<1面からつづく>
◆保険証失い「手遅れ」に--混合診療「政治決着を」--「32時間勤務も当たり前」
横浜市の60代の男性が昨年2月、直腸がんで亡くなった。男性は国民健康保険料を滞納したため、医療費をいったん全額自己負担しなければならない「資格証明書」の交付を受けていた。相談に乗っていた医療ソーシャルワーカーの女性(34)は「保険証がなかったために病院に来ることができず、手遅れになった。何かしてあげられることはなかったのか」と今も悩む。
男性は部品加工会社を経営していた。不況で仕事が激減。従業員の給与が払えなくなり、1人で仕事をするようになった。5年前からはアパートの家賃支払いにも困り、工場2階で寝泊まりするように。月3万円の収入しかないこともあった。
一昨年夏、体調が悪化したが夏バテと自分に言い聞かせて受診を控えた。1カ月後、体が動かなくなり入院した。末期の直腸がんだった。手術したが、がんは取りきれなかった。
受診を控えたために死亡する例は、まれではなくなっている。男性が通った横浜市の総合病院では昨年3月にも同様の例があった。
建設会社の寮で1人暮らしだった60代の男性。生活のため借りた金の返済を優先して保険料を払えず、資格証明書を受けていた。昨年1月、急激にやせ始め胃の痛みを感じたが、金がないため受診を我慢した。2月の給料日直後に病院に行ったが、末期の胃がんで間に合わなかった。
「まじめに働いてきた人たちが、なぜこんなむごい死に方をしなければならないのか」。間近で向き合った医療ソーシャルワーカーの疑問は消えない。
神奈川県藤沢市の団体職員、清郷(きよさと)伸人さん(61)は00年12月、腎臓がんを告知された。左腎臓を摘出したが翌01年6月、骨転移が見つかり、保険対象のインターフェロン療法のほか、保険適用外の療法を併せて受診する「混合診療」となった。日本で混合診療は認められておらず、清郷さんは本来保険が適用される診療も含め、全額自己負担を求められた。
「保険料をきちんと払い、保険医療も受けているのに、たった一つ適用外治療を受けるだけで全部保険が利かなくなるなんて納得できない」。清郷さんは06年3月、国を相手取り、混合診療解禁を求めて東京地裁に提訴した。薬害訴訟で著名な弁護士にも「前例がない」と弁護を断られ、書面は自分で準備した。「保険外も含めた治療のお陰で健康でいられる。人道的に許せないという憤りだけで突っ走った」と言う。
昨年11月、地裁は、混合診療を原則禁止する国の政策を違法とする判決を出した。国が控訴し、訴訟は高裁で継続中だ。
混合診療を巡っては、04年に当時の小泉純一郎首相が解禁を指示している。その後、一部適用対象は拡大したものの、厚生労働省などの抵抗で解禁の見通しは付いていない。「混合診療解禁には政治決着が必要だ。だけど小泉さんのあとは、自民党も民主党も、医師会を敵に回すと票にならないためか、『触らぬ神にたたりなし』の態度に見える」。清郷さんの政治に対する不信感は強い。
東京都渋谷区に住む40代の女性は12年前、突然下半身の感覚がなくなり、動けなくなった。神経系の難病、多発性硬化症だった。ステロイドの大量注入で症状は治まるが、徐々に悪化し、再発と入退院を繰り返している。
12年前、この病気の治療は無料だった。ところが医療費抑制策のあおりで公費助成が縮小され、負担額が徐々に膨らんできた。
今は副作用もあり、神経内科のほか眼科や整形外科など五つの医療機関に通っている。月2万円ほど必要だ。一つの医療機関で月5770円までは自己負担。症状が再発し、別の病院を受診すると新たな自己負担が必要となるため、月が替わるまで受診を我慢したこともある。女性の月給は20万円弱で、自宅マンションのローンは月5万円。節約のため、冷暖房は一切使っていない。
女性は「お金のかかる難病治療が、医療費削減の標的にされているのではないか。保険の利かない領域が次第に増え、そのうち裕福な人しか十分な治療を受けられなくなるのではないか」と、不安を募らせている。
東京都大田区にある東邦大医療センター大森病院の新生児科。医師不足のため、月8~9回の当直をこなす男性講師(48)は「32時間連続勤務も当たり前」と、疲れ切った表情を浮かべる。
リスクの高い母体や新生児に対応する「総合周産期母子医療センター」の指定を受ける同病院。新生児集中治療室は12床で、症状が落ち着いた新生児を扱う後方病床も24床ある。重症の新生児が多く、医師の当直を外すわけにはいかない。
4年前までは、5~6人の医師で当直を回していた。今も新生児科の医師は6人いるものの、主に3人で当直を回すしかない状況だ。1人は過労で体調を崩しており、1人はまだ経験が浅く単独では当直を任せられない。もう1人は60代の教授。その教授にも月数回、当直勤務に入ってもらってしのいでいる。
医師不足も、医療費抑制政策が背景にある。GDP(国内総生産)に占める公的医療費の割合は、6%台後半から8%の欧米に対し、日本は6・2%。人口1000人当たりの医師数も日本は2・0人で、ドイツやフランスの3・4人に比べ見劣りする。
産科や小児科と同様、新生児科も医師不足は深刻だ。男性講師は「医師不足で忙しさが増し、若い医師が残ってくれない。子どもの成長が間近で見られ、やりがいも大きい職場なのに」と嘆く。【高山祐、河内敏康、大場伸也】
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後期高齢者医療制度で、お年寄りにも負担を求め、医療費を自覚してもらう趣旨は分かる。しかし、医療保険は社会全体で支えるのが基本。75歳以上を切り離すのは間違いだ。
83年、当時の厚生省保険局長が唱えた「医療費亡国論」が間違いのもとだ。OECD(経済協力開発機構)30カ国中、日本のGDP(国内総生産)に占める医療費の割合は22位に後退し、地域医療は崩壊しかけている。根底に「医療費は国の負債で、経済活性の足を引っ張る」という誤った考えがある。
80年代、米国のレーガン大統領、英国のサッチャー首相は、市場原理主義を唱えて経済を立て直したとされているが、2人とも医療制度を壊した。英国は入院、手術の1年待ちが当たり前となり、数年前のインフルエンザ流行時、多くの高齢者が入院できずに死亡した。
米国は、規制緩和で1億4000万人が民間医療保険に加入した。弱者への公的保険はあるが、中間層の4700万人は無保険だ。米国では、もう皆保険は無理だろう。英国も、ブレア政権が医療費を50%増額する政策に転じたが、一度壊すと、戻すには莫大(ばくだい)な金とエネルギーがかかる。それが今、日本で起きかけている。
民間保険の活用と言うが、公的保険との境を誰が決めるのか。わらにもすがる患者は、治癒の可能性が10%しかない保険非適用薬でも、財力があれば自己負担するだろうし、医師も応えようとするだろう。有効な新しい治療法でも、自費や民間保険でのカバーが定着すれば公的保険は縮小し、医療格差を招く。混合診療など不要。欧米で安全、有効性が確認されている薬は自動的に保険適用すればいい。財源には、細分化している公的医療保険を統合して財力を高めたり、道路特定財源などの一般財源化が考えられる。それでもなお不足するなら消費税増税となるが、硬直化を招く目的税は反対だ。一般財源の中で何を優先すべきかを地方が決めるシステムにすべきだ。
EU(欧州連合)で医療は、経済発展の原動力との認識が強い。EU15カ国で医療制度の経済効果はGDPの7%。日本に当てはめると年間35兆円GDPを押し上げる。今こそ「医療立国」が必要だ。福田康夫首相には、政府主導でいま大改革に乗り出さないと国家的危機に陥りますよ、と言いたい。【構成・吉田啓志】
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医療費に関する自民党の考え方は、「抑制基調を強めるべきだ」と主張する財政再建派と、「これ以上の削減は限界」と考える厚生族を中心とした議員に大別される。
医療費の財源をどう考えるかは年金改革へのスタンスとも密接にからむ。族議員らは基礎年金を全額税で賄う税方式を否定。今後の増税分を医療、介護に重点投入して公的医療保険を充実させるよう主張している。公明党も大筋そうした考えだ。これに対し、自民党の財政再建派の一部は、年金に税方式を導入したうえで、医療は民間に委ねる分野の拡大を理想に掲げている。
後期高齢者(長寿)医療制度の保険料は、所得に応じた所得割りと一律の均等割りからなる。子どもの扶養を受けていた人は新たに保険料を負担するようになったが、その激変緩和策として2年間所得割りを免除し、均等割りを半額にすることが盛り込まれていた。
しかし、与党は昨年の参院選惨敗にこりて、土壇場でさらにお年寄りの負担軽減策を導入。昨年末、補正予算に計上した追加軽減措置は、08年4~9月は均等割りも免除して保険料負担をゼロとし、同年10月~09年3月は本来の均等割り額の10%だけとする内容。それでも与党は「高齢者にも応分の負担を求める」という制度の根幹は維持していく考えだ。
一方、民主党は後期高齢者医療制度に対して「75歳以上の人を切り離すうば捨て山政策だ」と厳しく批判している。保険料を年金から天引きする徴収方法についても「記録漏れ問題が解決していない年金から天引きするのはとんでもない」と訴え、国民の不信が強い年金にからめて医療制度批判を強めている。既に共産、社民、国民新党と共同で、後期高齢者医療制度の廃止法案を衆院に提出した。ただ、今後も高齢層を中心に増えていく医療費をどう賄っていくかについて、明確に示してはいない。【吉田啓志】
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▼06年10月~
・70歳以上の現役並み所得者の窓口負担を2割から3割に
・70歳以上の療養病床入院患者の食住費を全額自己負担化
・高額療養費の自己負担限度額アップ
▼08年4月~
・後期高齢者医療制度創設
・65~69歳の療養病床入院患者の食住費を全額自己負担化
・3歳~小学校就学前児童の窓口負担を3割から2割に
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■人物略歴
東京大医学部卒。米・ワシントン州立大、ユタ州立大を経て、79年から帝京大に勤務し、医学部長などを歴任。著書に「医療立国論」。66歳。
毎日新聞 2008年4月19日 東京朝刊