来年五月からの裁判員制度は幕末・明治維新の大政奉還に似て時代を刷新させる可能性を秘めています。日本再興への千載一遇のチャンスとも。
国民的人気を博したNHKテレビの大河ドラマや民放の長寿番組を分析して日本人の「平伏陶酔」の願望を指摘したエッセイストとしても知られた放送タレントがいました。
平伏陶酔とは、権威者への無条件心服から発する陶酔感やその上下関係にわが身を浸すことによる満足感で、ドラマが圧倒的に支持されるために絶対に必要な条件だというのです。
内なる平伏陶酔願望
なるほど、「赤穂浪士」での浅野内匠頭と大石内蔵助、「太閤記」や「国盗り物語」での信長と秀吉、「源義経」での義経と弁慶には、その条件を満たす主従・上下の関係があり、印籠(いんろう)を掲げる水戸黄門とひれ伏す悪人たちの極め付きシーンはさわやかな快感を呼び起こさせます。
民主社会とはうらはらといえる平伏陶酔の願望ですが、それなりの歴史的積み重ねによってこの日本人的心情が形成されてきたのでしょう。
日本人の精神の原型がつくられたともされる中世、新仏教の祖師の法然や日蓮が説いたのが「専修念仏」や「専修唱題」。祈ることによって救済を求め、日本の神や聖人は、衆生済度のためこの世に現れた仏・菩薩(ぼさつ)の姿とする思想も広がりました。
伝説の聖徳太子に始まり、最澄、法然、日蓮、道元らは実際にも高い徳を身につけ、戒律を守った聖者だったといわれます。民衆の心に平伏陶酔の願望が灯(とも)るのは極めて自然です。
江戸時代の武士道も厳しく身を律することを求めたのは、支配階級側の武士に対してでした。富や損得より名誉、行動の美しさや潔さ、自己犠牲や惻隠(そくいん)の情。
間違いだったお上任せ
版籍奉還や四民平等など統治権力側の少なからずの権益放棄と譲歩によってなった明治維新は、民衆の蜂起と反乱の欧米とは異なる日本的革命ともなりました。
国破れて山河が残った戦後、平伏陶酔の対象になったのは東京・霞が関の中央省庁のお役人たちでした。高度成長の経済システムを構築、世界の大国に押し上げた功労と祖国再建への燃えるような情熱によるものでした。
しかし、その官僚たちへの信頼が崩れようとしています。国益より省益、国民より己の利益と属する組織への忠誠を優先させるようになったお役人に敬意の抱きようがありません。身を律することを忘れてしまったのです。
大きく変化する世界に対応できないことへの失望もあります。成長著しい中国、ロシア、インドが加わってグローバル経済は、食糧、資源獲得競争の様相さえ見せ始めてきました。少子高齢化社会で暮らしの保障はあるのか。
道路特定財源や暫定税率、高齢者医療での紛糾と混乱は、もはや惰性の行政では立ち行かず、税体系や社会保障制度のあり方まで含めた根源的議論と制度再構築の必要性を示しています。国民の参加と合意形成が不可欠です。そんななかで裁判員制度がスタートを切るのは象徴的です。
裁判員制度での気がかりは、最高裁の国民意識調査で、今なお八割の国民が参加に消極的で、義務でも参加したくない人が四割にものぼることです。本紙論説室にも少なからずの反対の声が届きます。
「国民が望んだ制度ではない」「人を裁くのは専門家の仕事。素人には不安で重荷だ」「自分の判断に自信がもてない」。いずれももっともな反対理由で、文の背後の真摯(しんし)さが伝わります。
矛盾するようですが、まさにその真剣さと考える姿勢こそが裁判員制度に参加を要請される理由のように思えるのです。専門家同士の刑事裁判で時に生まれる恐るべき非常識や視野狭窄(きょうさく)を救うのがそんな一般市民の良識・常識だからです。心ある法曹関係者たちの希望もそこにあります。
ことは司法分野に限りません。政治も財政も福祉も労働も教育も専門家任せにしたための行き詰まりと制度疲労の兆候を示しています。国民の積極参加と意見表明、合意形成がなければ日本の再興は覚束(おぼつか)ないでしょう。
日本再興の始まりに
専門家と市民が共に審理に加わる裁判員制度は、日本独自のシステムで、究極の国権を国民へ奉還する意味が含まれています。渋々の参加で統治のために利用されたのではたまりません。仕事や家事を犠牲にしての参加です。専門家任せにせず、平伏陶酔にもしばらくはおさらば。積極的な権利行使で民主主義の推進と日本再興の原動力としたいものです。
この記事を印刷する