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西太后と溥儀の部屋(1) ラストエンペラー溥儀解題Part1

 先日、清朝末代皇帝愛新覚羅溥儀の自伝『わが半生』(上・下巻。筑摩書房)を買いました。映画「ラストエンペラー」を観て以来、清朝末期関係の本もいくつか読みましたが、やはり溥儀本人が書いたこの本は、(いろいろ問題点はあっても)一級の資料だと感じました。
 今まで嵯峨浩(溥儀の弟溥傑の妻)の『流転の王妃の昭和史』(新潮文庫)やジョンストン『紫禁城の黄昏』(岩波文庫)などを読んでも印象はどこか散漫だったのですが、この本を軸に溥儀とその時代を振り返れば、焦点が合ってきそうな気がします。

上巻 第一章 私の家系

 
以下、 項目別に『わが半生』の記述を記載します。そして、他書に異説等関連する記述がある場合は、<参考>以下に紹介します。


1 西太后のクーデター(重臣たちから政権奪取)のいきさつ

(1) 事前準備

 東太后に、顧命王大臣(咸豊帝1861年の臨終の際に、息子載惇の将来を託した8人の大臣。そのうち実権を握っていたのは、協辦大学士粛順と、怡(イー)親王載垣(ツァイユアン)、鄭(チョン)親王端華(トワンホワ)の3人)が腹黒い男たちだと信じ込ませる。
 東太后の同意を取り付けた上で、恭親王奕訢(イーシン)に密書をおくって熱河の離宮に呼び寄せ、対策を協議する。

<参考>
 『西太后』(著:濱久雄。教育社歴史新書)によると、粛順は咸豊帝に、鉤弋の故事(幼帝の母が権力をほしいままにして国を乱すことのないように、漢の武帝が夫人である鉤弋に死を賜った。ギネス「道具扱いされた女性」参照)を断行するよう進言した。
 ある日、酒に酔った勢いで帝が西太后(当時は懿貴妃)にこの件をもらしてしまい、以来西太后は粛順を深く怨んだという。
 また、奕訢は道光帝の第六子で、咸豊帝と異腹の兄弟。北京に留まり英仏との和議に尽力していた彼は、幼帝を摂政するのは当然自分であると考えていたが、粛順らが伝えた咸豊帝の遺詔では奕訢は排除されていた。
 ここに「反粛順」という点で西太后と奕訢の利害が一致したのである。

(2) 恭親王への連絡

 ある料理番が伝えたという説
 腹心の太監(宦官)安徳海(アントーハイ)をひそかに北京に行かせたという説

<参考>
 「西太后が京師(北京)にいる奕訢に密書を伝え、かれを熱河に招きよせたのも、安得海(ママ)の決死的な潜行が功を奏したからである」(前掲『西太后』P66)

 『最後の宦官 小徳張』(著:張仲忱。朝日選書。同書は著者が祖父小徳張の話をまとめたもの)では、キセルの雁首に密書を仕込んた安徳海を、表向きは不始末のため追放処分に処すという名目で北京に送り、英仏側と談判中の奕訢と連絡をとったとある。

(3) 恭親王との会見

 恭親王は「シャーマン」に変装して会ったという説
 粛順は「義弟と兄嫁の交際は礼に反する」として会見を阻もうとしたが、恭親王が粛順に「お前が同席してもよいから会わせろ」と直談判したという説
 恭親王が咸豊帝の位牌にお参りした際、西太后が安徳海に届けさせたうどんの丼の底に令旨を忍ばせていたという説

(4) 結果

 奕訢が議政王に封ぜられ、顧命王大臣は逮捕。両親王は自尽を賜り、粛順は斬首。
 皇太子載惇は同治帝として即位(『わが半生』下巻年表では1862年)し、これより西太后の垂簾聴政が始まる。 

<参考>
 同治帝即位及び西太后の実権奪取は、いずれも1861年とされている(『東アジアの開国』編:波多野善大。中公文庫や前掲『西太后』など)。『わが半生』の年表の誤りと思われる。

 西太后は、咸豊帝危篤の枕もとに息子を連れて行き「これに後を継がせる」という最後の言葉を引き出したと妹に語っている(『ラスト・エンペラー』著:エドワード・ベア。ハヤカワ文庫)。
 また同書では、現在では、西太后が宦官に賄賂を使い皇帝の印を盗み出させて息子の即位を宣言したと考えられているが、これは彼女に対する増悪がつくった伝説としている。
 この辺の俗説をそのまま書いているのが『西太后秘話』(著:徳齢。東方書店)。 西太后は、帝の署名のある遺詔を粛順に突きつけたが、皇帝の御璽がないので無効だと言われた。
 西太后は栄祿に相談し、李蓮英に、秘密の通路を通って帝の遺体を安置している御殿に忍び込み玉璽を取ってくるよう命じた。その頃、粛順と怡親王も御璽を盗み出しに行ったが、ほんの一足先に李蓮英が手に入れた、と。

 なお、前掲『西太后』では、帝は粛順らを召して8名の大臣に後事を託した際に、朱筆でその旨を遺詔として書かれるよう臣から請われたが、すでに衰弱のあまり筆がとれず、粛順らが代筆せざるを得なかったとしている。偽造の可能性を示唆しているともいえる。


2 同治帝の死因

  野史や演義では、同治帝は花柳病で死んだとされているが、私は天然痘で死んだと聞いているし、翁同龢(ウオントンホー)の日記にもそう記されている。
 本来、天然痘は死ぬほどの病気ではないが、病気中に強い刺激をうけ、「痘内陥」という病変をおこして、死んだ。
 ある日慈禧太后(西太后)が、同治帝と皇后の会話を盗み聞きして腹を立て、部屋に飛び込むや皇后の髪の毛をひっつかみ、殴りつけ、宮中の者に命じて棍棒の用意をさせたところ、帝は恐怖のあまり昏倒した。このショックで死んだのである。

<参考>
 同治帝は西太后の実子であったが、東太后(咸豊帝の皇后慈安)を慕い、皇后にも西太后が推薦した侍郎鳳秀の娘(後の慧妃)でなく、東太后の推薦した侍郎崇綺の娘を選んだ。
 このため西太后と険悪な仲になった帝は気を使って、皇后のもとにも慧妃のもとにも足を運ばなかった。帝を見かねた王慶祺らが色街に誘い出し、帝は梅毒にかかった
 ただし、忌まわしい病名を避け、翁同龢の日記にも官書にも、「痘」(天然痘)と書かれている。(前掲『西太后』P76)

 ツ毓鼎(うんいくてい)の『崇陵伝信録』には、同治帝が皇后に「しばらく耐え忍べ。やがて頭を出せる日が来る」と言ったのを盗み聞いた西太后が、皇后の髪の毛をひっぱって連れて行きながら、ひどく鞭打った。そして、内廷に大きい杖(打ちすえる刑具)を用意するよう命じたところ、帝は恐れのあまり失神し、天然痘が悪化したとある。(前掲『西太后』P77)

 前掲『西太后秘話』では、西太后は同治帝を深く愛しており、帝を殺したなどというのはすべて悪意から出たうそっぱちだと強調している。もっともこの本は、西太后賛美一辺倒の「ト」本に近い小説である。

 前掲『最後の宦官〜』の注(岩井茂樹)では、梅毒で落命したという説が流布しているが、帝の病状や薬の処方を記載した文書の研究結果では、やはり天然痘が死因とされているとのことである。 


3 同治帝皇后の死因

 西太后は、同治帝の死の責任を皇后にかぶせ、飲食を制限するよう命じた。
 同治帝の死の2ヵ月後、皇后もいじめ殺された

<参考>
 前掲『崇陵伝信録』には、西太后は、皇后が閨房の不謹慎によって、帝の病気を急変させたと偽った、とある。
 また、同著に皇后は、光緒帝即位の翌年2月20日、金をのみこみ、同治帝に殉死したとある。(前掲『西太后』P77)

 同治帝の後継者を決める会議に皇后は、帝の子を懐妊していたにも関わらず、出席すら許されなかった。また、その結果は西太后の主張が通り、皇后にとってはきわめて心外であったので、この決定に抗議するかのごとく、出産を待たず、自ら生命を断った。(前掲『西太后』P91)

 前掲『西太后秘話』では、西太后が同治帝の皇后を呼び出し、殉死を強いたとある。西太后賛美の同著ですら、「皇后にたいするおしうちは弁護の余地もないほどひどいものでした」としている。
 映画『続・西太后』では、妊娠中の皇后を殴るは、腹を踏みつけるは、後ろ手に縛り上げ、暢音閣(紫禁城内にある三層に分かれた京劇舞台)で天井高く吊り上げて落下させるはと、むちゃくちゃな描きようである。


4 光緒帝即位のいきさつ

 清朝では、同じ世代に属する兄弟等は、共通の字を名前に持つ。(第6代道光帝の四子が咸豊帝詝で六子が恭親王訢。咸豊帝の子が同治帝淳。儀や傑はその次の世代にあたる)
 祖宗の制度によれば、同治帝載淳が死ねば、次は溥のつく世代から皇帝を選ぶことになっている。しかし、そうすると西太后は太皇太后(皇帝の祖母)となり、母親が幼帝を補佐する垂簾聴政から外れ隠居しなくてはならない。
 そのため、西太后は載淳の甥にあたる載湉(道光帝の七子醇親王奕譞の二子)を後継者とした。

 当時呉可読(ウーコートウ)という御史が死をもって諌めようとしたが、西太后の考えを変えることはできなかった。

<参考>
 「息子が死んだその日、彼女は後継者を決める緊急会議を開き、宮廷に彼女の人選を是認させた〜自分の都合しだいで伝統を無視した彼女の行為は、少なくとも一人の優秀な大臣の自殺を招く原因にもなった。」(前掲『ラスト〜』)


5 東太后の死因

 
咸豊帝は、慈安太后(東太后)に、西太后を制裁できる権力を授ける勅諭を残した。
 ある日、東太后はうっかり、この遺詔のことを西太后に話してしまった。西太后はそれ以来、東太后の機嫌を取り続け、東太后はついに西太后の面前で遺詔を燃やしてしまった。
 間もなく東太后は急死したが、西太后が贈った菓子を食べたためとも、西太后自らつくったスープを飲んだためともいわれた。

<参考>
 1881年(光緒7年)3月11日、東太后は、西太后の使いの太監が持参した餅を食べた直後、45歳で急死した。東太后が、西太后の面前で咸豊帝の遺詔を焼き捨てた数日後であった。(前掲『西太后』P94)

 「情ようしゃのない慈禧さまが〜辛辣なことばを吐かれ、そのため慈安さまは病気になって寝ついてしまわれた」(前掲『西太后秘話』P164)

 『続・西太后』という映画では、病に臥せった東太后のため、西太后が自分のもも肉を原料とした薬湯をお出しする。これに感激した東太后が、もうこんなものは必要ないわねと遺詔を焼き捨てる。しめしめとばかり、こっそりほくそ笑む西太后・・・なんてシーンがあった。


6 袁世凱の裏切り

 光緒帝は、康有為(カンヨウウェイ)、譚嗣同(タンスートン)ら維新派(帝党)と戊戌変法を推進しようとしたが、実権は栄祿(ロンルー)ら后党が握っていた。
 
譚嗣同は、袁世凱を仲間に引き込むため、閲兵式の際に栄祿を殺し、西太后を軟禁するクーデター計画を打ち明けた。
 袁世凱は、その場では賛同するふりをしたが、すぐに栄祿に通報し、逆に光緒帝が幽閉され、康有為は日本へ亡命、譚嗣同ら六人の維新派(いわゆる六君子)はいずれも処刑される結果となった。

<参考>
 前掲『西太后』によると、1898年9月20日早朝、袁世凱は光緒帝に召され、栄祿を殺し、頤和園を包囲して西太后を幽閉する機密の大事を託された。彼は帝の召見の後一番列車で天津の栄祿のもとへ行き、維新派の陰謀を密告した。
 六君子は、9月28日、北京の菜市口で処刑された。

 前掲『最後の宦官〜』では、帝は9月16日に袁世凱を招見して兵部侍郎(陸軍次官)に抜擢。18日に譚嗣同が袁世凱を訪ね、クーデター計画を打ち明けたとある。


7 義和団の乱への対処

 義和団に対し「剿(そう)」(討伐)、「撫」(懐柔)のいずれをとるかは、西太后の懸案だった。
 西太后は、いったん団民「宣撫」の詔を下し、さらに「剿」を主張していた徐用儀(シュイヨンイー)、立山(リーシャン)、聯元(リエンユアン)らの首をはねた。
 が、その後連合軍が北京に攻め寄せてくると、「撫」を主張していた剛毅(カンイー)、徐桐(シュイトン)らを斬首の刑に処すよう命令を下した。

<参考>
 前掲『ラスト・エンペラー』では、「義和団が最後の先頭に破れたことが明らかになると〜”洋鬼”の報復を恐れて〜紫禁城を逃げ出す前に、老仏爺は気違いじみた怒りに駆られ〜親義和団政策を批判する勇気のあった者を絞首刑にした。〜慈禧の亡命生活は〜二年に及んだ。〜数人のスケープゴートの処刑とを引き換えに〜西太后は北京へ堂々の帰還を果たした」とある。討伐派処刑の時期が少し違うようだ。 


8 珍妃の殺害

 西太后は、自分にとってわずかでも安心できないことがあると、果断な措置をとる。1900年、北京からのがれる際に、人をやって珍(チェン)妃を井戸に突き落とさせた。

<参考>
 宦官崔某に命じ、帝の寵愛を受けた珍妃をよびだし、瀛台(えいだい)の井戸に突き落として亡きものにした。(前掲『西太后』P173)

 「李蓮英と手下の宦官はいそいで珍妃を両方からかかえ、東華門内にある有名な大井戸のそばにつれてゆき、そのなかにつきおとしました。」(前掲『西太后秘話』P252)

 「崔玉貴はすぐさま珍妃をかかえて数歩で井戸に近づき、頭を下に向けて「どぼん」と突き落としたのだ。〜老祖宗は顔を振り向いて光緒帝をなじられた。「〜もし西洋人がやってきてあれを踏みつけにでもしたら、大清国の国体を大いに汚すことになる」〜」(前掲『最後の宦官〜』)

 「珍妃が、逃亡して満州族の祖先の名誉を汚さないでくれと嘆願すると、慈禧は護衛の宦官に命じて彼女を庭の井戸に投げ込ませた」(前掲『ラスト〜』)


9 溥儀擁立の背景

 戊戌政変後、西太后は同治帝のあとを継ぐ皇太子を立て、光緒帝を廃そうとした。そこで大阿哥(ターアゴ。「清史稿」には、外国人の抗議を避けるため皇太子という名称を避けたとある)に溥儁(プーシー。道光帝の五子惇親王奕「言+宗」の二子端王載漪(ツアイイー)の子)をすえた。
 しかし、端王は庚子事件(義和団の乱)の首謀者として流刑に処せられ、廃立も沙汰やみとなった。
 袁世凱と結んで勢力を伸ばしていったのが、乾隆帝十七子慶親王永璘(ヨンリン)の孫にあたる奕劻(イーコワン)である。

 袁世凱が光緒帝を退位させ、奕劻の息子載振(ツアイチェン)を即位させようとしているとの情報を知り、西太后は急遽私(溥儀)を後継ぎとした。

<参考>
 死が避けられないと知った西太后は、後継者と摂政の候補者を物色した。
 袁世凱は次期皇帝として溥倫親王(咸豊帝の一子奕諱の孫)を、そして摂政には自分自身を推挽した。
 西太后は直前まで自分の決定を明かそうとしなかった。載澧(奕譞の五子であって、光緒帝載湉の弟にあたる)は、西太后の旧友で元愛人でもある栄祿の娘を妻としており、三歳の息子溥儀をもつ凡庸で意志の弱い人間だった。彼女の人選には、後継者には自分のようなカリスマ性を持たせまいとする決意が反映している。(前掲『ラスト〜』)
  


10 光緒帝の死因

(1)  李長安(リーチャンアン)という老太監から、光緒帝は袁世凱から送られた薬をのんだとたん急死したと聞いた。
 内務府の大臣の子である某氏の話では、光緒帝がかかっていた病気はただの風邪で、前日に健康人のように立って話をしていたのを見た者もいた。病気が重いとの知らせを聞いたこと自体不思議だったが、それからわずか4時間足らずで崩御した点は非常に不審である。
(2)  西太后は、自分の病気がもはや不治と知り、光緒帝より先に死ぬのがいやで毒殺したという説もある。
 しかし、西太后は光緒帝の死の2時間後に摂政王(溥儀の父である載澧)に軍務・国政はすべて自分(西太后)の指示を仰げと命令し、その翌日になって、あらためて「私の病は篤いので、今後は摂政王の裁定に従え」と言い残しているので、そんなに自分が早く死ぬとは考えていなかったと思う。 

<参考>
 後継者として溥儀が選ばれた翌日の1908年10月21日午後7時、光緒帝は崩じた。その翌日の午後5時に西太后が報じたので、帝の死は西太后とかかわりがあるのではとも、かつて帝の恨みをかった袁世凱や李蓮英の仕業では?ともいわれた。(前掲『西太后』P193)

 前掲『西太后秘話』では、「西太后が死んだら袁世凱と李蓮英は打ち首にする」との光緒帝の日記を読んだ李蓮英が、西太后の黙認のもと帝を毒殺したとしている。

 「1908年11月14日〜光緒帝が死んだ。〜「皇帝は睡眠、排尿ができず、脈拍が速く、顔色は紫色に充血し、舌は黄色に変わっていた」とその医師は書いているのだ。〜皇帝は殺されたと彼が考えたことは明らかだ。」(前掲『ラスト〜』)


11 西太后の死因

<参考>
 1908年10月、西太后はひどく腹をこわして床に臥せったが、ちょうど同じ頃光緒帝も病の床についた。
 西太后は自らの病が篤いと覚り、重病をおして帝位継承など事後の国事を定めた。人をやって光緒帝の病状をさぐらせ「わしはあれとは不倶戴天の身、あれが死ぬまでわしも死なぬ」といい、光緒帝の死後七時間ほどして息をひきとった。(前掲『最後の宦官』)

 西太后は昔から大食で、1907年、ひどい赤痢にかかった。結核と、鬱病と、ブライト病に苦しんでいる光緒帝も寝たきりだった。西太后は、光緒帝の死の翌日(1908年11月15日)、無謀にもリンゴとクリームを山盛りにしたのを平らげたのち、死んだ。(前掲『ラスト〜』)


 

12 摂政王と袁世凱の確執

(1)  光緒帝が臨終の際、摂政王に「袁世凱を殺せ」という朱書きの上諭を残したという俗説があるが、私の知る限りではそのような会見はなかった。
(2)  内務府に務めていたある者の話では、摂政王は袁世凱を殺そうとして、康熙(カンシー)帝が大臣の騖拝(アオバイ)を殺した前例(御前で足が3本しかない椅子に座らせ、ひっくり返ったら「君主の前で礼を失した」罪で処刑)にならおうとしたが、周りに反対された。


<参考>
 袁世凱は溥儀即位当時、軍の総司令官であったが、摂政の醇親王はまっさきに彼を首にした。彼を罷免する勅令は、「袁世凱は脚の病に苦しみ職務を果たすことができないので、職を辞して家郷で治療に専念せよ」という文面だった。
 のち、孫文らの革命が進行したため、醇親王は袁世凱に、北京に戻り事態収拾にあたるよう頼んだが、「まだ脚が痛む」とそっけなく断られた。(前掲『ラスト〜』)


13 西太后の性格

 ある太監が将棋の相手をしていて「老祖宗(あなたさま)のこの馬(マー)を殺しままする」と言うと、西太后は「私はお前の一家を殺してやる」と叫び、すぐにその太監を外へ引きずり出させて、殴り殺させてしまった。

 「私にちょっとでも不愉快な想いをさせた者には、一生不愉快な思いをさせてやる」という名言を吐いたことがある。