世界の黒幕は日本人
快傑ハリマオ アラフラの真珠篇 Disc1 価格:¥ 500(税込) 発売日:2007-06-10 |
オルタナティブ通信さんちなんだが、この頃、中の人が変わったのかね? 書いてる事が妙にマトモになっちゃったんだが、今回はHSBCについてやってます。香港上海銀行だね。ここについて書くんだったら、アレだ、フランシスベーコンという名前の犬についても書いて貰いたかったんだが、誰も書かない、つうか、書けない話のようなので、おいらが書きます。つうか、去年の5月24日に書いたヤツなんだが、元サイトが死んでるので転載。
ペントハウスはオレのモノ
ペントハウスというと、マン毛丸出しにしたネーチャンの裸を思い出すのは、育ちが悪い証拠なんだが、そもそもアレだ、でかいビルを建てて、その最上階を自分の住居にする、というのが金持ちのライフスタイルで、たとえば以前のエントリで書いた上海の和平飯店なんだが、アレはロスチャイルド系のサッスーン財閥が建てたホテルで、最上階がサッスーンの自宅になっていた。で、このサッスーン家というのが調べてみると、たまらなく面白いわけだ。 話はアヘン戦争とか東インド会社まで遡るんだが、イギリスの極東戦略がうまく行ったのは、このサッスーン家と結びついたから、という側面がある。というのも、サッスーン家はもちろんユダヤなんだが、もともと中東を拠点にしていた家系であって、ヨーロッパのユダヤではない。以下のサイトにサッスーン家の歴史については触れられているので、紹介すると、
●「サッスーン家」は、もともとは18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。 1792年にこの一族の子供として生まれたデビッド・サッスーンは、バグダッド(現在のイラク)で活動していたが、シルクロードの交易によってますますその富を蓄え、そこからインドへ進出(移住)した。 ●デビッド・サッスーンは、1832年にインドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国で売り払い、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。 (※ デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていたのである)。
つまり、サッスーン財閥というのは戦前の上海経済の支配者になるのだが、そのルーツは中東であり、そもそもアジア系の商人なのだ。国籍はイギリスだったりするんだが、そもそも一度もヨーロッパに住んだ事なんかなかったりする。 で、中国が共産主義になると連中は香港に逃げるわけだが、日本にも古くから来ている。神戸には北野に旧サッスーン邸があって、
イスラエル人であったデヴィット・サッスーン氏は、1910年にシリアのアレポで生まれました。サッスーン氏は1937年に来日、その後の生涯を日本で過ごします。1961年には結婚をして3人の子供に恵まれ、1991年12月に亡くなりました。 サッスーン氏は神戸に会社を設立して、主に繊維をアメリカ、ヨーロッパ、中近東に輸出をしていました。その後も幅広く拡大をし、神戸、大阪、東京に事務所を設けます。世界第2次大戦中は、日本に留まり、終戦後不動産を始めました。
という事なんだが、サッスーン財閥の作った香港上海銀行は日本で開業してから140年になるそうで、古くから欧米諸国の代理人として日本でビジネスを展開していた事をうかがわせる。ユダヤ系上海財閥ではジャーディン・マセソンも有名で、その日本支配人グラバーは坂本龍馬を駒に使って明治維新を起こしたりするんだが、あちらは完全にイギリス系だ。 で、上海名物の和平飯店だが、そもそも和平飯店はサッスーン・ハウスと呼ばれていた。1929年に建てられ、東洋一のビルと呼ばれていたが、最上階10階のペントハウスはサッスーンの居宅である。そこでビキニのネーチャンを飼っていたかどうかは知らないが、サッスーン家の当主がそこに陣取っていたわけだ。で、話は現代の東京に戻るわけだが。 サッスーン家がアヘン取引のために作った銀行が香港上海銀行だ。今ではその規模は世界一になったとも言われるんだが、東京では日本橋に自社ビルを持っている。で、宅配便で外貨を配達してくれるとか、バンコクの闇両替みたいな妙なサービスをやったりしているんだが、日本橋のHSBCビルディングの最上階に何があるのかというのが、また、非常に興味深いわけだ。
日本橋の新築ビルの最上階2フロアをブチ抜いた、400平方メートルはありそうなスペース。でも片側はガラス張りの窓なので、絵画展は10メートルほどの壁面しか使ってない。いったいなにを目的とするスペースなんだろ。
というわけで、家賃払ったら月数百万円になりそうなスペースで、誰も知らない現代美術作家の個展をやったりしているらしい。 で、このギャラリーのヌシがウイスキーの名前の人なんだが、ビキニのネーチャンは飼ってないようだが、巨大な犬を飼っていて、名前はフランシスベーコン。名前はベーコンだが菜食主義の犬で、おとなしいらしい。現代美術のコレクターで、関係パーティーには必ず顔を出す名物男だそうで。犬は、気にくわない絵を見ると吠えるそうで、なかなかの審美眼を持つらしい。本人は中国生まれの日本育ちと言ってるそうだが、実家は神戸の高級住宅街で、父親は金貸しだそうだ。現代美術のコレクターとして有名で、美術手帳で二度も特集を組まれている。また、恵比寿にもプライベート・ギャラリーを持っているそうだ。とんでもない金持ちらしいが、その正体を知る者は誰もいない。つうか、日本でも指折りの蔵書票銅版画家(ずいぶん狭いジャンルだがw 足の指まで動員しないと出て来ない名前かも知れないがw)であるウチの奥さんに言わせると「絶対、偽名だ」と言うんだけどね。ちなみにおいらの犬の名前は「るんみぃ」と言って、ドリアンを買ってくると自分のお尻の臭いを必死で嗅ぐという犬です。
ついでにもう一本だ。やはり去年の8月6日に掲載されたヤツです。
ホンシャンペントハウスのフランシスベーコン
フルフォードさんちのコメント欄で質問している人がいるんだが、サッスーン財閥の話になるとフルフォードさんが返事しないんだな。どういうわけか。で、その人が書いている陰謀財閥一覧なんだが。
~陰謀物語の常連財閥~ ヴァンダービルド財閥(アメリカ最大の鉄道王で、ウィンストン・チャーチルの親戚であり、赤狩りにアル・カポネを利用した一族。国際政治評論家の副島隆彦さんによると、すでに消滅しているとのこと。作家の広瀬隆さんによれば、今だその力は強大で、ウォール街支配者の1つとのこと。) デュポン財閥(アメリカ最大の死の商人、火薬王。ブロンフマン財閥と親しい。) アスター財閥(ホテル王、不動産王の異名を持つ大富豪。) グッゲンハイム財閥(アメリカの鉱山王。クリントン政権の国務長官のマドレーヌ・オルブライトはこの財閥出身。) ベアリング財閥(かつて、ロスチャイルド財閥と世界を2分した巨大財閥。クローマー伯爵。) ギネス財閥(造酒王。貿易王。ギネス・ビールとギネス・ブックが有名。) バークレー財閥(イギリスの金融王。) ロイド財閥(イギリスの金融王。) ハンブロー財閥(イタリア系マフィアのラ・コーザ・ノストラの資金を握る貿易王。南アフリカのアパルトヘイト【人種隔離政策】にも関与。) ゴールドスミス財閥(大投資家ジョージ・ソロスの黒幕。ドイツのロスチャイルド〈ローシルト〉一族。) オッペンハイマー財閥(南アフリカのダイヤモンド王。アパルトヘイト【人種隔離政策】の元凶。) サッスーン財閥(人類史上最大最悪の麻薬王。阿片戦争の黒幕だった19世紀の阿片王。東南アジアの麻薬ゴールデン・トライアングル生みの親。消滅したという噂があるが、インドのゾロアスター教徒財閥のタタ一族と親しい。) アニェリ財閥(イタリア唯一の大財閥。自動車王。背後にはシシリアン・マフィアのラ・コーザ・ノストラの影がちらつく。外孫のジョン・エルカーンが継承した。) ティッセン財閥(ナチス最大のパトロン。ヨーロッパ皇帝のハプスブルグ家とは親戚関係。) シュネーデル財閥(フランスの原子力・兵器王。) ダッソー財閥(フランスの兵器王。非常に悪名高く、陰謀論の常連さん。) エッシャー財閥(世界中の独裁者と犯罪者の汚れた金で潤うスイス金融界の黒幕。) ヴァーレンベリ財閥(スウェーデン最強の財閥。ロスチャイルド財閥と近い。) オナシス財閥(ギリシアの海運王。ジャクリーン・ケネディの再婚相手。) スワイヤ財閥(イギリス人香港財閥。キャセイ・パシフィック航空支配者。) 李財閥(長江実業。華商最大の財閥にして、香港経済の支配者。李嘉誠は阿片王サッスーンの資金で設立したHSBC〈香港上海銀行)の副会長だった。) タタ財閥(インドのゾロアスター教徒財閥。ナヴァル・タタがサッスーン商会〈阿片王〉の重役の座にいた。)
で、よく判らないのが、サッスーン財閥というのは消滅したのか、まだ力を持っているのか、それが不明だ、という事なんだが。で、この人は以下のようにフルフォードに質問しているわけだ。
李嘉誠(Li Ka-Shing)はイルミナティのメンバーなんですか? 李嘉誠といえば、華僑最大の財閥である長江実業の創設者で、その資産は120億米ドル(1.2兆円)を超え、香港及び東アジア全域で最も富裕な人物であり、華僑としては世界最大の資産家で、毎年、フルフォードさんの古巣であるフォーブスが発表している世界長者番付で、20位代をキープしている香港経済界の大物で、1990年代には、李嘉誠の所有する証券類が香港株式市場の5分の1に達していたと言われていて、イギリス系の香港財閥であるスワイヤー財閥(Swire Group〈太古集?〉)と共に、香港を支配している巨人ですよね。李嘉誠って、たしか、19世紀にアジアで暴れ回っていた阿片王サッスーンの資金で設立した、現在世界第3位の銀行であるHSBC〈香港上海銀行)の副会長だったと思うのですが、このHSBCって言えば、香港ドル発券銀行の一つ(「香港上海銀行」ブランドで発行)ですよね。ちなみに、大財閥のスワイヤー家はHSBCの個人筆頭株主で、他にもキャセイ・パシフィック航空の資本の45%を支配していたりと、李嘉誠の資本力もバケモノじみていますけれど、スワイヤー家の資本力も怪物です。しかも、スワイヤー家の当主であるジョン・スワイヤー(John Swire)の母親のジュリエット(Juliet)は世界第9位の銀行のバークレーズ銀行の創業者一族であるバークレー(Barclay)家の出身です。 バークレーズ銀行の創業者のジョン・バークレー(John Barclay)の兄弟のデーヴィッドの義父はロイズ銀行創業者のサンプソン・ロイド2世(Sampson Lloyd Ⅱ)です。同じ集団が、世界第3位の銀行HSBCと、世界第9位の銀行バークレーズ銀行と、ロイズ銀行を保有しているということですよね。阿片王サッスーン一族が、世界最大財閥のロスチャイルド家と、カナダの造酒王ブロンフマン家は親戚なのは有名です。現在インド最大財閥であるタタ財閥がこの阿片王サッスーン一族の利権を引き継いでいることは、作家の広瀬隆さんの『赤い楯 ロスチャイルドの秘密』に書かれています。広瀬隆さんのこの本によると、タタ一族のナヴァル・タタがサッスーン商会〈阿片王〉の重役の座にいたと書いてあります。HSBCのことも合わせて考えれば、それだけ、現在でもこの阿片王サッスーン財閥の影響がインドと香港、アジア全域に強く出ているということでしょう。世界最大規模の貿易商社であるジャーディン・マセソン社の支配者ケスウィック(Keswick)家が、HSBCの会長と重役だったことや、かつて、ロスチャイルド財閥と世界を2分したほどのイギリスの大財閥ベアリング家のアレキサンダー・F・ベアリング(Alexander F. Baring)と、海運王の包玉剛が、HSBC重役・幹部だったことも重要なことだと思います。これも、広瀬隆さんの書かれた本に載っている家系図に詳しく書かれています。HSBCは阿片王サッスーンの資金で設立されたことからも分かる通りですが、Wikipediaには、HSBCの当初の目的は、(阿片貿易で儲けた資金を安全かつ迅速にイギリスに送金することが主な業務)とはっきり書いてあります。そして、ケスウィック家の支配するジャーディン・マセソン社と言えば、阿片の密輸と茶の貿易で、1840年の阿片戦争に深く関わっていたことや、幕末・明治の日本においては、代理人であるトーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)を日本に派遣して、坂本龍馬をはじめとした、明治維新志士のすべてを背後で操っていた明治維新の黒幕企業です。 トーマス・ブレーク・グラバーが三菱財閥の誕生に深く関与していたことは有名ですが、トーマス・ブレーク・グラバーと坂本龍馬の2人が、世界最大の国際秘密結社であるフリーメーソンのメンバーだったという話も有名です。ケスウィック家がハンブローズ銀行にも、太いパイプが有ることも重要なことでしょう。そして、アレキサンダー・F・ベアリングですが、アレキサンダーの息子のジョン(アシュバートン男爵)が石油メジャーのBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)会長だったことや、ジョンの妻のサラがイギリス政界の名門一族でウィンストン・S・チャーチルを出した、スペンサー・チャーチル家の出身であったことも注目する点です。これは、広瀬隆さんの『世界石油戦争 燃え上がる歴史のパイプライン』という本の巻末の家系図に詳しく載っています。要するに、HSBCこそ、アジア経済の最大の黒幕であるということですよね。そして、HSBCから李嘉誠(Li Ka-Shing)という香港政財界の最大の大物が現れる訳ですが、やはり、李嘉誠も英米の秘密結社イルミナティのメンバーなのでしょうか? 李嘉誠(Li Ka-Shing)について、詳しく教えて頂きたく思います。 出来れば、サッスーンについても何かコメントをして頂きたいです。
これに対するフルフォードの回答というのは「李嘉誠(Li Ka-Shing)については情報がないので、存じ上げません」とだけ。サッスーンについては答えていない。 ところで、サッスーン財閥の象徴とも言えるのが上海の和平飯店なんだが、その最上階はサッスーンハウスと呼ばれて、一族の住居となっていた。戦前の上海華やかなりし時代の話なんだが、時は流れて、現代だ。日本橋にある香港上海銀行ビルにも、もちろん最上階はある。まぁ、たいていのビルに最上階はあるものだが。ただ、このフロアは奇妙な事に、空室になっているわけだ。正確には空室ではなく、ほとんど公開される事のない プライベート・ギャラリーになっている。なんだよ、プライベート・ギャラリーってw で、だだっ広いフロアにポツン、ポツンと現代美術が置かれたりしているようなんだが、その主というのが、日本国籍を持つアレで、ナニがどうとか、おいらのサイトの膨大な過去ログ漁ると出ているかも知れないんだが、まぁ、ほどほどにしておきます。 ところで、おいらの好みはジョニーウォーカー黒の炭酸割りなので、飲み屋のオネエサンは間違えないで下さいね。水割りは苦手なので。
前フリが長いね。ここまでがマクラだ。で、いよいよ噺は本題に入るんだが、20世紀は石油の時代だったと言われるようになったんだが、21世紀は水素文明の時代になるとか、水素文明は日本がリードするとか連山さんちも頑張ってらっしゃるようなんだが、そんな話です。で、オルタさんちだが、
現在、原油生産とサウジアラビアの周辺に位置するアラビア湾岸諸国として、またサッカーでも有名なバーレーンは、1920年代までは英国のイースタン銀行の支配下にあり、真珠の生産・輸出を最大の産業としていた。しかし、日本が真珠の養殖に成功し安価な真珠を世界中に輸出したために、バーレーン経済は苦境に陥る。バーレーンの天然真珠はインドに運ばれインドで加工され、その売却利益でインド製品が購入され、バーレーンの食料・生活物資として流通・販売されていた。そのためバーレーンの苦境は、そのままインドで商業を営んでいたイラン・イラク地方からのアラブ商人をも苦境に陥れた。この苦境から脱出するために、既に産油国であったイラン・イラク地方の商人達は、インド資本と欧米資本の力を借りながらバーレーンで原油を採掘し、真珠に代わる原油産業を興すことになる。
鼠の嫁入りという話があるわけだ。中国人が威張って、「一対一の商売だったら日本人には負けない」というんだが、そんな中国人もインド人には敵わない。印僑のいるところ華僑なし、という言葉があるんだが、なければ作ればいいんだが、押しつけがましさではインド人は凄い。ところが、そのインド人もムスリムの商人には敵わない。ムスリムはアジアとヨーロッパの貿易を独占して富を築いた。ここで書かれている真珠の交易というのも、その典型だな。ちなみにラピスラズリという石があるんだが、アレはアフガニスタンで採れるわけだが、わざわざ中国まで運ばれて、そこで磨かれる。バンコクの中央郵便局の向かいにムスリム商人の溜まり場になっている宿があって、そこに巣くっているラピス屋さんがそう言っていた。アフガニスタンでは、中国のようにツルツルには磨けないのだそうで、そういう世界というのは余所者が簡単に参入できないようになっているのだ。
で、それほど強烈なムスリム商人なんだが、ヤツらでも敵わないのがユダヤ人だ。ユダヤの凄さは言うまでもないんだが、そのユダヤ人がしみじみと溜息をついて言うんだが、「いやいや、日本人には敵いませんわw 車だって、ハイテクだって、材料費と売値を比べたら、そら、暴利なんてもんじゃありまへんで」と、何故かインチキな関西弁で答えたというんだが、コレを鼠の嫁入り理論というわけだ。
そこで真珠なんだが、オルタさんが書いてるように、ムスリムの交易ルートで動いていたわけだ。スリランカには何百年も昔から住み着いたムスリムがおおぜいいるんだが、みんな、宝石を商売にしている。そういうのも同じルートで動いていたんだろう。それが、日本人が実用化した養殖真珠のせいで壊滅する。ちなみに、養殖真珠の技術そのものは13世紀の中国でも行われていたというのだが、量産するには至らなかった。実用化したのは、言うまでもなく御木本幸吉だ。
養殖真珠の歴史も古く、13世紀の中国などで既に行われているが量産することは難しかった。日本では、1893年に箕作佳吉の指導をうけた御木本幸吉が英虞湾神明浦で阿古屋貝の半円真珠の養殖に成功し、1905年英虞湾の多徳島で真円真珠の養殖に成功した。それ以来、英虞湾、宇和海、長崎県対馬などで養殖が行われている。真珠養殖が始まってからほぼ百年が経過したが、1996年頃から始まったウイルス感染症によるアコヤガイの大量斃死現象や真珠摘出後の廃棄貝、および諸々の排水による湾の富栄養化などの要因から、生産性は低下している。
今では、養殖真珠はあちこちで作られる。中国では淡水パールが作られているし、南洋では色付きの南洋真珠が作られる。日本の特産ではないんだが、それでも真珠業界においては日本がマーケットの支配者だ。
と、ここまでがイントロ。本題はこれからだ。コレも去年の再録になるんだが、9月2日です。
沼津のみかん仙人
沼津の木負という土地にはみかん仙人がいると言われているんだが、どういう仙人かというと、
大きな蜜柑の実の中で碁を打っているらしいとりあえずこちらに全文出ているので読んで貰うとして、だ。日本における蜜柑の産地というのを考えてみる。まず、熊本から愛媛、和歌山、静岡なんていうのが有名なんだが、気候が温暖な太平洋岸という事になるわけだ。まぁ、蜜柑の木なんてモノはやたら自生しているものでもないので、誰かが植えて歩いたわけだな。 ところで、かつてスカンジナビア号が繋留されていた木負のあたりというのは、みかん仙人の伝説があるくらいなので蜜柑栽培が盛んなのだが、かつては漁業で生計を立てていた。木負ばかりではなく、現在、蜜柑栽培やっている地域の多くは漁業が盛んだった土地だ。おいらの大学時代の友人にも小田原の蜜柑農家の息子がいたんだが、むかしは漁業やっていたそうで、西湘バイパスができて車のヘッドライトが眩しいので魚が獲れなくなって蜜柑に転向したそうだ。蜜柑というのは平地でなくても栽培できるからね。しかも日持ちがするので遠隔地への輸送に耐えられる。戦前には静岡蜜柑はアメリカ方面に多く輸出されていた。ほかの農業ができないような漁村でも可能なわけだ。で、そういう土地というのは交通の便があまり良くないんだが、蜜柑なら船でも運べる。紀伊国屋文左衛門だな。もとが漁師なのでそういう土地の人だったら船は得意なわけだ。 蜜柑というのは都会の人のために作る換金作物なので、いくら蜜柑がいっぱい取れても腹は膨れない。つまり、蜜柑を作るようになったのは比較的近世になってからだと思われる。それ以前は、やはり漁業なんだが、ここで面白い話があるわけだ。例の、木負なんだが、スカンジナビア号が停泊していた土地の反対側に小さな山がある。この土地は伊豆箱根鉄道が持っているんだが、長年にわたって開発されずにほったらかしになっていた。地元の学校の先生に言わせると「あすこは縄文時代の遺跡があるので、掘ると土器なんかがいっぱい出てくる。だから開発できない」と言うんだけどね。発掘しなきゃならないとなると、途方もないカネがかかるわけだ。ここで興味深いのは、その遺跡に住んでいた縄文人はどこから来て、何を生業としていたのか、という事だ。縄文時代というと、まだ栽培農業はあまり普及してないので採集経済なんだが、人間、魚ばかり食って生きられるものでもないわけで、山の民と物々交換もしていたのだろう。また日本書紀だったかにも、干しカツオを献上したというような記録があるらしい。今のカツオ節に近似したモノを作っていたのは間違いなさそうだ。 カツオ節というと日本独特の存在だと思われているんだが、実はスリランカではカツオ節でカレーの出汁を取ったりする。スリランカの隣にはモルディブという国があるんだが、あすこは全く農業ができない。モルディブの人々の古来よりの生業というのはカツオ節作りだ。スリランカにはモルディブから留学生がおおぜい来ていたりして、交流は活発なんだが、ロクに菜っ葉もとれないモルディブでどうやって古来から人々が生きて来たのかを考えると、ここら辺に解決のヒントがあったりするわけだな。モルディブの人口のほぼ100パーセントがイスラム教徒なんだが、スリランカにも古来よりイスラム教徒は多く、特に流通・観光事業に多く従事している。海のイスラム・ネットワークが存在するわけだ。船乗りシンドバッドの世界だな。 ところで、上のAmazonリンクの本にも収録されているんだが、つげ義春の名作「長八の宿」には、松崎に住み着いた漁師の爺さんが出てくる。この爺さんは房総の出身だ。嵐で流されて松崎に来たという設定になっているんだが、蜜柑を作ったり、イルカを食ったり、クジラを捕まえたり、カツオ節作ったり、そうした人種というのが日本には昔からいたわけだ。最近では魚が獲れなくなったために「農業」という分類になってしまうんだが、せいぜい野菜の自給自足くらいが精一杯なので、彼らの生業というのはあくまでも「海の民」なのだ。こうした海の民がどこから来たのかというと、コレが日本の民俗学においても大きな問題になっていて、柳田國男が「海上の道」という名作を書いているんだが、つまり、アレだ、どこか遠くの島から流れ着いた椰子の実が砂浜に転がっていて、その椰子の実から島崎藤村が有名な国民歌謡「椰子の実」を作詞したという話もあったりするんだが、日本民族南方起源論というのは日本が南方に進出するための方便だなんて反論もあったりして、なかなか学問というのも政治や国際情勢を離れては存在し得ないようだね。 ついでに中国の仙人ネタ。山東省のある村の湾に住むという
蝦蟇仙人が「耳が四つある人間を食う」という話を聞いた道師が支那鍋かぶった男を助けようとするんだが、
あくる日、老道士は、耳が四つある人を救うため、湾の近くで待っていた。昼ごろになり、太陽は焼けつくように熱くなった。このとき、北の方から、鍋を日除け帽子代わりに頭に被っている人がやってきた。この鍋、山東の人が炒め物をするのに使う鍋で、両側には取っ手があり、山東の人たちはこれを鍋の耳と称していた。老道士は一見して、この鍋を被った人こそ、耳が四つある人だと分かった。 耳が四つある人は、大きな湾のそばまで来ると、気温が暑すぎるため、鍋を放り出して湾の中で体を洗おうとした。老道士は、急いでこれを阻止し、耳が四つある人に湾の中で体を洗わせなかった。耳が四つある人は怒り、老道士を地面に押し倒すと、容赦なく蹴り上げ、鍋を頭に被って、大手を振って去っていった。
というお話なんだが、この話の教訓は、というと、中国人は時々支那鍋かぶっている、とか、まぁ、そういう事です。
さて、引用と転載ばかりしていたら、やたらエントリが長くなってしまったので、ここら辺でひと休み。綺麗な風景でも眺めていだいて、
お馴染み、おいらの帆船Ami号なんだが、次の日曜日はヨットレースがある日で、観戦クルーズに出ます。暖かくなって海の楽しい季節なので、ヨットレースの観戦とフルセイルで楽しみませんか? 詳しくはコチラのサイトまで。
と、宣伝が終わったところで、ちなみに↑の写真は木負の赤崎にある赤灯台から撮った風景なんだが、その木負の話です。
式内社・鮑玉白珠比咩命神社に比定されている神社で『伊豆國神階帳』に「従四位上 宮玉の明神」とある古社。
赤崎の岬にあり、江戸時代より赤崎神社、赤碕明神と称した。
明治七年、上條鎮座の御嶽神社を合祀し木負神社と改称した。
その後、明治三十五年、現社号に復した。赤崎の岬は、縄文後期と弥生後期の遺跡があり境内付近からも土師器などが出土しており古くから祭祀が行われていたと考えられる土地。
鮑玉白珠比咩命(あわびたましらたまひめみこと)を祀る神社が、この木負の地にあるわけだ。ちなみにこの名前で検索してみても、この神社しか出て来ない。伊豆半島はそういう神社が大瀬神社とか、他にもあるんだが、由緒が深いわけだな。で、このあたり、縄文時代からの遺跡が出土する。名前からすると、この地でアワビから採れた真珠やらアコヤ貝から採れた真珠やら、朝廷に献上したとか、そういう由緒があるのかも知れないが、今ではそういう伝承はないです。ただ、「きしょう」という名の由来では、
鎮座地名の木負(きしょう)は、和名抄にみえる「吉妾郷」に該当すると考えられているが、当社の女神が比類なき美女であったため「ヨシツマ」と称し「吉妾」となったという説がある。
とも言われているらしい。大昔、この地に比類なき美女が統治する王国があって、真珠を特産とし、大和朝廷にも真珠を献上する事によって知られていたとか、そんな姿が目に浮かんでくる。で、話はぐっと時代がくだって戦後なんだが。
伊勢志摩から、ひと組の夫婦が駆け落ちしてきたらしい。あちらでは真珠を特産として作っていた家なのだそうだが、沼津まで逃げて来て、この地で真珠の養殖を始めるわけだ。水が汚染されて真珠の養殖は長くは続かなかったんだが、一時期、木負から静浦にかけての一帯では真珠養殖が盛んだった。御木本幸吉が実用化に成功した真珠養殖は、そんな形で日本のあちこちに伝えられ、日本はムスリムを駆逐して世界の真珠王になる。駆け落ちして来た夫婦の子孫は、今では沼津の香貫山のふもとで「渡辺真珠店」という宝石屋をやっているんだが、そこの暖簾は全部、真珠を繋いで作ってありますw で、やっと本題に入ったわけなんだが、真珠という金づるを奪われたムスリムたちが、その代替として発見した資源が石油だった。オルタさんの言ってるのは、つまり、そういう事なんだが、してみると20世紀という石油の時代を作った裏には、海とともに生き、縄文・弥生の昔から真珠と親しんだ日本人の存在というのがあったわけだ。
しかし、石油の時代は終わりを告げようとしている。次は水素の時代になるのか、何の時代になるのか、いずれにせよ、それを作るのは、やはり日本人だろう。それが歴史の必然性というモノであり、19世紀の植民地戦争の時代を終わらせたのも日本人だ。困ったような顔してウロウロしていても、後で気がついてみると、歴史はすべて日本人が動かしていた、という、世界の黒幕はシアワセの青い鳥でした、という話です。
なんか癒されるような不思議な物語ですね。
西欧ではジパングは黄金の国についての伝説があり
その国を探し出すことが彼らの長年の宿題になってましたね。
彼らは探し物(青い鳥)を見つけたのでしょうか。
見つけられないからペントハウス建てて住んでるのでしょうか。
投稿 cylphede | 2008/04/20 17:17