中国製冷凍ギョーザによる中毒事件など食の安全をめぐる問題について、本欄で中村秀明記者は「消費者の自覚を促すべきだ」(2月14日付)と主張し、井上英介記者は「消費者に『もっと学べ』は酷だ」(4月4日付)と反論した。「節操がない」と言われそうだが、いずれの主張にも一理あると思った。この問題は「白か黒か」の二者択一ではない。自分なりの視点を付け加えてみたい。
その前に一つ指摘しておこう。食の安全性をめぐる不安と、井上記者が言う「冷凍食品がなければ成り立たない食卓」には共通の背景があるということだ。
私は1960年生まれだが、子供のころは3世代同居の大家族だった。祖母や母は近所の商店街で食材を買い、一緒に調理していた。加工食品といえば豆腐などごく限られたもので、冷凍食品はなかった。
今は核家族が普通で、夫婦共働きも珍しくない。家事負担が重い主婦に、手軽な冷凍食品や加工食品は強い味方だ。母子・父子家庭ならなおさらだろう。
職場では終身雇用制が崩れ、リストラや倒産の憂き目に遭う勤め人が増えた。不安定雇用を強いられ、「ワーキングプア」と呼ばれる若者も多い。そういう弱い立場の人々の食生活を安い輸入食品が支えている。
大家族や商店街の崩壊、中間層の解体と新たな貧困層の出現。それらをもたらしたのは高度経済成長に伴う社会の変化や、その後の国際競争の激化だ。日本農業の衰退も要因は同じだろう。その中で食の輸入依存が深まり、生産・流通のプロセスが見えにくくなった。
こうした流れに対し、かつての消費者運動は自ら学び、調べて問題を告発した。しかし、80年代に入ると目先の「消費者本位」に欺かれ、消費者は学ばなくなった。中村記者のこの指摘は正しいと思う。
一方、井上記者が言う通り「日々の暮らしに精いっぱいで冷凍食品に頼らざるを得ない消費者」に「もっと学べ」というのは酷な気がするし、まして事件の被害者に「学ばなかったあなたが悪い」とは言えない。
中村記者もそう言っているわけではない。主張の核心は「消費者行政を強化すれば根本的な解決が図れるのか」ということだ。
もちろん、厚生労働省や農林水産省など行政機関の情報共有を進め「安全性を少しでも高める仕組み」(井上記者)を作ることは望ましい。しかし、海外を含む長い生産・流通・加工過程のすべてを監視し、偽装表示や異物混入を防ぐことができるのか。完ぺきを求めれば膨大な費用がかかり、それは消費者、納税者の負担になる。福祉や医療に充てるべき人材まで、食品衛生に回さなければならなくなるかもしれない。
対策に限界があるとすれば、やはり消費者も学ぶ必要はあるし、そこにも行政の役割はある。私は食育の推進を提言したい。
神奈川県三浦市立旭小学校の例を紹介しよう。5年生の担任だった黒山美沙樹教諭(30)は教室にコンビニ弁当を持ち込み、使われている食材の原産地を児童らと一緒に調べた。大半が輸入品だった。弁当1個に使われている野菜や肉など一つ一つの輸入先からの移動距離を合計したところ、14万キロ強と地球3周半に達した。「なぜ国産を使わないのか」「安全性に問題は」「輸送の途中、排出された二酸化炭素(CO2)の量は」。子供たちは調べ、考え、意見を述べ合った。
この取り組みは、先月号の雑誌「食農教育」(農山漁村文化協会刊)で紹介され、旭小には各地の学校関係者から電話が相次いでいるという。当時、校長として黒山教諭とともに指導に当たった千葉保・国学院大学非常勤講師は「食は人が生きていく根幹。小学生から社会人まで学んでほしいテーマだ」と話す。
日本の食のゆがみは、安全性や環境の問題だけではない。世界では穀物高騰で飢餓が深刻化し、世界食糧計画(WFP)の援助予算も不足している。「先進国のバイオ燃料ブームのしわ寄せが途上国の弱者に行く」(千葉講師)という図式の中、日本が輸入する食料の生産に、海外では数百億トンの水と約1245万ヘクタールの農地が使われている。国内農地の約2・7倍近い。
私は輸入食品や冷凍食品を買わないことが「賢さ」だなどとは思わない。自分の食べる物をどこで誰が作っており、それが何を意味するのかを、まずは知ることだ。「知ったとしても冷凍食品に頼るしかない」人は多いだろう。しかし、だからこそ知ってほしい。「弱者」という言葉でくくられる存在ではなく、自ら考え、社会を変える主人公になるための第一歩として。
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毎日新聞 2008年4月18日 東京朝刊