来、池田大作への異常な個人崇拝に疑問を抱いていたが所謂「池田大作本仏論」が台頭し、創価学園の生徒がその親衛隊的存在になっていることに強い反感を覚える。「池田大作の詩は下手糞だ」と発言して問題児童扱いを受ける。
中学3年の夏休みの帰省の際、旧友たちの生き生きとした瞳の輝きを見て、創価学園の異常さを確信し、自主退学届け(創価学園創設以来第一号)を提出する。担当教員、学園長ら「池田先生の顔に泥を塗るのか」と引き止めたが、「創価学会は日蓮正宗の信徒団体であり、信徒代表の池田大作を崇拝するのは筋が通らない」と主張。学園長の小山内は怒りの余り「女でもできたのか」と発言。この程度の人物が教育者のヘッドだったのか、と心から愛想をつかす。
帰郷後、地元中学に途中入学。
小学時代の遊び友達の多くが不良になっており、私もこのころから飲酒、喫煙が習慣となる。
1971年(15歳〜)
地元の県立野村高校に入学。 入学してまもなく、態度が大きい、と上級生に頻繁に呼び出しを食う。ちょうど10度目の呼び出しのとき、仲間になるか、と誘われ、地域の複数高校が連帯する不良グループに加盟。番長や幹部たちと交友を深める。
1年時は文芸部長、2年時にはバスケ部に入る。剣道部の主将(3段)と二度対戦して、二度とも二本先手で勝つ。これ以来「剣道実力4段」を自称する。
不良グループと遊んでいたものの、一年生の時は成績が良く、京都大学文学部受験を勧められるが、高校入学時より(いま思えば)鬱病が悪化。自宅学習がほとんどできない状態だった。二年時には東北大学文学部を、3年時には神戸大学経済学部を勧められるが、早稲田大学に密かに憧れる。
高校3年の夏、交通事故により一ヶ月入院。左手小指の神経が切れる。
1974年(18歳〜)
受験で東京のホテルに逗留中に神経性胃炎にかかり、40度の熱と猛烈な下痢で病院に通いながらの受験となる。案の定、早稲田大学受験に失敗し、上京して浪人生活を始める。
早稲田ゼミナールの最優秀クラス(例年の早稲田合格率9割)に入るが、学習意欲一向に湧かず酒とギターとパチンコに溺れ、予備校は欠席し続ける。特にパチンコは月に15万以上使っていた。
受験が嫌になり、詩人になることを夢見る。
翌年も不合格、二浪目に突入。早稲田予備校に変わるが、一向に学習意欲湧かず、毎晩のように友達を連れて飲み歩く。浪人中は完全な鬱病状態だった。
1976年(20歳)
またしても早稲田不合格。滑り止めの甲南大学文学部(競争率13倍)に合格し、親の説得で入学。しかし、授業は音楽と体育しかとらず、それ以外は部屋にこもって詩作に励む。
この頃から睡眠薬(ブロバリン)を常用し、昼過ぎからウイスキーに睡眠薬を混ぜて飲み込み、トリップするのが日課だった。薬の影響でオレンジ色の尿が出るようになり、便器は赤く染まった。
甲南大学は「西の学習院」と言われる上品な学校で、学生の大半が会社経営者の子息だった。大学事務員の学生に対する態度もすこぶる良く、非常に好印象の大学だった。しかし、余りに幸福な大学生たちの姿を見て、ここは自分のいるべき場所ではない、と自覚。3ヶ月間だけ受験勉強に打ち込むことを決心。苦手だった世界史の参考書を二冊読破し、ほぼ暗記する。(当時の早稲田大学の入試科目は、英、国、社の3科目)
1977年(21歳〜)
早稲田大学第一文学部(競争率45倍)、同教育学部、学習院大学文学部に合格。親は将来を考えて早稲田大学教育学部を勧め、地元の親戚は学習院大学に受かったことを過剰に褒めてくれたが(それが田舎の人のメンタリティ)、自分の希望通り早稲田大学第一文学部に入学。当時、芥川賞作家を輩出して一番人気のあった文芸科を専攻する。
その年の夏、父・和三郎83歳で老衰死する。創価学会員は、学会を辞めた罰だと陰口をたたく。
この頃、創価学会の「本尊偽造と頒布」が明らかとなる。これを機に日蓮正宗の信徒団体「法華講」に所属するが、法主・日顕師が創価学会擁護の姿勢を見せたために、法華講活動も中止。日蓮正宗、創価学会とは完全に縁を切る(日顕師は後年、遅ればせながら創価学会を破門)。
大学の友人を集め、前衛的8ミリ映画を作る。私は脚本と演技指導を担当。8ミリカメラを持っていたという理由だけで監督になった男が主演女優に惚れて追い掛け回し、作品のツメの段階でスタッフは空中分解する。
対人恐怖症が激しくなり、20人以上の人前で喋ろうとすると息が止まる症状(パニック障害)が現れる。このため、英語、フランス語(第二外国語)の授業に出れなくなり、2年間留年する。それ以上留年すると除籍になるというギリギリのタイミングで語学の単位を取得、卒業。
1983年(27歳〜)
全く就職活動をせず,詩人になるという夢を追いかけてフリーター生活に突入。やがて親から仕送りを打ち切られる。
仕送りを受け続ける方法を考えるうちに、大学院に入ることを思いつく。
詩学を学びたかったが、大学院の文学部では新しくても明治時代までの研究しかしていないと教えられ、新しい学問である映像学科を狙うことにする。取り立てて映画青年ではなかったために、早稲田の「ACTミニシアター」や池袋の「文芸地下」、銀座の「並木座」などで名画を熱心に見て回る。
帰郷時に同窓生を動員し、「五鹿幻想」というビデオドラマを脚本・撮影・監督する。
1985年(29歳)
早稲田大学大学院芸術学科演劇映像専修に合格。受験者は30数人、合格者は3人。
ある意味、大学合格以上の感動を受けて、生涯で最も真面目に勉学に燃える。
1986年(30歳〜)
一年時の好成績のおかげで「大隈奨学金」として35万ほどを大学から賞与される。感激する。
大学院入学に合わせて、今後の東京での生活費を捻出するために3000万を出資して作った松山市の事業(私への年間配当600万)が、親族の悪知恵のために乗っ取られる。同時に母は土地詐欺師に約1千万を取られ、また偶然にも同時期に親族に貸し付けていた約1千万が倒産により貸し倒れになる。これにより、我が家の蓄えは皆無に等しくなる。以降、66歳の老母の仕事(衣料店経営)の仕送りに頼って生活することになる。
その精神的苦痛、将来への絶望感、また母に代わっての法廷闘争のストレスなどを酒で紛らわせる。
ちょうどこの頃、「月刊イメージフォーラム」の編集長に声をかけられ、映像批評を毎月のように発表する。
多忙と苦痛の中で、飲酒量が増える。遂に肝臓が壊れ、体が動かなくなる。
結石で一度、急性膵臓炎で一度、自宅で倒れ、救急車の世話になる。
医者に「このままでは長生きできない」と言われ、現在の妻・明美と結婚。
4年間休学し、結局大学院に6年間在籍する。批評活動、大学院の勉強、と懸命に頑張ったためか、博士課程に進むように、との言葉をかけられる。非常な感激を覚える一方、将来への経済的不安、田舎に一人残した母のことなど、複雑な心境とともに修士論文執筆にとりかかる。歓喜と抑鬱感情が交互に現れる。
1991年(35歳〜)
修士論文締め切り2ヶ月ほど前から一種のパニック症状が現れて思考力が空回りする。更に締め切りの3日前、論文の中心を占める文書を誤って削除してしまい、完全に収拾不能に陥る。締め切り当日、先輩の奥村賢氏の助けにより、ワープロに残った原稿を綴り合せてどうにか提出。修士課程修了。
しかしこのミスを恥じて博士課程進学を諦め、放心状態で暮らす。
修士課程修了直後、友人の鬱病治療に付き合い精神病院で心理テストと問診を受けたところ、アルコール依存症、不眠症、自己同一性拡散、と診断され、安定剤と睡眠薬を処方される。これ以後、飲酒のかわりに睡眠薬を飲むことが出来るようになり、人生の大きな節目となる(睡眠薬がなかったら確実に若死にしていただろう)。
「ICONICS(映像学国際版)」に二度英語論文を提出。
居田伊佐雄氏が私との友情の証に8ミリ映画の傑作「大きな石小さな夜」を作り、捧げてくれる。感激する。
1993年(37歳〜)
仕送り生活が不可能となり、妻子を連れて帰郷。最初の3年間は完全な静養生活を続ける。
アルコール性肝炎を治療するために一年間完全禁酒。おかげで20キロのダイエットに成功。
この間、自動車免許を取り、山菜収集、海釣りに熱中。太刀魚釣りとアオリイカ釣りの腕前が上達。宇和海の釣り師の間では結構知られた顔になる。
前衛芸術愛好者が過疎地帯で暮らす苦悩を綴ったビデオレターを居田伊佐雄氏に送る。
松山在住の世界的小型映画作家・上田雅一氏と面識を得る。また、高知の自主上映運動家にして反創価学会組織「ヤイロ鳥」の代表・田辺浩三氏と友人になる。
また「龍馬研究会」の会員となり、しばしば高知に遊ぶ。
3年間の休養のあと、知人の息子(中学生)の家庭教師を引き受けたところ、100番前後の成績が2ヶ月余りでトップ10内に上昇し、評判となる。自然発生的に自宅が学習塾となる。改築は大工に頼まず自分で実行。椅子から机まで手作り。最盛期は80人ほどの中高生が集まり、町一番の規模の学習塾となる。
この頃、町と商工会の主導で商店街の主な店をショッピングセンタービルに集合させる計画が提出され実現しそうになる。私は地勢的経済的文化的にその計画が無謀であることを論証した「反対意見書」を町会議員全員に提出。議会で議論沸騰し、一時は建設賛成が半数以上を占めるも、特別職たちが反対を表明し、計画は逆転撤回。私の見識の正しさが証明される。
後日、この意見書を読んだ町の実力者が秘密裏に私に接触。町長選出馬のための「立候補趣意書」の作成、および町政の問題点、地方分権法案の本質などを調査研究して提出するよう依頼を受ける。私はこれを快諾。手付金として10万、原稿完成時に報酬として30万円をもらうが、報酬30万は選挙活動への寄付として返却。これらの経験を通して自分の中に政治向きの資質があることを知る。
飼い猫が車に轢かれて死亡。ペットロスに陥る。睡眠薬が効かなくなり、隣町に新しく出来た心療内科に行ったところ、鬱病と診断され、以後投薬治療とカウンセリング治療を受ける。カウンセリングの途中で、狂気恐怖、対人恐怖などの病いが顕在化し、それらを徐々に克服する。
郷里から年に一度のペースで論文を「Fs」や「映像学」に発表。戦前の小型映画の研究が進む。
恩師の厚意により早稲田大学での非常勤講師職を勧められていたが、経済的理由で不可能だった。しかし学習塾の経営の成功で貯蓄ができ、東京に家を購入。非常勤講師として上京することを決意する。
2001年(45歳)
妻子を連れて上京。早稲田大学第二文学部、早稲田大学芸術学校の非常勤講師となる。
念願叶って、赤穂義士を顕彰する団体「中央義士会」の会員となる。
2002年(46歳)
早稲田大学第一文学部、東京工芸大学芸術学部の非常勤講師を兼任。
憂国の人・石井一昌氏と出会い、民族派の指導者たちと知己を得る。今の日本にも「国士」がいることを知って感動する。
捨て猫の里親を世話するボランティア団体から子猫を二匹もらって飼い始める。これを機に鬱病に伴う抑鬱感情が劇的に緩和する。
2003年(47歳)
HPを開設する。
山本玄峰著『無門関提唱』を読んで禅に興味を持ち、自宅近くの曹洞宗寺院の土曜座禅会に参加する。これをきっかけに坐禅が毎日の習慣となる。
座禅で心が平安になる一方で、人ごみが嫌いになる。電車通勤が出来なくなり、大学には車で通勤。
通勤途中35キロオーバーのスピード違反で二ヶ月間免許停止を喰らう。
早大理工学部で4回連続の特別講義を行う。
2004年(48歳)
15歳から33年の喫煙キャリアに終止符をうつべく元旦を機に禁煙を始める。
生まれて初めて肺炎に罹る。
ガンマGTPが1300を超えたために、禁酒を言い渡される。
糖尿病治療のためにダイエットの必要に迫られ、スポーツジムに入会する。
早大理工学部で4回連続の特別講義を行う。
研究論文が単行本『日本映画史叢書』(森話社)の1巻に収められる。
2005(49歳)
研究論文が単行本『日本映画史叢書』(森話社)の3巻に収められる。
町内会の役員をやらないかと誘われ、これも世のため人のためと思って引き受ける。
早大理工学部で4回連続の特別講義を行う。
2006年(50歳)
下血が5日続き、大腸の内視鏡検査を受けるが、異常なし。
早大理工学部で4回連続の特別講義を行う。
猛暑の最中、3日連続して狭心症の症状が現れ、24時間心電図で検査するが、異常なし。
挫折していた禁煙に再度挑戦。
2007年(51歳)
便秘と下痢を繰り返したあげく切れ痔になる。病院で座薬をもらい完治。
予防接種をしていたのにインフルエンザに罹る。特効薬タミフルの即効性に驚く。
学生の頃、陰茎の根本にプラスティックのように硬い腫瘍(パチンコ玉1個半ぐらいの大きさ)があるのを発見し診察したら良性との事だったが、その腫瘍がさらに拡大していることに気づき大学病院でMRIの検査を受ける。その結果、MRIに何も映っておらず悪性の可能性はない、と言われるものの、海綿体両方が硬化しているためにこれがEDの原因になっている不安は残る。とりあえず糖尿病を治そうと決意する。
評論文が『映画の中の天皇 禁断の肖像』(日本映画史叢書H)(森話社)に収められる。
2年近くサボっていた坐禅を再開する。
とある縁により、日蓮宗の曼荼羅を頂き、近くの寺で開眼供養を受ける。月に一、二度のペースで題目講に出席。一念三千論を極めようと心がける。
芥川賞作家にして禅僧の玄侑宗久師とメール友達になる。玄侑師に坐禅の点検を受け「あなたの禅定はすでに出来上がっています」と言われる。坐禅の境地がかなりのものになっているのを実感する。
2008年(52歳)
血液検査をしたところ血糖値430、Hb−a1cが9.3になっており「いつ昏睡状態になってもおかしくない」といわれ、投薬治療とウォーキングを始める。名医にであったことを感謝する
1月28日 午後2時からの座禅のあと大歓喜が訪れ初めての見性(悟り)を体験する。(当HPの超絶全面批評「私の見性体験記」参照のこと)
1月29日午後7時、見性による心の激震の余波の中、維新政党新風の副代表・瀬戸弘幸氏と高田馬場の寿司屋で酒を飲みながら歓談。肝胆相照らす仲になる。
2月1日 生まれて初めて靖国神社に行き昇殿参拝する。
2月16日 午後8時から二度目の見性を体験する。
3月1日 午後5時から三度目の見性体験をする。
3月16日 午後7時から四度目の見性体験をする。どこまで心境が進むのやら。
3月25日 左手首の神経麻痺になる。完治に3ヶ月かかると言われる。
4月5日 午後9時30分より五度目の見性体験をする。過去4回と異なり、坐禅もウォーキング(歩行禅)もせず、昼は競馬、夜はバーで美人ホステスと享楽する。酔った帰り道に忘我の法悦に包まれる(但しこの日の午前中、中村天風の「運命を拓く」を心読する)。