ソメイヨシノの起源について
  日本を代表するサクラ:ソメイヨシノの起源が済州島?
  ソメイヨシノの真の起源について
  ソメイヨシノ済州島起源説の背景について
  科学的に否定されても誤った説に固執するのは?
  他に類例のあるソメイヨシノウリナラ起源説
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(関連ページ) 日本人、日本文化と植物 サクラ、日の丸と君が代の悲劇 豊かな日本の生物多様性1 

 まもなくサクラの開花を迎える。今年(平成20年)は昨年末から例年より気温が低い日が続いたから、開花も遅くなると予想されていたが、三月に入ってからは高温の日が続いているので、やはり平年並みかむしろそれより早まる可能性も出てきた。わが国で栽培されるサクラは圧倒的にソメイヨシノが多く、今日ではソメイヨシノは国花たるサクラの代名詞ともなっている。日本にソメイヨシノの野生はなく、明治時代以来、その起源について多くの植物学者が頭を悩ませてきたのであるが、例年、この時期になると、隣国のマスコミから「ソメイヨシノの起源は日本ではない」という声(ご丁寧に日本語版も用意している)が聞こえてくる。それによれば、今年は「ソメイヨシノが発見されて100年目」(フランス人宣教師タケーが1908年に済州島で発見したことになっているが、これについては後に詳述する)であるから一段と声が大きくなることが予想される。ソメイヨシノの起源については学術的にはかなり以前に決着がついているはずなのに、なぜ?と思う人は少なくないだろう。最近では、もっともらしい科学的データを添えてくるから、やっぱりソメイヨシノは日本原産ではないのかと信じてしまう人もいるだろう。科学的根拠を基盤としたソメイヨシノの起源に関する総説はほとんどなく、あったとしても古く一般人の目にまずふれることはないので、”新しい科学的データ”を提示されるとつい信じてしまいがち、すなわち騙されやすいのである。こうした状況をふまえて、できる限りの文献を入手・精読し、ここに「ソメイヨシノの起源」について総説としてまとめてみた。これを読めば、やはりソメイヨシノは日本原産であると自信をもっていえると確信する。本稿のうち「日本を代表するサクラ:ソメイヨシノの起源が済州島?」以降の記事は著作権を放棄するので、丸ごとコピーも含めて完全自由使用を認める(但し、次の段落の著作権は筆者にあることを申し上げておきたい)ので参考になればと思う。
 サクラは、日本最古の上代文学(万葉集・記紀)からその名を見るように、古くから日本人に親しまれてきたが、万葉集ではサクラの歌がウメの三分の一しか詠われていないことをもって、古典文学研究者のほとんどは異口同音に古代日本を代表する花はサクラではなくウメであると答える。一方、万葉の植物研究で知られた松田修氏(「万葉の花」、芸艸堂参照)などを始め、植物を熟知する人ほどサクラに対する評価は高くなる傾向がある。筆者も生薬学・薬用植物学を専門とし古典文学を専攻するものではないが、万葉集にあるサクラ・ウメの歌は全て目を通している。素人の目からも歴然としているのは、ウメの歌の多くが「ウメとウグイス」などのような陳腐な取り合わせ(どころか、ウグイスは人目に見えないような薮の中を好み、梅林に姿を見せることはまずなく、想像上の産物にすぎない!)で詠われていることであって中国六朝漢詩の影響が色濃く(斎藤正二氏が著書「日本人とサクラ」で指摘している)、物珍しさだけで詠われているように感じることである。一方、サクラの歌のほとんどはその花の美しさを率直に詠っているのがひしひしと心に伝わってくる。上代の日本人の桜観は、文選の沈休収の五言詩「早に定山を發す」の一節「野棠は開いて未だ落ちず、山櫻は發いて然えんとす」を「下敷きにして換骨奪胎したもの」であると思想家の斎藤正二氏は主張したが、詠人不知の歌が圧倒的な万葉のサクラの歌の中に中国詩の影響を読み取ることは正直いって難しい。斎藤氏の主張も中国詩の中に「山櫻」の名を見いだし、万葉時代の日本における中国の影響の深さから一方的にそう推論しただけのようにみえ、実際の万葉歌を取りあげて説明するという具体性を欠くものであった。中国でいう桜は実が食用になるものを指す。したがって、もっぱら花だけを対象としてきた日本とは桜に対する感性がまるで異なるのである。斎藤氏はこれを無視し、本来自由闊達であるはずの感性を奇妙な観念論的フィルターを通してしまったから、実感とかけ離れたとんでもない結論に至るのも無理からぬことだろう。筆者の率直な感想によれば、上代の日本人は意外と派手好みでサクラの美しさに素直に反応しているし、逆に近世の日本人はウメの控えめな美しさに美意識を見いだしていたのである。中尾佐助氏は、「万葉集でうたわれた植物は頻度十位(註:ウメを二位、サクラを八位にランクされるとしている)までは、ことごとく実用性よりも花や姿の美学的評価のゆえに選ばれた」と主張している(「花と木の文化史」、岩波新書)が、サクラ(ヤマザクラなど野生種)の樹皮がカニハ(万葉集にも詠われている)と呼ばれて有用な工芸材料であったこと、サクラの開花が農耕の開始の指標となる歳時植物であったことを無視している。万葉の植物は薬用・食用など何らかの実用性をもったものであって、万葉人はその枠組みの中でわずかな美意識を見いだして歌に詠ったにすぎないのである。中世室町時代に「わびさびの文化」が興り、江戸時代には世界的に希有な古典園芸文化(マツバラン、ベニチガヤ、フトイ、斑(ふ)入り植物などの栽培)が隆盛したことを考えると、地味だが清楚なウメの花が派手なサクラに一方的に圧倒され続けたというのは考えにくいのだ。筆者は理系の徒であって古典文学の門外漢であるが、だからこそ、古くからの通説にとらわれず、客観的な視点にたって物事を見ることができると自負している。ウメが中国原産の渡来植物であることは今日では誰もが知るところであるが、不思議なことに江戸時代を代表する本草家である貝原益軒や小野蘭山の著書のどこを見てもその記述はなく、ウメが珍しい植物という意識は皆無であり、モモやアンズについては漢土の産と記述されているのと対照的である。一方、万葉時代はウメが渡来して間もない時期だったから、太宰府の帥であった大伴旅人は観梅の園を催し、この宴で詠われた歌だけでも総計42首と万葉のウメの歌の3分の1を超す。この宴は、中国六朝時代の353年、会稽(今の浙江省紹興県西)の蘭亭で名士を集めて開かれた王義之主催の宴会に倣ったものであり、最初から歌人の頭の中には「ウメは中国の先端文化の象徴」という先入観が焼き付けられていたのである。それより千年経た江戸時代になるとそれがすっかり忘れ去られ、あたかも日本原産であるかのようになっていたのである。江戸時代になって本家の中国をしのぐほどウメの食用としての利用が高度に発達したから本草の専門家すらそう錯覚してしまったと思われる。ウメは有用植物として揺るぎない地位を得た一方で、観賞用のハナウメの品種数がサクラと並べるほど育成されたことは意外に知られていない。貝原益軒は、著書『大和本草』の中で、「梅ハ花中ノ第一品トスヘキモノ也」と評価するほど、江戸期はウメの花が大変な評価を受けた時代であった。ただ、このブームは園芸分野に留まり、文学までは波及しなかったから、文系研究者の目には江戸時代はウメはサクラに圧倒されたように見えたのであろう。園芸品種の育成には鑑賞する側の熱意がなければ生まれないから、それほどの数の品種が存在したことはやはり根強い愛好があった証拠なのである。
日本を代表するサクラ:ソメイヨシノの起源が済州島?
 さて、植物学的にサクラと称するものはなく、一般通念でいうサクラとはサクラ亜属に分類されるヤマザクラを中心とした数種の野生のサクラ種を総称するのであるが、今日、各地に植栽されるもので野生の形質のものは少なくほとんどは園芸品種である。もっとも広く栽培されるのがソメイヨシノで、その起源についてはエドヒガンとオオシマザクラの雑種起源説のほか、朝鮮済州島起源説があり、長い間論争があった。後述するように、かなり以前に雑種起源説が客観的な科学的根拠に基づいて定説として確立したのであるが、韓国ではそうではなかったらしい。2006年4月4日の朝鮮日報電子版にはびっくりするような記事が掲載され、米国ワシントンのポトマック川の満開のサクラの写真とともに、次のような記事があった(原文はハングルで表記されていたが、翻訳ソフトで機械翻訳したものを修正した)

アメリカワシントンに咲く美しいサクラの原産地は済州島であって日本ではない
 一般的に日本産桜で知られたワシントン桜を始め、 鎭海、汝矣島などの桜が済州山ソメイヨシノ(註:韓国語ではワングボッナムという)であることを知らせようという運動がおこっている。日本が歴史教科書まで歪曲している(註:歴史問題とは直接関係ないはずだが、これに結びつけようとするのは韓国のマスコミの常套手段である)中で、済州山で確認され天然記念物に指定されているソメイヨシノの存在をこの機会に広め、(日本に)釘をさしておこうという運動だ。
 西帰浦文化事業会は、去る 9日、天然記念物第159号に指定されたソメイヨシノを複製, 西帰浦市ゴルメセングテゴングワン(註:意味不明だが、地名であろうか)に植えた。李石槍西帰浦文化事業会会長は“済州は世界唯一のソメイヨシノの自生地(註:後述するように全くの誤り)にもかかわらずこんな事実があまり知られていなかった”と“桜といえば当然日本を思い浮かぶ認識を破る必要があって広報活動を始めた”と言った。
 アメリカワシントンにはポトマック公園を始じめ、リンカーン記念館、ジェファーソン記念館などポトマック川端を中心に桜が植えられているし、先月26日から桜祭りが開かれている。アメリカ人たちはワシントン桜を日本との善隣関係象徴物で見ている。
 金纂修博士はこれに対して“済州道内天然林100あまりの所でソメイヨシノが自生することが確認された(註:もし本当なら大発見だが、学術専門誌ではまだ発表されていないから、まだ信頼するに足るものではない)”、“済州ソメイヨシノは1908年、フランス人タケーによって初めて発見され、後に多くの日本人学者によっても自生地認証を受けた(註:後に詳述するが、それがソメイヨシノであることを認める学者は筆者の知る限りではいない)”と明らかにした。彼は“ソメイヨシノは全世界 200余種類の桜の中でも一番派手で大きく育つ品種(註:実際に世界のサクラ属種を見た上での話だろうか?竹中博士は現在栽培されるソメイヨシノより立派な花をつける交配種を作出している)”と言った。 彼はまた“日本はこのために済州山ソメイヨシノを並木で植えるなど繁殖させた後(註:日本で済州島のサクラを増殖した事実はなく、全くの作り話である。韓国を代表するといわれる新聞社がこんな捏造記事を書くようではその見識が疑われよう)、全国各所に桜公園を造成したし, アメリカにもプレゼントした記録がある(ソメイヨシノとアメリカハナミズキを交換したことをいうのだろう)”と付け加えた。

 無論、ここで記述されていることは誤謬(本文中の註は筆者による)であり、ほとんど捏造に近いものだが、朝鮮日報は毎年のようにサクラの開花時期にこんな内容の記事を発信してきたらしい。当初は単なる嫉妬に毛が生えた程度のものであったのが、年々その内容が過激化し、2007年4月11日にはついに”科学的根拠”まで持ち出して次のような記事(朝鮮日報日本語電子版であって筆者による翻訳文ではない)を書くまでになってしまった。無論、この記事の内容は、後に説明するが、これも誤謬および曲解に満ちたものである(括弧内は筆者註)

 DNA分析を通じた研究の結果、日本の国花であるソメイヨシノの原産地は済州島の漢拏(ハルラ)山だという事実が初めて明らかになった。
11日、山林庁林業研究員のチョ・ギョンジン博士のチームによれば、漢拏山の自生ソメイヨシノと国内で植栽されたソメイヨシノ(韓国内で植栽されるものはほとんどは日本から移植したものである)、日本のソメイヨシノを対象にDNA指紋分析を遂行した結果、原産地は済州島だと明らかになった(註:これが誤りであることは後述するが、過去の知見のみならずごく最近発表された研究結果とも合わない)。
 チョ博士は「遺伝変移は原産地の樹種で多様に大きく現れるが、今回の調査で漢拏山の自生ソメイヨシノは日本のものよりも遺伝変移が2.5倍と顕著に大きく、変異も多様に現れていた(済州島産ソメイヨシノと称するものは希少種であってそんな多様の形質の個体があるはずがない!後に述べるように日本から移植したソメイヨシノとそれに韓国産野生サクラ属種の遺伝子が混じったものをソメイヨシノと一括りにしてしまっただろう)」と述べた。
 彼はまた「大部分の自生ソメイヨシノは国内で植栽されているものや日本のソメイヨシノと区分される特異なDNAを持っており(註:おそらく野生サクラ種の遺伝子をマーカーとして用いていないからこういう結論になるのだろう)、一部の個体のみ国内で植栽されているものや日本のソメイヨシノと同じDNAを持っていた」とし、「このことは、自生ソメイヨシノが日本に渡っていき、国内で植栽されているソメイヨシノは日本から再び移ってきたということを証明している(註:後述するようにこう言い切るには試料の厳格な遺伝子管理が必要であり、研究者はこれを明確にしなければ実験結果は科学者の認知するところとはならない!)」と付け加えた。
 また、日本にはソメイヨシノの自生地がない(註:これは事実だが、交配種起源であるからあたりまえのこと)一方、漢拏山には自生地がある(註:ソメイヨシノと似たものであることは確かだが、系統が全く異なるから、この言い回しは学術的には誤りである)ため、ソメイヨシノの原産地が漢拏山だという今回の研究結果を後押ししている(註:後述するようにこれまでの信頼できる実験結果と矛盾するが、それに対して有効な反論がなされておらず、これまでの説を覆すにはほど遠いものである)。
 山林庁関係者は「今回の原産地糾明は、日本産として間違って知られていたもの(註:後述するようにソメイヨシノは紛れもなく日本原産である)に対し、我々のものを取り戻したということに意義が大きい(偏狭な民族主義的観念が根底にあると本来中立的であるはずの自然科学的データも曲解されることになる)」とし、「山林庁は花の華麗な漢拏山の自生ソメイヨシノ(註:真の野生であるかどうか甚だあやしい。後述するように、現在よりはるかに自然が保全されていた戦前でも超希少品であった)を済州林業試験場で大量増殖し、全国に拡大普及する計画(註:よほど厳格な品種管理をしないと後から検証が難しくなるが、うやむやにするのが本意の可能性もある)」だと明らかにした。
 一方、これまでソメイヨシノの原産地研究は花と葉、果実などの外形を対象に研究されてきたが、形態が似ていて正確な検証は難しかった(註:基本的に正しいが、これを真に理解するにはよほどの専門家でないと難しい)。

 ここでは”済州島自生のソメイヨシノ”と称し、その多様な形質の中から一部が日本に渡って植栽されたとするが、それがそもそもの誤りであることはサクラ博士として著名な故竹中要博士ほか多くの日本人研究者の緻密な研究で明らかである。これについては後にじっくりと説明するとして、ごく最近になって米国農務省に属する研究所・ソウル大学などの米韓の研究グループが東京・ワシントンに植栽されるソメイヨシノと済州島に産する野生品とのDNA解析を行い、「済州島産は日本産(そして移植されたワシントン産も)の雑種起源のソメイヨシノとははっきりと区別される固有種である」という結論に至っているScientia Horticulturae, 114(2): 121-128, 2007。韓国山林庁の研究も米韓共同研究と同じく分子生物学的解析による研究結果には違いないが、最先端の科学ツールも使い方次第でどうにでも解釈できることを如実に示している。普通なら学会や学会誌で発表される直前か後にこの種の記事は掲載される。学会であれば当該の発表に対する他の多数の研究者の評価を聞くことができるし、学会誌であればその雑誌のインパクト係数(優れた研究ほど引用度が高いという前提に立って学術雑誌を格付けしたもの)でその研究内容がいかほどのものか判断できるからである。朝鮮日報はそういうプロセスを経ずに韓国山林庁の研究を記事にしてしまった(記者は学者ではないから無理もないが)。遺伝子解析実験によって起源を明らかにしようとする場合、使用する試料に他の種の遺伝子が混入しているか否か細心の注意を払う必要があり、口でいうほど簡単なことではない。サクラ亜属の植物は容易に交雑する性質が顕著であるから、研究試料の選定には一層の慎重さが求められるのだ。日本に広く植栽されるソメイヨシノは実をつけることはきわめて稀であるが、他のサクラ亜属種が混植されている場合、よく結実することを故竹中要博士は伊豆大島のソメイヨシノの例を挙げて研究ノートに記している遺伝, 12: 41-46, 1958。すなわち、ソメイヨシノ同士では結実の割合は非常に低い(おそらくないだろう)のであるが、交配親であるオオシマザクラ・エドヒガンを含めて他のサクラ種の花粉を受粉させるとその割合はずっと高くなるというのである。日本ではソメイヨシノを実生で増殖することはまずなく、全て接木でクローン増殖されるので、他のサクラ亜属による遺伝子交雑の心配は全くない。『原色韓国植物図鑑』(李永魯、教学社、1996年)では、ソウルの王宮「昌慶苑」(日本統治時代に多くのソメイヨシノが日本から移植されていたことが竹中博士の論文に記載されている)に植栽するサクラの写真をPrunus yedoensis Matsumuraとし、韓国名をワングボッナム(漢字で表すと王桜木の意)として掲載するが、その樹形および花付きからどこか日本のソメイヨシノとは違うように見える。また結実した写真も掲載しているが、説明文には普通に結実するかのように記述されている(以上、下の図を参照)

これから推察すると、韓国ではソメイヨシノと異種のサクラとの受粉がよく起きている(すなわち純系のソメイヨシノに対する遺伝子汚染が起きていること)と考えざるを得ず、今日では実生から増殖したものも韓国産ソメイヨシノとして植栽されているのではという疑わざるを得ない。実生で増殖されたものであれば昌慶苑のワングボッナムが日本のソメイヨシノと違うとしても全く不思議はないからだ。すなわち、韓国では品種管理が不適切(というと語弊があるかもしれないが、韓国の園芸文化のレベルを考えると優良品種の厳格管理が適切に行われてきたとは到底思えない)で、米国農務省のグループが東京およびワシントン産のソメイヨシノを用いたのもそうした危惧を見越したからとも推察できるのだ。
 ここでしばらく話題を変え、日本の園芸文化が江戸時代には厳格な品種管理を可能にするほど高度に発達していたという例を挙げて説明してみたい。毎年、夏になると、日本各地でアサガオ市が催される。アサガオは日本原産ではないが、園芸用に栽培するのは世界で日本だけらしい。これまでに多くの品種が育成されたが、その中で「変化アサガオ」と称する品種群の創出は高度な遺伝子管理技術を伴うもので、アサガオ以外の植物種を含めても世界に類例のないものであった(右に例を示す)。江戸中期の1762年に八重咲き品種が作られ、1853年には135品種が記録されるほどまでアサガオの花卉園芸は成長した。アサガオは一年草であり、変化アサガオの大半はおしべやめしべが弁化するため種子ができないので、その変異を生み出す普通花型の親株(親木という)を系統保存しなければならない。すなわち変化型は普通花型から発生する劣性遺伝子であり、これを出物(でもの)と呼んだ。分子生物学的にいえば、動く遺伝子であるトランスポゾンがゲノム上を移動することによって生み出される突然変異といってよい。中には親の形質を受け継いだもの、すなわち遺伝学でいう純系にあたるものもあって、これを正木(しょうき)といった。すなわち、江戸時代のアサガオの園芸は、出物と正木が複雑に組み合わさったものであり、これらの品種群を維持するにはどうしても遺伝子管理が必要になる。遺伝学の知識のない当時、経験則で多くの系統を維持したことは驚くべきことといわざるをえない。残念ながらこれらの技術は秘伝とされたため、科学としての遺伝の法則が生まれることはなかったが、日本人の各品種に対する遺伝子管理技術がいかに優れていたかがわかるであろう。メンデルの法則が発見されるはるか前に行われていたのであるから、この技術は優に世界遺産に値するものである(今のところ、登録の動きはないようだ)
 韓国にはこのような園芸文化の伝統がない(少なくとも日本と比べると雲泥の差である)から、せっかくのソメイヨシノ(真性および済州島産のいずれも含めて)も遺伝子汚染フリーであったとは想像することすら難しい。そのような試料を用いている限り、他の種の遺伝子が混入しているのだから、”韓国産ソメイヨシノの遺伝的多様性が高い”のも当然の帰結であって驚くに当たらない。最先端の遺伝子解析技術を駆使したといっても満足のいく前提条件がなければ「豚に真珠」に等しいのである。韓国山林庁の研究結果を捏造というつもりは毛頭ないが、厳格な遺伝子管理をともわない試料(済州島に産するという”ソメイヨシノ”(きわめて稀産のはずである)および韓国に植栽されるソメイヨシノ(多くは日本から移植されたもののはず)、新聞報道による実験結果を見る限りでは考慮されているようには見えない)を用いている限り、これまでの知見と相反する結果(後述するようにソメイヨシノは日本で雑種として発生し、済州島では同じものが発生し得ないことを交配実験ならびに遺伝子解析によって明らかにされている)が得られても不思議はなく、まともな研究者であれば単に杜撰な実験結果と一蹴するだろう。
ソメイヨシノの真の起源について
 ソメイヨシノの起源の解明について、もっとも精力的に行った学者は国立遺伝学研究所部長であった故竹中要博士をおいて他はない。同博士はソメイヨシノがオオシマザクラとエドヒガンの雑種であることを、膨大な交配実験サクラの研究:続ソメイヨシノの起源から明らかにした。また、滅多に実をつけないソメイヨシノの種子(これも多分他のサクラ属種の交配したものであろうが、この中にもソメイヨシノの両親の遺伝子が入っていることに変わりはないを丹念に集めて、実生株から発生する形態の変異についても細かく観察(各株にソメイヨシノの親の形質が先祖返りで様々な形で出てくるのでそれを丹念に解析する)し、それがオオシマザクラの形質からエドヒガンの形質をもつものまで連続的に出現することも確かめBot. Mag. Tokyo 75: 278-287, 1962; ibid 78: 319-331, 1965; J. Heredity 54: 207-211, 1963、ソメイヨシノが雑種起源であるというほとんど決定的ともいえる結果を得たのである。木本植物の交配実験は、実生から成長するまでに長い時間を要するので、そう簡単にできるものではない。因みに、交配でつくられたサクラ類は国立遺伝学研究所(静岡県三島市)に植栽されているといい、目に見える証拠を残しているのであるから、竹中博士の業績は高く評価されてしてよい。1995年に京都大学の研究グループがDNA解析により竹中博士の雑種説を支持する結果を得たJpn. J. Genet. 70: 185-196, 1995が、ソメイヨシノがどこで発生したのかという問題だけが最後に残った。竹中博士は、オオシマザクラとエドヒガンの両種が分布する伊豆半島を調査し、船原峠でフナバラヨシノと命名した自然雑種を発見し、江戸の旧染井村(江戸時代では多くの植木家職人が集まっていたことで知られる)の植木屋職人が採集して江戸に持ち帰ったと推定しているBot. Mag. Tokyo 78: 319-331, 1962。それに異論を唱えたのが筑波大学農林系の岩崎文雄氏であり、オオシマザクラが自然分布ないし古くから植栽されていた伊豆半島・三浦半島・房総半島におけるエドヒガンの生態を詳しく調べた結果、江戸時代にあってはオオシマザクラとエドヒガンの雑種形成は自然状態ではあり得ないと結論した筑波大農林研報3:95―110, 1991。すなわち竹中博士が発見したのは両種の自然雑種であることは間違いないが、後世の著しく攪乱した生態系のもとで発生したというのである。岩崎氏はソメイヨシノに関する社会科学的な調査も行い、郷土史研究家による史料からソメイヨシノは当初考えられていた時期(江戸末期から明治初年)よりも100年以上古い時代からあったことを指摘し、江戸・染井の植木屋であった伊藤伊兵衛・政武が創出したと新説を提唱した筑波大農林研報 3: 95-110, 1991。2007年の日本育種学会において「PolA1遺伝子解析によるサクラの類縁関係 -ソメイヨシノの起源」という演題が発表され、伊豆諸島から伊豆半島の固有種オオシマザクラとエドヒガンの栽培品種であるコマツオトメとの交配で生み出された可能性が高いことが千葉大学園芸学部などのグループが明らかにした。コマツオトメは江戸で発生したエドヒガンの品種であるから、伊豆半島で自然発生したという竹中説は否定され、染井村で発生したという岩崎説を間接的に支持する結果となった。以上、客観的な科学的証拠によってソメイヨシノの起源が明らかにされ、論争に終止符が打たれたのである。
 最近では、韓国人特有のウリナラ起源論として広く定着したから、韓国を代表するジャーナリズムである朝鮮日報が“ソメイヨシノは 1908年、フランス人タケーによって初めて発見され、後に多くの日本人学者によっても自生地認証を受けた”(すなわち2008年はその100周年に当たる)と書き記しても驚く日本人は少なくなった。この記述自体に誤りはないが、やはり無知あるいは検証能力不足に基づく誤解あるいは曲解があることは否定できない。意外なことに、ソメイヨシノ済州島起源説は韓国からではなく戦前の日本に発生し、主唱者は京都帝国大学小泉源一郎博士であった。案外、朝鮮日報のいう自生地認定というのはこのことを指すのかもしれない。以上のことは竹中博士の論文「サクラの研究:ソメイヨシノの起源」および研究ノート「染井吉野というサクラ」に詳しく記述されており、今日では入手の困難な文献を精読・引用しているので、ソメイヨシノの研究史を知るには最適である。朝鮮半島はいわゆるプラントハンターからは無視されてきたのであまり植物調査は行われなかったのであるが、済州島に長く宣教師として滞在した仏人タケーは同島に産する植物試料を集めていたらしい。ドイツの植物学者ケーネは、タケーが1908年に採集したサクラ属の個体についてソメイヨシノの変種(日本名エイシュウザクラ:瀛洲桜、エイシュウとは済州島の古名)として記載したのがそもそもの発端であった。しかし、一個体でしかも幼木から採集した葉のない花枝一本からなる不完全標本であり、朝鮮日報がいうように発見されたというほどのものではなく、科学的観点から考えて種として有効であったとはいえないのが事実である。植物分類学では、一つの種の系統を正しく理解するには少なくとも百の標本が必要であるといわれるから、今日からすれば情報不足と一蹴されるようなものであった。ところが、この翌年、京都帝国大学助教授であった小泉源一博士は仏人フォーリーが済州島で採集した標本の中にソメイヨシノに似たものを見つけ、ソメイヨシノが済州島起源であることを直感したらしい。つまり、ケーネによって命名された変種のエイシュウザクラがあり、また別にフォーリーの試料が出てきたのだから、ソメイヨシノそのものも済州島にあると考えたのである。一方、米国Arnold樹木園からサクラの研究で日本に派遣されたウイルソンは、1916年に出版された報告書「日本の桜」(The Cherry of Japan)の中で、ソメイヨシノがオオシマザクラとエドヒガンの雑種である可能性を指摘した。今から考えれば、ウイルソンの指摘は達観であったのだが、1932年、小泉博士は自説を確かめるために済州島にて現地調査を行い、エイシュウザクラ・エドヒガンとともに混生していたソメイヨシノの野生品を発見したと報告したのである(→染井吉野櫻の天生地分明す。ソメイヨシノと比較したというフォーリーの標本が残っておらず、済州島に自生していたというソメイヨシノについても一個体しかなかったにもかかわらず、この反響は大きなものであった。大正5(1916)年の朝鮮森林植物編第5輯(中井猛之進編)に立派な図版とともに「済州島漢拏山の森林に生じ稀品なり。分布、日本に広く栽培すれど其産地を知らず」と記載されている竹中博士論文引用が、論評抜きの記述から自他ともに朝鮮半島の植物の権威と認める中井猛之進博士が受けた衝撃の大きさを暗示している。また、当時、サクラの権威といえば三好学博士が著名であったが、自著『最新植物学』の下巻に「染井吉野は明治の初染井の花戸に於いて栽培せるものにして、俗に呼でヨシノザクラと云へども大和の吉野山の桜は山桜なれば之と同一ならざるは言を侯たず。染井吉野は伊豆の大島の原産なるべしとの説あれど而も予の検せる同地の桜は皆山桜にして、染井吉野の原種と認むべきものあるを見ず。嚢に此桜が朝鮮附近の済州島に自生せるを報ぜるが、而かも培養せる染井吉野の起原に関しては未詳ならず(未だ詳ならずの意で「未詳ではない」の意ではない!)」と記述しているように、小泉説に狼狽している様子がありありとうかがえる。小泉説がかなり無理をした説であったことは、実際に植栽されているソメイヨシノがほとんど不稔といってよいほど結実性が低く、それだけでも雑種起源であることが容易に推測され得ることから容易にわかる。また、小泉博士が発表した論文を読めば即座にわかることであるが、済州島産ソメイヨシノの個体数、生態、結実、親木の周辺の幼木の存在状況などの記載はなく、決して完成度の高い論文ではなかった。国立遺伝学研究所の竹中要博士は、済州島起源説に疑問をもった研究者の一人であった(竹中博士も鼻からソメイヨシノ済州島起源説を否定するために研究をしたわけではなく、当初はその裏付けを得るという視点から出発した)が、小泉博士と面談して”済州島におけるソメイヨシノの生態”について問いただし、それを確かめるために現地調査も行い、報告書にまとめている(竹中博士は「史蹟名勝天然記念物 11: 1, 1934」に報告したと自著の論文に記している)。これによれば、”済州島のソメイヨシノ”は自然林の中にあったのではなく、牧場として開発された地域の端にあったという。また、小泉博士が推定した済州島から日本への渡来についても竹中博士は考察しているが、いずれにしても小泉博士の済州島起源説に納得できず、ウイルソンの雑種起源説を確信するに至ったらしい。戦後、日本の統治から独立したばかりの韓国済州島への渡航が困難となったことから、竹中博士はオオシマザクラとエドヒガンの直接交配実験を試み、1962年、ついにソメイヨシノに似た個体ができることを確かめ、また両種が自生する伊豆半島でソメイヨシノに似た自然雑種と思われるものを発見したことは前述した通りである。
ソメイヨシノ済州島起源説の背景について
 小泉博士が学術的に不十分なまま済州島起源説を発表したのはそれなりの理由があったと思われる。この説を発表した当時、植物分類学の中心は東京帝国大学にあって、彼はその分野では存在感の薄い京都帝国大学に所属し、しかもまだ助教授にすぎなかった。したがって、名声を得るにはインパクトの大きな業績が必要であり、フォーリーの標本の中にソメイヨシノに似たものを見つけたとき、ソメイヨシノ済州島起源説はアカデミックの世界に訴えるには千載一遇のチャンスと思ったことだろう。当時、金沢庄三郎が日鮮同祖論(1929年)を著して間もない頃であり、朝鮮に起源をもつという内容の研究テーマは当時にあってはもっともタイムリーであって小泉博士には追い風であったはずだ。小泉博士は教授に昇進してから済州島起源説に言及することはほとんどなく、自説に疑問を呈した竹中博士の研究にも積極的に協力したことはそれが誤りであることにうすうす気付いていたともいえる。このことは済州島起源説を発表してからまもなく、小泉博士が京都帝国大学植物園の園丁に命じてソメイヨシノの果実を集めさせ、播種して実生株を育てていたことを京都大学植物分類学教室の村田源博士が学術雑誌にショートノートとして書き記している植物分類地理、15(4):116, 1954ことから示唆される。京都大学植物分類学教室で小泉博士の後継となった北村四郎博士の著になる『原色日本植物図鑑・木本編』(保育社)ではソメイヨシノを雑種起源としているのを始めとして、小泉博士の直弟子ですら済州島起源説をまともに支持するのは見当たらないのは、小泉博士が教え子にすら自説を強いていなかったことを示すものだろう。筆者の知るところでは、荻沼一郎氏が竹中博士の雑種起源説を妥当とする一方で、小泉博士の済州島起源説を打ち消せない事実であると述べている(「ソメイヨシノの起源」、in ”田村道夫編「植物研究ノート」”)ほかは、小泉説を擁護する研究者はいない。斎藤正二氏は自著『日本人とサクラ』でソメイヨシノの起源論争も紹介しているが、小泉説をあたかも捏造といわんばかりの非難をしているが、やはり小泉博士は科学者であって済州島起源説は捏造というほどのものではないことを指摘しておきたい。その証拠に分類学者の間から小泉博士に対するあからさまな非難があがることもなかった。なぜならサクラ類の形態による分類は、1950年に東京大学の原寛博士によってようやくヤマザクラ・カスミザクラ・オオヤマザクラが独立種として形質の違いが明確になったにすぎないほど、困難な研究であったからだ(このことは竹中博士の論文にも指摘されている)。また、サクラ類は野生種でも種間雑種を生じやすいという厄介な特性があり、これまでに記載された相当数の雑種が独立種として記載されてきた事実もある。つまり、それまでは単に植物標本に対して学名を付け特徴を記載するに留まっていたのであり、今日では分類といえば系統分類が当たり前となっているが、当時は種を的確に識別して種間の系統を解明するにはほど遠い状態であったのである。竹中博士すら、自著の論文中で済州島産のサクラをソメイヨシノと呼んでおり、ソメイヨシノと済州サクラが形態学的に区別しにくいことを図版を挙げて書き記している染井吉野というサクラを参照)。こういう状況にあったから、ソメイヨシノも済州島産サクラのいずれも学名上はPrunus yedoensisとせざるを得なかったのである(小泉博士の済州島起源説を打ち消せない事実と述べた荻沼氏はこのことを理解していなかったようだ)。朝鮮日報は”多くの日本人学者によっても自生地認証を受けた”というが、日本に植栽するソメイヨシノそのものが済州島に生育することを認めている学者は皆無のはずで、明らかに曲解である。もう一度繰り返すが、日本のソメイヨシノは、オオシマザクラとエドヒガン(正確にはその一品種であるコマツオトメ)の雑種起源であり、済州島にはエドヒガンはあってもオオシマザクラ(伊豆諸島など日本でもきわめて限られた地域にしか分布しない!)はないのだから、いくら形態でよく似ているといっても済州島産サクラとソメイヨシノが同じであるはずはないのだ。たとえ学名上は同種であっても系統は全く異なるのであるから、ソメイヨシノの原産地はそれが発生した日本であって済州島ではない。上述の米韓共同研究グループは済州サクラとソメイヨシノが明確に区別できることを遺伝子解析によって明らかにしたのもそれを支持する。済州島産のサクラをソメイヨシノというのは、わかりやすい例を挙げて説明するならば、旧ソ連共産党のブレジネフ書記長に顔が似ているといわれた往年の名大関朝潮(現高砂親方)をロシア人というに等しいことなのだ。韓国でこんな誤解あるいは曲解が横行するのは分類学の専門家に責任がある。大韓植物図鑑(李昌福、郷文社、1985年)では、Prunus yedoensisをソメイヨシノとし雑種起源であると明記する一方、済州島産サクラは、for. nudiflora Rehderとケーネの変種を格下げしているものの、一応区別している。ところがそれより新しい植物図鑑である原色韓国植物図鑑(李永魯、教学社、1996年)ではPrunus yedoensisをワングボッナム(済州桜)として、済州島漢拏山に生育するものとし、「漢:染井吉野櫻 英:Japanese cherry Pontomac cherry 日:Somei-yoshino-zakura」と記載している。これでは、朝鮮日報が日本のソメイヨシノやポトマック川のサクラを済州島原産と考えるのも無理はないだろう。済州島産サクラとソメイヨシノが学名上で種が同じとしても、系統的に違うということが全く伝わらないからである。因みに、Prunus yedoensis Matsumuraは東京に植栽されていたソメイヨシノをタイプとして付けられた学名であって、済州島産サクラに対して付けられたものではない。そしてその基準標本(ホロタイプ)は東京大学に保管されているのだ。済州島産ワングボッナムをPrunus yedoensisとするのであれば、アイソタイプたる標本があるはずだが、韓国人以外の植物学者が鑑定したことがあるだろうか。いずれにせよ日本にしか発生し得ない雑種が済州島に自然生するという明白な論理矛盾があるので、世界からはこの見解は支持されないはずだ。韓国の分類学者がこれを放置することは学者としての自らの名声を著しく傷つけるものであり、世界から相手にされないのは目に見えている。
 ソメイヨシノそのものが済州島にあるという小泉説は否定されたが、それに似たエイシュウサクラの存在を支持する分類学者は日本にもいる。しかし、実物を見たことのある学者は少ないから、最近の図鑑や植物誌ではほとんど紹介されることはない。但し、エイシュウサクラそのものも、その実生苗が植栽されている国立遺伝学研究所によれば、いくつかの変異にわかれるというから雑種起源であるらしい。竹中博士はエドヒガンとエイシュウヤマザクラの雑種と推定しているが遺伝, 16(1): 26-31, 1962、まだ種として分類学者の見解の一致を見ていない。にもかかわらず、原色韓国植物図鑑では何の躊躇もなくソメイヨシノとしてしまった上、日本のソメイヨシノが染井で人工的に創られたという実証された事実を無視しているのは恣意的といわざるを得ないだろう。原色韓国植物図鑑の立場に立って植物学的に正しく記述すると、「ソメイヨシノPrunus yedoensis Matsumura、synonym P. yedoensis for. nudiflora(ワングボッナム:済州桜)」となる。朝鮮日報はともかく韓国山林庁研究員があの記事にあるようなコメントをするとは、以上のことすなわち生物多様性のさわりを全く理解できていないことになるが、その責任の一端は韓国の分類学者にあるといってよいだろう。また、朝鮮日報の記事に「済州道内天然林100あまりの所でソメイヨシノが自生することが確認された」とあるが、果たしてそれが本当に小泉博士や竹中博士が見たサクラ(すなわちエイシュウザクラ)と同じであるかどうか、甚だあやしい。形態分類の難しいサクラ属種を的確に見分ける分類学者はサクラの国たるわが国ですらそう多くはなく、学者の層の薄い韓国ではもっと少ないと思われるからである。
科学的に否定されても誤った説に固執するのは?
 以上、ソメイヨシノの起源については、韓国では未だに済州島起源と信じられていることを紹介した。韓国にもソメイヨシノが植栽されたところが多くあり、中には本家の日本にもないような立派なサクラの名所もあるという。しかし、韓国人も最初からソメイヨシノを済州島起源と信じていたわけではないらしい。とりわけ反日色の鮮明な盧武鉉政権が誕生してから、日本を連想させるサクラを伐採する動きが顕著になり、これを危惧した日本人を含むグループが「ソメイヨシノ済州島起源説」を復活させ、伐採をやめるよう説得した結果だという。一旦、火がついたら止まらないのが朝鮮民族の性というか、自然科学系の研究者までがこれに便乗したような奇妙な研究結果を報告するのは如何にも韓国らしい(似たことは「植物:和名および学名に関する話題」でも紹介している)。朝鮮日報が日本の国花をソメイヨシノとしているのも笑止千万である。冒頭で述べたように、一般通念としてサクラ亜属のいくつかの種をサクラと通称するのであって、ソメイヨシノだけがサクラではないからだ。日本には約十種のサクラ亜属が自生するが、そのうち日本固有といえるのはわずか三、四種である。分布域が広く古くからサクラと認識されてきたヤマザクラやエドヒガンは朝鮮半島にもあるのだ。但し、日本には野生のサクラ種以外に里桜というオオシマザクラやヤマザクラなどから創出した三百種もの園芸品種群がある。サクラとは本質的にこれらも含めた総称なのである。韓国人がソメイヨシノだけをサクラと考えている限り、サクラをウリナラ起源として乗っ取ることは永遠にできないし、またとんだ見込み違いになるはずだ。なぜなら、欧米ではソメイヨシノよりむしろ里桜の方が高い評価を得ているからだ。ニューヨークのブルックリン植物園にセキヤマ(関山)という里桜の見事な植栽があり、開花期に多くの入場者を魅了している。オランダには本家の日本よりも立派な里桜並木があるそうだ。これらは全てJapanese cherryと呼ばれ、前述したように、その母種であるオオシマザクラは伊豆半島から伊豆諸島の限られた地域にしかない特産種である。これを韓国原産とするのはどうころんでも不可能であるから、世界の物笑いにされる前にソメイヨシノ済州島原産説を撤回し、済州道住民のほか一般人に”正しい知識(真実)を知らせる”べきだろうが、肝心の専門家があのていたらくでは難しいかもしれない。むしろ、日章旗を燃やして「日本はソメイヨシノが済州島起源であることを認めよ」と主張し、それに日本の一部市民(学校の教師に多いのはなぜだろう?)が便乗してうやむやにする可能性の方を勘ぐりたくなる。実際、日本の学校でもソメイヨシノは韓国原産と教えられたとある生徒から聞いたことがある(この教師には是非本ページを精読していただきたいものだ)からだ。済州島のワングボッナムの植栽を進めたところで、その歴史の浅さをどう克服するのだろう。朝鮮から離れた孤島に稀産するワングボッナムと、江戸の繚乱たる園芸文化を背景にして生まれた東京生まれのソメイヨシノとでは、ブランドからして勝負にならないのではないか。ワングボッナムは「王桜の木」という意味だが、漢語読みである(漢字を使わない最近の韓国人は多分知らないのではなかろうか)ことは明らかで、1300年前の万葉集までさかのぼる「サクラ」が純粋な和語であるのと対照的である。いかにもごく最近に適当に付けられたことが見え透いていていかにも俗っぽいと感じるのは日本人だけではあるまい。それに比べるとソメイヨシノは、サクラの名は冠していなくても江戸時代の園芸の中心であった染井と、古くからサクラの名所であった吉野という、両方の地名を冠していてずっと由緒がある。
他に類例があるソメイヨシノウリナラ起源説
 済州島起源説は韓国に植栽されているソメイヨシノを救わんがための方策であったのだが、この手法は韓国唯一の日本和歌詩人であった孫戸妍氏が反日民族主義者からの攻撃をかわすためにも使われているから面白い。「和歌は新羅の郷歌が起源だ」というのがそれで、ここでは万葉集が新羅起源とされている。別ページでも説明してあるように全く根拠のないものであるが、民族主義者の執拗な反日攻撃をかわすには効果覿面(てきめん)だったらしい。もっとも、この手法は韓国人が編み出したものではないらしく、孫氏を支援する日本人グループ(氏の歌集の出版を援助したという)が言いだしたのが最初らしく、それをろくに検証もせずに真に受けたのは情緒が論理より優先すると定評のある韓国人の面目躍如といったところだろうか。古典文化の蓄積が日本や中国の十分の一以下(実際には数百分の一ともいう)しかないという韓国の民族主義者にとっては日本古典文学の至宝である万葉集がウリナラ起源というのだからさぞおいしい話だったに違いない。これに関連して思い当たることがもう一件ある。筆者はある大学で「日本の植物と民俗文化」について講義しているのだが、2006年の11月ころ、端午の節句の菖蒲湯についてその起源は中国にあると中国南朝の梁の宗懍が著した「荊楚歳時記」(授業では「守屋美都雄訳注、帝国書院、昭和25年」本を参考にした)という古典を引用して説明した。ある中国人留学生がやってきて「端午の節句はやはり中国起源だったのですね」と述べたのには、当初は、さっぱりその真意が理解できなかったのであるが、その留学生に事情を聞いてみると、ちょうどそのころ韓国が「端午の節句」を自国固有文化としてUNESCOの世界無形文化遺産に登録したという。現在の中国人は「端午の節句」の由来は知らないらしく、「荊楚歳時記」のことも見たことも聞いたことも全くないらしい。ただ、多くの中国人が韓国の世界遺産登録に対して怒り心頭に発していることをネット上で知ったというのである。最初は韓国のいうことの方が正しいとも思っていた(なにしろ遺産登録するのは国家である!から無理はない)ようであるが、筆者の授業を受けてやっと自信が持てるようになった(筆者は韓国が世界遺産に登録したということを全く知らなかった。新聞でも報道されなかったように思う)という。このことから韓国人(一部だけではないらしい)の「ウリナラ起源」というのは冗談と受け止めてはならないことがわかるだろう。ソメイヨシノ論争は学術的には完全に決着がついているのだが、それでも韓国では大新聞が率先して誤ったキャンペーンを繰り返すのだから、そうではないもの、例えば古代史の日朝関係も韓国のいうことは鵜呑みにしていたらどうなるのだろうかとぞっとする。全ての文化の流れを朝鮮半島→日本列島と考え、日本の歴史家の主流はそう考えているが、ソメイヨシノや端午の節句のことを考えると、再検討の余地があると考えざるを得ないのではなかろうか。稲作の伝播も朝鮮経由、それも半島で確立された技術が渡ってきたと教科書には書いてあるのだが、自然科学の立場から考えるとむしろ逆ではないかという意見がつよくなりつつあるらしい。以上のことはソメイヨシノとは直接の関係はないが、その過程に奇妙な共通項を見いだしたので述べただけであることを申し上げておく。