余命1カ月の母を殺した 見えなかった7千人の「情」2008年04月21日03時03分 ところどころに雪が残る春先の栃木・鬼怒川温泉を訪ねた。夕暮れどき、その2人が心中しようとした川に行ってみる。
川面まで30メートル。橋から下をのぞき込むと、すーっと吸い込まれるような恐怖に襲われた。 末期がんで余命1カ月の母親とともに飛び降りようとした長女(43)は、その怖さから踏みとどまったはずだった。 「やっぱり最期まで母をみとろう」。そう誓った6日後。 長女は自らの手で、母の68年の生涯を終わらせた。 ◇ 昨年5月30日に起きた「殺人事件」の現場に足を運んだ。 栃木県足利市にある2階建ての民家。玄関先には枯れかけた植木鉢が置かれていた。昼間なのに、どの部屋もカーテンは固く閉じられている。わずかな量の洗濯物だけが、人が住んでいることを伝えていた。 事前に会いたいと手紙を送っておいた。インターホンを鳴らすと、薄暗い室内から人影が現れた。この家で母親と二人きりで暮らしていた長女だった。 「まだ一日を過ごすのがやっとで……」。そう言いながら部屋に通してくれた。母親が闘病していた1階の8畳間には仏壇が置かれ、骨つぼや供え物とともに2人がほおをつけてほほえむ写真がいくつも並んでいた。 長女の話は1年半前の06年9月にさかのぼる。 体調不良を訴えた母親を病院に連れて行くと、胃がんの宣告を受けた。すでに末期で、治療は難しかった。余生を自宅で過ごすことを望んだ母親の面倒は、自分だけでみた。「闘病も二人三脚でがんばろうと話し合った末のことだった」。他の人に頼ることは考えなかった。 告知から半年。口やのどがただれ、母親は薬も水も飲めなくなった。毎日、毎日、「死にたい」と繰り返す母親。 「愛する人だからこそ、苦しみは自分のことのよう。いつしか、1人が逝ったらもう1人も、と話をするようになった」 2人の預金で盛大な葬式を。そんな遺言を一緒に考えた。死に場所は鬼怒川温泉に。そう話し合った。 ◇ 在宅で死を迎えることを望む患者や家族は少なくない。早期退院を求める病院もある。ただ、閉鎖された「家」という空間は、わずかなきっかけで悲劇を生みかねない。 「家族は何らかの形で外部とつながっていることが大切。看護疲れで冷静な判断ができないこともある」。日本ホスピス緩和ケア協会理事長の山崎章郎さんは、そう話してくれた。 かつて、末期がんの母親が死んだら私も死ぬ、と言っていた大学生の娘がいた。山崎さんは時間をかけて娘と語り合い、最後には母親の死を受け止められるようになったという。 「思い詰めていたら何をしたか分からなかった。第三者と話をすることで気持ちは和らぐ」 山崎さんは、患者の家族に自分たちの携帯電話番号を渡している。実際にかかってくることはあまりない。「電話番号を張っておくだけで、何かの時には誰かがいてくれる、と思える。外につながっているという安心感によって乗り越えられることも多いのです」 ◇ 橋で思いとどまってから6日後、母親は高熱も加わり、意味不明の数字を数え、幻覚にうなされていた。「とっさに楽にしてあげて、私も、と思った」。電気ストーブのコードを見せると、母親はうなずいた。二重に巻き付け、首を絞めた。 承諾殺人の罪。自分は死ねなかった。 昨夏、判決で裁判所は「どのような状況でも人の命を奪うことは決して許されず、他にとるべき方法はあった」と、その行為を非難した。ただ、執行猶予がついた背景には、その境遇を酌んでほしいと、7千もの人が署名を寄せた減刑嘆願書の存在があったのかもしれない。 長女は長年勤めた全国展開の不動産会社に看病のことは伏せていた。会社が知ったのは看病のため依願退職した後。署名集めの輪は、友人から、勤め先や各地の同僚にも広がっていた。 孤独だと思い込んでいたほんの少し先に、優しい目で見てくれる人たちがいた。そこにつながる「携帯電話番号」があったならば――。 ◇ 「いま1人で看護をしている人は、一時でもいいから、誰かに助けを求めて欲しい」 自省を込めて話す長女の手元にはいまも嘆願書の束がある。昨夏の判決が確定して自宅に戻ったあと、署名してくれた人の名前と住所をひとつひとつノートに書き写していった。 1カ月かけて終えたとき、ようやく、玄関を開けて人と向き合えるようになったという。 06年度中にがんで亡くなった人は32万9314人。死因の30.4%を占め、日本人の死因のトップだ。(宮地ゆう) PR情報この記事の関連情報社会
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