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2008年04月18日付・夕刊
(7)帰れる時は帰る!
近森病院の脳神経外科、高橋潔部長(51)の口から出た言葉は、高知赤十字病院(日赤)で聞いた言葉と似ていた。 最大の理由は救急外来(ER)が守ってくれているからだ。しかも、三人いる救急専従医のうち二人が脳外科の専門医資格を持つ。ERの根岸正敏部長(47)は以前、近森の脳外科科長をしていただけに、脳外科にとっては心強い存在だ。 さらに頼もしいのはもう一人の外科医、井原則之医師(34)。群馬大救急部で鍛え、新潟県中越地震でも現地に入って救援活動に従事。災害時の医療救護班「DMAT」の講師資格も持つ実力派。三日間の密着取材で、ERの機動力はある程度分かった。 象徴的だったのは二日目、午前十時からの二時間。救急車が六台も来るラッシュ。さらに、ウオークインの急患も続々入り、ERの治療、回復、予備のベッド十台がすべて埋まった。 高知市の中心部の救急病院だけに需要も多い。のぼせるような忙しさ。その中には急性硬膜下血腫の患者もいた。高知医療センターなら脳外科医が呼ばれている場面だが、日赤同様に救急医が奮闘。CT、MRI検査を済ませ、止血剤、降圧剤を入れ、容体が落ち着いたところで脳外科医に引き継いだ。所見も整理しており、後は家族への説明と手術だけだ。 これなら、脳外科に限らず大助かりだ。うらやましい環境。だが、聞いてみると、この体制になったのは昨年六月。まだ日が浅い。 近森の医師は群馬大系の人材が多い。根岸部長も近森と群馬大を二度往復。平成五年、近森で脳外科科長だったところを群馬大に呼び戻され、大学病院の救急部立ち上げに参加。そこから救急医の道を歩み始めた。三度目の近森勤務となったのは十七年四月。医局を離れ、高知に永住するつもりでやって来た。 「院長から、救急を統括してほしいと誘われたんです」 それから二年間、ERで孤軍奮闘。十九年、井原医師と、脳外科医の竹内敦子医師が群馬大の医局を離れ近森のERに合流。戦力アップした。 「二年間は学会にも行けず、夏休みも取れずでした。このまま、一生独りでやるのかなと思ったことも」と振り返る。 群馬時代は当直を月に十五回したこともある。井原医師は十三回。修羅場を知るだけに仕事も早いし、帰宅も早かった。 この日、両医師が病院を出たのは午後九時。竹内医師は院内旅行で不在。脳外科も午後に二つの手術をし、四人とも九時までに帰った。その翌日はさらに早く、脳外科、ERとも午後七時半には全員が消えていた。 「帰れる時は帰らないと。メリハリがないとやっていけません」と根岸部長。彼の帰宅を見送った後、高知医療センターに電話を入れると、脳外科はまだ四人の医師が働いていた。これも日赤取材の時と同じだ。 だが、ここで一つ、日赤と異なる問題がある。ERの救急医が帰宅した後、夜間の救急対応はどうするのか。ここにまた、近森が培ってきた独自のシステムがあった。 【写真】近森病院ERの強力「防波堤」、根岸救急部長(左)と井原医師(中央)ら=高知市大川筋1丁目 |
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