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青森・漁船遭難:乗組員の大半は「アルバイト漁師」

 山々に囲まれた青森県・陸奥湾。大小約200の川からミネラルを豊富に含む水が流れ込み、「貝の王様」ホタテの好漁場をはぐくんできた。その漁解禁初日の5日、死者6人、行方不明2人を出すホタテ漁船「日光丸」(5.1トン)の遭難事故は起きた。乗組員の大半は「アルバイト漁師」だった。

 「あすは、おらも行ってみる」。船長の川村春光さん(74)=死亡=は前日、所属する青森市漁協久栗坂(くぐりざか)支所の組合員ら約15人と食事をした。昨春体調を崩して入院後、出漁の機会はめっきり減っただけに上機嫌だった。

 数年前から川村さんのホタテ養殖を手伝ってきた松本幹二郎さん(28)=死亡=は隣の平内(ひらない)町の実家に泊まっていた。約50キロ離れたおいらせ町の自宅に幼い長男と一緒にいる妻(29)には「朝1時から漁に行くのでもう寝ます」と携帯メールを送った。妻は「ちゃんと食べて仕事してください」と返信した。

 松本さんは中学卒業後、県立の水産訓練校で漁業を学び、ロシア沖のスケトウダラ漁など遠洋漁業に従事。「中卒で年収600万円」が誇りだった。ただ、歩合制で不安定だったこともあり、近海操業やトラック運転手などに仕事を変えた。一時期、貨物船にも乗っていたが、中学の同級生で漁師の熊谷司さん(28)には「合わねえ。やっぱり自分で魚とる仕事でねば」と、漁業への愛着を話していた。

 そんな松本さんのことを、後継者のいない川村さんは「いい若いもんだから後継ぎに」と周囲に話し、大きな期待をかけていた。

 2人の思いを乗せた日光丸は午前3時半すぎ沈んだ。うねりが出て港に引き返す途中、後方から「追い波」を受けた可能性が指摘されている。

 ■養殖技術の確立で一変

 青森県のホタテ漁の歴史は、貝塚の調査から縄文時代にさかのぼるという。江戸幕府にも献上され、1876年、明治天皇が訪問した時には、食膳(しょくぜん)に出されたとの記録も残る。だが、陸奥湾に暮らす人たちの収入の道は1960年代まで、都会への出稼ぎが中心だった。

 それが、養殖技術の確立で一変した。現在、年間100億~120億円の漁獲高は北海道に次ぎ2位。県漁連によると、約1200世帯が漁に従事し、平均年収は700万~800万円になる。それでも、後継者は足りない。1年前に廃業した元漁師(74)の長男(43)は言う。「金になるが、朝早いし力仕事が厳しい。サラリーマンのほうが利口だ」。久栗坂支所も、80年に89人いた組合員は07年には51人に減った。

 人手不足を補うのがアルバイトだ。「生活費の足しに」と、会社勤めの人が船に乗ることも珍しくない。日光丸は、乗組員8人のうち6人。「後継者」の松本さんを除くと、不況が続く建築・土木作業関係が本業だったという。

 畑井志拓(ゆきひろ)さん(34)=死亡=もその一人。4~6月を漁期とする生後1年を過ぎた「半成貝(はんせいがい)」を主に出荷している久栗坂の場合、アルバイトの稼ぎは未明から4~5時間で8000円前後と実入りはいい。元漁師の経験を生かし、数年前から乗り組んでいた。普段は別の船に乗っていたが、当日は出漁予定がなく、川村さんから声が掛かったという。

 妻と子供3人の5人暮らしで、末っ子の次女は2日後に小学校の入学式を控えていた。「まさか……。信じられない」。搬送先の病院で、おじ(60)は唇をかんだ。

 ■秋から冬にかけて職を失い

 北国に特徴的な事情もある。建設作業員らは、雪で仕事がなくなる秋から冬にかけて職を失い、春以降に再雇用されるケースが多い。国は75年、解雇された人に失業保険として給与の5~8割を50日分給付する特例一時金制度を創設した。青森県の利用者は約3万4000人(06年度)。最多の北海道と合わせると全国の約7割を占める。だが、職の多様化、国の財政事情や小泉改革のあおりで去年から40日分になり、将来は30日分に減る予定だ。

 松本さんが日光丸でアルバイトを始めたころ、珍しくスナックでカラオケを歌う姿を熊谷さんが記憶している。曲は、吉幾三の「女のかぞえ唄」。

 <夜明け間近の港の船は/今日も海の彼方へ旅に出る……/泣いてちゃ何にも見えないネ/あなたを待ってる港町>

 熊谷さんの目に涙がにじむ。「また北洋に行って、まだ帰ってきていないんだな。そう思いたい」

【後藤豪、立上修、宍戸護】

毎日新聞 2008年4月20日 2時30分(最終更新 4月20日 2時30分)

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