2008-04-17
■[社会][メモ][雑談]「対幻想」と「自由」
人間若いころに色恋でどんぱちやる人がいつの時代もあり、そしてそれで一生ばちばちやっているやくざもんとかとかとかあるけど、意外とそれはそれですんなり収まって市井にぽちゃんと生きている人たちがいたものだった。ええおっさんおばさんだけどどことなく色香というか深みがあって、ちょっと話を聞くと、えー命懸けで駆け落ちとかしたんだみたいな。そういう人が市井にぽちゃんといることで、なにか市井のそれなりのある根幹的な自由みたいなものが維持されていたような気がする。
日経社説 若者らの職探しの選択肢を狭めるな - finalventの日記(強調は引用者)
ここ最近、週末などの空いている時間に、「極東ブログ」の過去に書かれた記事など、終風翁の論説を読み返していたのであるが、その中で印象的だったのは、翁の独特な、「対幻想」への拘泥であった。
印象的というのはほかでもない、翁のいう「対幻想」が、オリジナル・ヴァージョン(吉本隆明)のそれに比して、より洗練された機能を期待されているように思われることである。端的にいえば、「社会」の側に広く撒布されることによって、張り巡らされた互酬のネットワークを切断する*1「核」、そのような役割が「対幻想」単位に期待されているのである。「国家三要素説」の提唱者として知られるG.イェリネックが、国家の論理に対抗する人権思想の由来を、アメリカに渡ったピューリタン諸派の非合理的な「宗教的確信」に求めたことは知られているが*2、翁の「対幻想」は、これと似た役割を期待されているものであろう。逆に言えば、こうした質を持った「対幻想」が消滅ないしは衰弱する場合には、それ自体惜しむべきことというのみならず、「市民社会」や「自由」への途が閉塞したことをも、同時に意味することとなる。
オリジナル・ヴァージョンの「対幻想」は、―『共同幻想論』を一読すればわかるように―、これほど鮮明な特定のされかたをしておらず*3、もっと曖昧で多様なイメージが混入している。それゆえ、「対幻想」による「国家」への対抗が目指されながら、逆に、「対幻想」が「市民社会」や「自由」の首を、真綿で絞めていくような印象すら与える*4。その点で、翁の洗練されたヴァージョンの方が、比較的説得力をもつものであるといえよう。
もっとも、私は、社会における「対幻想」衰弱の傾向を、まずはなによりも歓迎する、という立場に立つ。その場合、別の形で、「核」を構想していかねばならぬこととなるけれども、さてさて、これは困難なことである*5。
*1:その最も鮮明な現われが、「欠け落ち」であることはいうまでもない。地理的な「移転」を伴わないものの、実質的に「欠け落ち」の世界をよく描写した文藝作品として、『こころ』、『それから』、『門』、『彼岸過迄』等の、漱石の一連の作品を参照せよ。
*2:参照:
石川健治「自分のことは自分で決める―国家・社会・個人―」『ホーンブック憲法〔改訂版〕』〔北樹出版 2000〕p141
ホーンブック 憲法 (ホーンブック)
*3:もっとも、終風翁も、「俺のだって、お前さんの言うような小理屈じゃないんだよ、ばーか」と言われるだろうが。
*4:これと同旨の指摘は、『共同幻想論』をめぐる、―いささか不毛な―種々の論争の中で、逆の観点からであるけれども、実質的にはなされているように思う。ただし、私は、自信をもってそのように断言することはできないので、誤りであれば、ご叱正を頂戴したい。
*5:その際に、同時に考えねばならないのは、以前の記事で同じく終風翁に拠りつつ触れた、「友愛」と、「対幻想」の関係である。これはまたこれで、非常に微妙かつ頭の痛い問題である。
参照:
societasと友愛 - if you cannot be friendly.
- 5 http://d.hatena.ne.jp/Barl-Karth/
- 4 http://d.hatena.ne.jp/realiste/edit?date=20080419
- 3 http://d.hatena.ne.jp/keyword/石川健治
- 2 http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20080416/1208303535
- 2 http://d.hatena.ne.jp/keyword/過去
- 2 http://reader.livedoor.com/reader/
- 1 http://a.hatena.ne.jp/svnseeds/
- 1 http://a.hatena.ne.jp/svnseeds/simple
- 1 http://d.hatena.ne.jp/
- 1 http://d.hatena.ne.jp/NaO/20080319/p1