『靖国 YASUKUNI』騒動を巡る巷の議論は、本質を全く捉えていない.
『靖国 YASUKUNI』騒動を巡る巷の議論は、本質を全く捉えていない
──靖国議員も自称右翼も映画館も悪くない、であれば何が問題か──
■李纓(リ・イン)監督監督の映画『靖国 YASUKUNI』を巡る混乱が続いている。昨年の話だが、この映画については寺脇研氏・荒井晴彦氏らとの座談会で、私も内容的な論評をしたことがある。今回は内容的な論評ではなく、この騒動を巡る議論を検証したい。
■議論の前提となる限りで内容に触れる。1960年代から周知となったドキュメンタリー技法を用いた佳作だと感じる。その手法とは、Aという立場に寄り添って感情移入やミメーシス(感染的摸倣)を招き、次にアンチAの立場に寄り添って同じことを試みる。
■パレスチナ・サイドに立つドキュメンタリーを見て涙したり激怒したりした直後に、ユダヤ・サイドに立つドキュメンタリーを見て涙したり激怒したりする、という複合的体験を与える手法だ。手法の狙いは「今日的な真実性」を明らかにするところにあろう。
■真実性という言い方は言葉の綾だ。今日ではW・リップマンやD・ブーアスチンの時代とは違う。疑似現実が現実を覆い隠すという図式は採れない。立場-文字通りカメラの立ち位置--に依存する複数のリアリティがあるだけ。それが60年代に明らかになった。
■社会学者P・バーガーはこれを「多元的現実」と称した。J・ボードリヤールはオリジナル/コピーの二元図式が崩れ「シュミラクル」の乱舞が覆うようになったと述べた。抽象的には、誰もが乗っかる共通前提を当てにできなくなったポストモダンに対応する。
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■60年代に明らかになったと述べた。昔は隠されていた多元的現実やシミュラクルの乱舞が突如明らかになったのではない。そうでなく60年代から70年代への変わり目あたりで、近代社会がモダン(近代過渡期)からポストモダン(近代成熟期)に変化したのだ。
■要は「期待の地平が変わった」のだ。自明な〈生活世界〉を生きる者達が「我々」の便益のために〈システム〉を利用するようになる--これを「近代化」という。やがて〈システム〉が全域化して〈生活世界〉が空洞化する--これを「ポストモダン化」と呼ぶ。
■ポストモダン化すれば、自明な「我々」の輪郭が崩れ、誰もがそう思う筈だ(と皆が思う筈)という期待の地平が縮む。すると「そういう見方もあるが、ああいう見方もある」という風になる。相対「主義」者になるのではない。事物が相対的になるのである。
■だがそうなれば、複数の立ち位置によって分岐する多元的現実の束を提示することで、緩やかな「メタ真実」を示唆できる。分かりやすく言えば「そのような多元的現実に分岐した社会」「そのようなシミュラクルの乱舞がある社会」を示唆できるということだ。
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■誤解を塞ぐと、複数の立ち位置とそこからの見え方を精査して多元的現実を正確に記述すれば「メタ真実」が得られる訳ではない。そうした「メタ真実」の抽出が可能であれば、そもそも社会は、ボードリヤールのいう「シミュラクルの乱舞」には当たらない。
■彼の議論は真実がメタであれオブジェクトであれ基底を持たなくなったことに照準する。全てが文脈に依存する部分的真実でしかあり得ない。ベンヤミンの言葉を借りれば、「真実」がシンボル水準なのに対し、「メタ真実」はアレゴリー水準にしかあり得ない。
■アレゴリー(寓意)とは「〈世界〉(ありとあらゆる全体)は確かに“そう”なっている」という納得だ。“そう”が“どう”なのかを明示できない。明示した途端、全体性が部分化するからだ。だからベンヤミンはアレゴリーを「瓦礫が一瞬形づくる星座」と述べた。
■李纓監督の狙いアレゴリーにある。身を清めて居合抜きをする刀匠・刈谷直治に寄り添ってミメーシスを起し、祖霊を返せと宮司に詰め寄る台湾原住民チワス・アリ(漢名・高金素梅)にミメーシスを起す。そこでは言葉より空気感と歴史感が立ちこめている。
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■巷間誤解されがちだが、Aという立場を紹介し、続いてアンチAの立場を紹介することで「どちらにも尤もな言い分がある」と中和すること。そこに李纓監督の狙いはない。「ああ、〈世界〉は確かにそうなっているのだ」と思わせるところにだけ、狙いがある。
■そこに醸し出されるアレゴリカルな効果は、刀匠や台湾原住民の個別性を越え、〈世界〉の全体性に関わる印象--「人のなすナショナリズムの営為が、儚くも尊きもの、尊くも儚きものだ」という感慨--を与えよう。従ってそこには明確な政治性が存在している。
■社会システム理論の枠組では、政治とは、集合的決定--社会成員全員を拘束する決定--をもたらす機能である。それに影響を与えようとする動員の試みは、直ちに政治的である。李纓の映画『靖国』に明確な政治的メッセージが存在することを忘れてはならない。
■映画には固有の主張がある。「ナショナリズムがもたらす悲劇を越えるには、いずれかの立場からのナショナリズムにコミットするだけでは解決しないにせよ、ナショナリステックなコミットメントを単に相対化するだけも解決しない」とパラフレーズできる。
■そこには、ナショナリズムの営為が「儚くも尊きもの、尊くも儚きもの」であることを弁えねば--「当事者を承認しつつも距離をとり、距離をとりながらも深く承認する」という態度なくして--ナショナリスティックな紛争を超克できない、とのメッセージがある。
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■「ナショナリスティックな紛争を超克するには、ナショナリズムの否定でなく、むしろ肯定から始めよ」という明晰なメッセージは、日本の自称左翼への批判になっている。そのことを自称右翼はもとより自称左翼すら掴めずに左翼的に礼賛するのは滑稽千万だ。
■こうしたメッセージは国内的には右翼国際主義(民族派右翼)を標榜する一水会の元代表鈴木邦男氏の持論に近い。因みに私自身の立場にも極く近い。国際的にはS・ムフのラディカルデモクラシーやJ・ラズの卓越主義的リベラリズム等、政治哲学の最前線の思考に近い。
■自称右翼・自称左翼の別を問わず、こうした政治性に適切に反応できないところに、はからずも民度の低さが露呈している。だがそれはそれとして、この映画はさして質が高いものでもない(せいぜい佳作)という「実際の問題」もしっかり見据えておきたい。
■自称左翼は刀匠のシーンが長すぎると揶揄し、自称右翼は台湾原住民や境内での紛争のシーンが長すぎると揶揄する。だが逆である。もっと長くて良い。その分、後半のどうでも良い資料映像を--自称右翼が問題視する映像も含め--大幅に刈り込むべきである。
■なぜ長くするべきなのか。刀匠や原住民の政治的立場の伝達よりもミメーシス(感染的摸倣)が狙いだからだ。刀匠にも原住民にも単一の側面からのみ密着するから、ダラダラして退屈だ。刀匠にも原住民にも存在するだろう万華鏡ぶりを掬い取るべきなのだ。
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■『靖国 YASUKUNI』(以下『靖国』)を巡る昨今のマスメディア報道に根本的な誤りがある。そのことが本来あり得ない筈の「混乱」をもたらしているだろう。「混乱」と記した。映画に対する抗議も映画館の自粛も混乱ではない。それが私の議論の出発点だ。
■問題がどう把握されるべきで、どこに問題があるか。それが連載第一回の主題である。「何を言うか、表現の自由の問題じゃないか」と憤激する向きもあろう。間違いだ。表現の自由は憲法規定で、憲法規定は国民ではなく国家(統治権力)への命令だからだ。
■交際を申し込まれた女が創価学会員は嫌いだと断った。憲法違反か。否。女は働かずに嫁に行けと父親が娘を諭す。憲法違反か。否だ。信教の自由や両性の平等という憲法規定の名宛人(命令の宛先)は国民ではないからだ。これを分かっていない者達が多い。
■であれば、かつての顕密体制ではないが、日本は末端では立憲国家とは言えない。立憲国家とは憲法が法律に優越する政治体制だ。憲法が法律に優越するとは、国民から国家への命令の枠内で国家は国民に命令できるということ。法治(法の支配)の一類型だ。
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■今回は文科省が『靖国』に750万円の助成金を出していた。むしろ国家は『靖国』を支援していたのだ。いや、稲田朋美議員が公開前の段階で自分に映画を見せろ(試写せよ)というのは事前検閲、まさに表現の自由への侵害だ、と憤慨する向きもあるだろう。
■残念だが間違いだ。私もしばしば御世話になる外国人特派員協会の会見「映画『靖国』をめぐる問題点」(3月28日)での稲田議員の言い分は合理的だ。映画の中立性ならびに日本映画であるか否かに疑義があるので、国会議員の責務として問題視したと語る。
■二つの疑義が妥当か否かは本質ではない。疑義があれば行政官僚の行為を問題視するのが議員の責務だからだ。いや、それが目に見えない圧力になる、或いは自称右翼を刺激するのだ、とする反論もあろう。だがそれは、統治権力でなく、市民社会の問題だ。
■だから、たとえ公開前に試写せよとの要求があったにせよ、要求された試写の対象が稲田議員とシンパに限定されていたにせよ、そこには糾弾に値する瑕疵はない。真の問題は「なぜそれを圧力だと感じるか、感じたとしてなぜはね除けられないのか」にある。
■ちなみに配給宣伝のアルゴピクチャーズが全国会議員と議員秘書に試写の範囲を拡げたのは妥当だ。だが稲田側の要求が理不尽だからではなく、試写を特定の立場の議員達に限るより多様な立場の議員達に拡げた方が助成の妥当性論議が適正化するからである。
■その適正性とは憲法規定(表現の自由)に従うか否かという統治権力側の正しさの問題でなく、政治的決定(助成)の是非に関する議論により多くの立場の者達が参加できる[ことを要求する]か否かという市民社会側の正しさの問題だ。ここにヒントがある。
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■3月22日以降「銀座シネパトス」で自称右翼(複数)の街宣や来訪や電話があり、3月26日にシネパトス側が公開中止を決めた。続いて31日に「渋谷Q-AXシネマ」「シネマート六本木」「シネマート心斎橋」が自称右翼からの抗議がないのに同様に決定した。
■報じられた限りでは『靖国』を見ていない段階で抗議をしたとされる。巷間そのことが問題視される。見る前に文句を言うとは何事か。皆で見てから議論せよ云々。むろん、市民間でかかる応酬があるのは民主主義(民主制ではない)の観点から極めて望ましい。
■だがそれも市民社会の健全性を巡る相対的な問題だ。かかる批判は自称右翼に対する決定的な異議申立にはならない。彼らの行動前提が『週刊新潮』(昨年12月20日号)が「反日映画『靖国』は日本の助成金750万円で作られた」と報じたことにあるからだ。
■同誌報道と、この報道を前提とする稲田議員の行動(に関する報道)が、自称右翼を促した。「見る前に抗議するな」との批判は尤もだが、「巷間反日映画とされる作品の公開を黙視すれば右翼の名が廃る」という立場にも合理性がある。つまりは、仕方ない。
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■政治家の行動も自称右翼の行動も決定的批判の対象にならないとすれば、批判されるべきは映画館ないし興行側の対応か。巷間「暴力に到らない抗議で中止するとは何ごとか」「まして抗議もないのに自粛するとは何ごとか」という映画館側への批判が溢れる。
■むろん市民間でこうした応酬があるのは、先程と同じく、民主主義すなわち「社会的な決め事には多様な市民の参加が望ましい」とする市民社会側の(あるべき)価値観からして望ましい。だが映画館批判の内容が妥当かどうかは別だ。私は妥当でないと思う。
■無頼漢の侵入を完全抑止はできない。来場客の持物チェックは未だ常識化していない。客に被害が出れば民事訴訟の対象になり得る。かつてのようにスクリーンを斬られれば百万円を超える損害が出る。抗議団体の街宣行動が近隣住民に迷惑になる可能性もある。
■映画館側の決定には合理性がある。プリンスホテルが日教組への大会会場提供をキャンセルした問題と同型的だ。公開告知を信じた客や一旦契約した客への信義違反だとの批判は尤もだが、対処しきれないと判断するホテルや映画館が出てくるのは、仕方ない。
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■「仕方ない」がキーワードだ。映画の見方は人それぞれ。『靖国』を反日的だと感じる者もいる。そうした記事が出るのは仕方ない。靖国を看板にする議員が記事を読んで『靖国』助成金に疑念を持ち、未見だから映画を見せろと要求するとしても、仕方ない。
■世の中的に反日映画ということになっていれば、そんな映画を公開するのかと抗議する自称右翼が出てくるのも仕方ない。たとえ自分で見てそれ程でもないと感じたにせよ、反日映画だという予期の地平が既成化していれば、抗議は象徴闘争として合理的なのだ。
■そうした抗議があれば、抗議対象となったイベントをホテルや映画館がキャンセルするのも合理的だ。自館に抗議がなくても他館に抗議がある以上仕方ない。組織成員はいざしらず、触発されたメンヘル男(頭のおかしな奴)が電波を受けて暴れるかもしれぬ。
■近隣住民が、抗議団体の街宣活動を怖がったりウルサがったりするのも仕方ない。病気の老親がいるから、妊婦や乳幼児がいるから、少しでもトラブルの可能性があれば回避したい。回避してほしいと願う。責める資格がある者がいるのか。やはり、仕方ない。
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■そう。何もかも仕方ない。とすれば指をくわえて成行に任せる他ないのか。実はそこにだけ論じられべきポイントがあるのだ。先程、これは統治権力を批判すべき表現の自由の問題でも、映画館や興行側を批判すべき信義違反や腰抜けの問題でもないと述べた。
■結論的にはこれは市民社会の成熟の問題だ。19世紀半ば『悪の華』が風紀紊乱だと起訴され、若くして夭折した悲劇の詩人ボードレールの(鈴木邦男氏も好む)台詞がある。「僕は君の思想は気に入らぬが、誰かが君を脅かすなら、僕は命をかけて君を守る」。
■仕方なさにかまければ、映画『靖国』のように、特定の感じ方や考え方をする人間たちの意見表明の機会が奪われる。仕方なさは個人的な行為合理性の問題だが、多様な感性や思想を持つ人々を包摂できるか否かは個人の個別行為を越えた社会の正しさである。
■社会学的な言い方では「行為へのコミットメントではなく行為を支えるプラットフォームへのコミットメントの問題だ」ということだ。倫理学的な言い方では「自由の基底性より正義の基底性が優越するという問題だ」(井上達夫)ということになるだろう。
■政治哲学者ジョン・グレイならば「古典的自由主義から価値多元主義へ」と言う。条件付で功利主義的にも記述できる。与えられたゲームを等閑視したままどんなプレイが得かを追求するのでなく、そもそもそのゲームを続けるのが得かを追求するべきなのだ。
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■最後に紹介した功利主義の枠組を「行為功利主義から規則功利主義へ」と言う。市民倫理(正義だ!)を持ち出すより功利主義(得だ!)を持ち出す方が間口が広い。社会的な価値観にコミットするより、快不快のあり方にコミットする方が敷居が低いからだ。
■この功利主義的な言い方を私は十年程前から日米関係に用いてきた。産経新聞ないし『正論』的な「与えられたリソースの配置においては日本はアメリカについていくのが国益上一番だ」という物言いがある。政治哲学の基礎中の基礎を知らぬ馬鹿な物言いだ。
■米国の外交には建国神話に依存する三つの原則がある。第一は「俺も放って置くから、俺を放っておいてくれ」という孤立主義。第二は「敵の結束を恐れる」がゆえの二国間外交への分断主義。第三は「米国についていくのが一番」と思わせる非軍事化的な戦略。
■単なる説得主義ではない。日頃からプラットフォームを手入れし、相手国が合理的(利己的)なプレイをした場合、自動的に米国の利益になるようセットアップする。プレイの鍔迫合いに先立ってゲームを御膳立する。ジョセフ・ナイはソフトパワーと呼ぶ。
■この第三の原則が、領土支配(領域化)による資源還流を目指す旧帝国主義と異なる、脱領域的なルール支配(デファクト)によるドル還流を目指す米国流グローバル化をもたらした。ローマ帝国の属州統治に見られる「自発性の操縦」の、最高度の洗練形態だ。
■ゲームの非自明性に鈍感なままプレイにかまける傾向を丸山真男は「作為の契機の不在」と呼ぶ。ゲームのプラットフォームを山川の配置のように自然な与件だと見做すので戦略音痴になる。でもそれが日本的美風だとして江藤淳はアンビバレンスに苦しんだ。
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■外交軍事音痴をもたらす「作為の契機の不在」≒「規則功利主義の不在」が、内政において映画『靖国』の問題をもたらす。各個別行為の仕方なさを超えて、個別行為の模索自体を可能にするプラットフォームを意識してコミットすることが、できないのである。
■具体的な処方箋は如何。4月3日のロフトプラスワンにおける『靖国』公開記念イベント改メ上映中止イベントで述べたことを繰返す。靖国議員や自称右翼や映画館や近隣住民や…の行為は仕方ない。仕方ないものを叱っても可愛相だろう。別の手を考えよう。
■戦略的に言えばこういうことだ。仕方ない以上、似た振舞いは今までも頻発したし、将来も反復される。だったら事前に備えておくのである。具体的に述べよう。スクリーンが斬られるのが損害なら、保険をかけたり、映画館団体で相互会社的な積立をする。
■嫌がらせ電話については、番号通知サービスを利用し、通話を録音して法的措置をとる。街宣についても、映画館団体で機器を融通、警察官の前で騒音計測する。警察とは映画館団体として日頃から協議し(仲良くして!)、局面ごとの対応措置を決めておく。
■自称右翼組織が暴力団のフロントならば、組幹部と事前に話をつけておく。その場合、映画館として有力者に頼んで組と交渉するのが批判を浴びやすいというなら、批判を浴びても構わないコネ持ちの個人が興行を代理して映画館を借りられるようにすればいい。
■何よりも先の「市民社会の原則」「人倫の原則」を観客や住民に納得して貰うことだ。“興行は日頃は娯楽を担うが、時として少数者の表現媒体となる。かかる媒体は「民主主義社会」において不可欠の「公噐」となる。多少の迷惑は忍んでくれ”。そう呼び掛ける。
■かつて、唐十郎率いる状況劇場のテント芝居が、機動隊が取り囲む中、花園神社で強行されたことがある。麻布中学時代も、機動隊の装甲車が取り囲む中、学園祭を開催した。どちらも主催者側「を」危険視しての警備だったが(笑)、本当の「祭り」を味わえた。
■いいじゃないか、祭りだ、祭り。ただ、何事かを祭るためには、日頃から共通前提の醸成が必要になる。だったら共通前提を醸成するための仕掛けを日頃から工夫しておく。仕方ないものを批判したり、仕方ないと単に黙っているのは、愚か者の振る舞いなのだ。
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