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おくやみ

橋本龍太郎元首相が多臓器不全、敗血症性ショックのため死去

 橋本龍太郎(はしもと・りゅうたろう)元首相が06年7月1日、多臓器不全、敗血症性ショックのため、東京・新宿の国立国際医療センターで死去した。68歳。先月4日、腸管虚血と診断され、腸の大部分を切除する手術を受け入院していた。早くから「自民党のプリンス」と呼ばれ、首相に上り詰めたが、経済政策の失言による参院選惨敗で退任。最後は日本歯科医師連盟(日歯連)からの1億円闇献金事件で政界を引退した。波乱の政治家人生だった。

 6月4日、腸への血流量が低下する「腸管虚血」と診断され、翌5日に腸の大部分を切除する手術を受けた橋本氏は、手術後、1度も意識を回復することなく、息を引き取った。
 二男の岳(がく)衆院議員(32)によると、手術前「おれが講演をやらなきゃ」と話したのが最後の言葉だった。遺体は病理解剖された。弟の橋本大二郎高知県知事は「兄は医療や厚生行政に長く携わった。日本の医療に貢献するメッセージを残してくれた」。「私人としての(家族との)暮らしが少なく、最後は自分の手で送ってあげたい」という久美子夫人ら家族の意向で葬儀、告別式は近親者だけで行う。
 「自民党のプリンス」として頭角を現し、蔵相や幹事長など要職を歴任した橋本氏は、甘いマスクに流し目で女性から「龍さま」と慕われた。剣道着姿の「龍ちゃん人形」や「龍ちゃんプリクラ」も設置される人気だったが、節目では女性や人事、金の問題につまずいた。

 89年、総裁選出馬を期待されたが、宇野政権の幹事長として大敗した参院選の責任と、女性問題が重なって見送った。
 96年1月、首相の座に就いたが、97年、内閣の最重要課題だった行革担当のトップ総務庁長官に、ロッキード事件で有罪が確定した佐藤孝行氏を起用。世論の集中砲火を浴びて10日余りで更迭した。中国政府の女性通訳との関係も報じられ、女性が情報部員とされたため「国家機密にかかわる問題」と、野党が衆院予算委員会で追及する事態になった。

 98年の参院選前には恒久減税の実施に言及しながら、選挙戦で「言っていない」と迷走。株価は下落し、自民党は惨敗。引責辞任に追い込まれた。
 表舞台への復活を懸けて01年の総裁選に出馬したが、小泉純一郎首相に大差で敗北。04年には日歯連からの1億円献金隠し疑惑が発覚し、派閥会長を辞任した。政治倫理審査会では「(記憶はないが)事実なのだろうと思う」と弁明し、与野党から強く批判された。地盤を岳氏に譲り、昨年8月、追われるように政界を去った。「どうも純ちゃん(小泉首相)との一戦以降、負け戦が続いているな」と自嘲(じちょう)気味に漏らしていたという。

<葬儀日程>
 ▼自宅 東京都港区南麻布3の5の49の603。
 ▼葬儀・告別式 都内で3日、近親者のみで執り行う。
 ▼喪主 長男龍(りょう)氏。


橋本氏訃報に小泉首相悲痛…

 カナダ、米国訪問を終えた小泉純一郎首相(64)は1日午後5時53分、政府専用機で羽田空港に到着すると、その足で東京・南麻布の橋本元首相宅に向かい、弔問した。米国では故エルビス・プレスリー邸を訪ね「夢がかなった」と大はしゃぎだった首相だが、同じ慶大出身で2度総裁選を戦った橋本氏の訃報(ふほう)に一転、悲痛な表情。「悲しみの念を禁じ得ない」との談話を発表しただけで、報道各社のインタビューには応じなかった。
 プレスリー邸での首相は、遺品のサングラスをかけ、ギターを持つ手を高く振り上げるプレスリーお得意のポーズを披露。娘のリサ・マリーさんの肩に手を回しつつ「強く抱き締めたい」と英語で歌の一節を語りかけるパフォーマンスをみせ、案内役のブッシュ米大統領(59)を「首相がプレスリーを愛していることは知っていたが、ここまでとは思わなかった」と驚かせた。
 米3大ネットワークも驚いたもようで「首相らしからぬ(パフォーマンス)」(NBCテレビ)「これは本当に起きたこと?」(CBSテレビ)と視聴者の多い夕方のニュースでそろって報道する異例の扱い。一夜明けた米紙ワシントン・ポストもサングラス姿の首相の写真を1面で大きく掲載し「大統領にとって恐らく最も記憶に残る楽しい外国要人との旅行だったろう」と伝えた。
 しかし、帰りの機中で伝えられたのは橋本氏の訃報だった。初の総裁選挑戦となった95年は大敗したが、01年には「自民党をぶっ壊す」と叫んで圧勝した。自民党を支配してきた経世会と派閥政治を標的とすることで、人気と権力を保ち続けてきた首相は、因縁ともいえる橋本氏が9月の自らの退陣を前に逝ってしまったことに険しい表情のまま。報道各社のインタビューには応じず「21世紀のわが国のあるべき姿を展望し、中央省庁再編や介護保険制度の創設、金融システム安定化などに尽力した。優れた指導者の訃報に接し、悲しみの念を禁じ得ない。心から哀悼の意を表します」との談話を発表しただけだった。

政界からの悲しみの声

 村山富市元首相 社労族として30年来の付き合いだった。大変な勉強家、政策通で、役人に口を挟ませなかった。自社さ連立政権のころは、自民党総裁として一生懸命支えてくれた。通産相としても難しい日米交渉をこなしてくれた。今の政治に対してものが言える立場の人だっただけに、大変残念だ。

 小沢一郎民主党代表 こんなに早く亡くなるとは…。政策に明るく意志の強い人だった。首相までされ政治家として頂点を極めた人だから、まだまだこれから後進の指導に当たってもらい、元気でやってもらいたかったという思いがして非常に残念です。

 渡部恒三民主党国対委員長 初めて国会に出た時、若手の政治家で、政策の橋本、人柄の小渕といわれた。われわれの時代で最も政策に明るい政治家だった。総裁選で小泉君に負けてからは、廊下で会っても寂しそうだった。幹事長代理で全国を遊説したときは龍さま人気はすごかった。寂しいな。もっと頑張ってほしかった。

 大田昌秀前沖縄県知事 沖縄にかける思いは本物で、まともに話ができる方だった。知事時代、17回にわたり米軍普天間飛行場の移設問題で会合をもった。上着を脱いで、シャツの腕をまくり上げる姿が印象的だった。ざっくばらんで、たわいのない話をする中から思いが伝わってきた。もう1度ゆっくりお会いしたいと思っていたが、早過ぎるご逝去にお悔やみの言葉もない。

自慢の兄…橋本大二郎高知県知事コメント

 たった1人の兄との別れが、こんなに早くこようとは思っていなかった。初めての知事選挙のとき、応援演説に立った兄が「自慢の弟です」と言ってくれた言葉が今も耳に残っている。今、兄を見送るにあたり、この言葉を「自慢の兄でした」と言い換えて、兄に返してあげたい。
 兄は26歳で政治の世界に入ってから40年余を一心不乱に駆け抜けてきた。長い間ご苦労さまと声を掛けた。
 今回の病気は突然腸に血が回らなくなる原因不明の病だったが、病理解剖の検体となることで、ライフワークとしてきた厚生・医療の分野で最後の務めもできた。やり残した仕事や言い残したことも数多くあったと思うし、聞き出しておけなかったことは心残りだが、身近な者が遺志を引き継いでいきたい。

TV発言が退陣のきっかけ…田原総一朗氏/悼む

 橋本さんが亡くなったと聞き、今、忸怩(じくじ)たる思いでいます。もう1度、食事でもしながらゆっくり話をしたかった。互いに好きだった論争をしたかったのに。
 98年7月5日放送のテレビ朝日「サンデープロジェクト」で、私は橋本さんと相対しました。その2日前、橋本さんは当時の世論に応えるように恒久減税の実施を口にしていました。しかし、番組で私が「財源は?」と問うと、「恒久減税という言葉は使っていない。税制改革の論議を進めていく」とはぐらかした。さらに問い詰めると、絶句した。テレビカメラは残酷でその汗びっしょりの苦しそうな表情をとらえていました。翌日、新聞はこのやりとりをトップで報道。「恒久減税は口約束で実現しないのでは」という疑念が世の中に広がったのです。
 この発言のブレが原因で自民党は参議院選挙に敗北し、橋本さんは退陣に追い込まれました。番組放送後、政治家や官僚が電話してきて「橋本さんがかわいそうだ」と言われました。
 思えば橋本さんは気の毒な人でした。小泉さんよりも先に、財政再建を打ち出し、消費税を3%から5%に上げた。素晴らしい行動力だったが、北海道拓殖銀行がつぶれ、金融パニックと不況が襲ってきた。大蔵省は知らんぷり。それゆえに恒久減税待望の世論が起きた。財源がないのに…。選挙のために、それに応えようとした橋本さんは本当に苦しかったはず。ご冥福をお祈りいたします。(ジャーナリスト)

校舎をロープで登り下り…作家安部譲二氏/悼む

 同級生だったのは、昭和25年のことだよ。そのころの橋本と一緒に写っている写真をいくら探してもないんだよ。なぜか。いつもあいつがカメラマンをしてたからなんだ。終戦直後の中学生。あいつしかカメラなんて持ってなかったんだ。でも、いつも現像して写真をみんなにくれたんだよ。
 麻布中学時代、あいつは山登りばかりしていて、皆にあきれられていたほどだった。校舎の屋上からロープをおろして、よじ登ったり下りたりしてたんだよ。普通じゃないよ。僕が「登山なんて勝ち負けのないことやって、何が面白いの?」と聞くと、橋本は言ったものさ。「頂上まで行くと、下で雲が動くんだ」。今、サッカー見てても、選手が審判にすぐ「痛い」とアピールするけどさ、橋本は登山みたいな、そんなアピールとかレフェリーとかがない世界に引かれたんだと思う。
 橋本はおれの斜め後ろの席だった。あいつはおれの答案用紙を全部写して、それで進級したんだから。それで総理にまでなるんだからすごいよな(笑い)。(談)

運に恵まれなかった「孤高の政治家」…三反園訓氏/悼む

 「ポマードできちっと髪を固めた、はにかみやのキザなダンディー」。初めて橋龍さんを見た時の印象だ。橋本政権時代、首相官邸キャップとして近くで見てきた。97年4月、米国、カナダ、ニュージーランド訪問に同行した時、政府専用機内で航空自衛隊のブルゾンを着て、うれしそうに歩く姿が目に焼き付いている。「どうだい、似合うかい」。意外と子供っぽい、やんちゃな面もあった。
 記者の質問には、こばかにしたような口調で「何を聞いているんだい。おや、そんなこともお分かりにならないの?」と、嫌みな返答をした。同じ質問をされるのを特に嫌った。この人の鼻っ柱の強い突っ張り人生を象徴している。ゴルフも、素振りもせずに1発で打つ方だった。
 自民党屈指の政策通でありながら、党内に支持者が少なかった。橋龍さんを知る実力者は「怒る、いばる、すねるがなければ、とっくの昔に総理になっていた」と話した。格好つけて突っ張っているのは、気の弱さを見せないようにしているようだった。
 政治家は群れるのが好きだが、一匹おおかみで人とはあまり交わらない「孤高の政治家」。分かりやすく言うと「経世会の小泉純一郎」だった。しかし、小泉さんとは対照的に運には恵まれなかった。04年、日歯連からの1億円献金疑惑が浮上し政界引退に追い込まれた。政界を長年支配してきた田中派、経世会(竹下派)の終えんを物語る出来事だった。橋龍さんは、1つの時代の終わりを告げるかのように旅立った。(テレビ朝日コメンテーター)



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