大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」
韓国・朝鮮人論


韓国人朝鮮人の証言や主張には、話を面白おかしくしたり相手を貶め自己の優越性を誇示するために、嘘臭い話や大げさな物言いをし、まぎらわしい表現を意図的に行うことが間々有ります。そこで、韓国・朝鮮人論の中から、それに言及しているものを紹介します。
「 雨森芳洲 」 上垣外憲一 1989年 中公新書
( 灰色文字は注 )

◇新井白石の朝鮮観 ( 江戸中期の儒学者・政治家 1657〜1725 )
日本に送られてくる通信使は、日本向けには将軍の襲位祝賀をうたいながら、朝鮮の文献を読んでみると、敵情探索を目的としている。これは恩義を忘れたものである。大体、朝鮮は信義のない国であって、明が清に攻められた時も一人の援兵も送ろうとしなかったではないか。「 夫朝鮮狡黠多詐、利之所在、不顧信義、蓋○狢之俗、天性固然 」( 朝鮮人は狡猾でいつわりが多く、利のあるときには信義をかえりみない。狢( むじな=タヌキの異称 )の類の風俗は、天性からしてそうなのである「 国書復号経事 」 )。白石の通信使待遇格下げの根底には、このように朝鮮を軽侮する心理が働いている。日本の文人たちは、朝鮮のことを礼儀の国などといって持ち上げているが、歴史に照らしてみれば、かくのごとく信義のなき国である。そうした国の使節をそれほどまでに優遇することはない。こうした論理である。
( 日本の“文人たち”を“マスコミ・文化人”と言い換えれば現代でも通用する )

「 朝鮮幽囚記 」 ヘンドリック・ハメル ( 生田滋訳 1969年 平凡社東洋文庫 )
( ハメルはオランダの船員で、長崎へ向かう途中船が難破して朝鮮に流れ着き、1653〜66年の間出国が許されず朝鮮に留めおかれていた。 )この国民の誠実、不誠実および勇気について

彼らは盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。

「 新・韓国風土記 第1巻 」 ソウル市根の深い木社編 安宇植訳 1989年 読売新聞社
両班階級は常民との約束は到底信用できないもの、彼らに誠意や真実、信義や正直、良識などの徳目を期待するのは無駄なことと決め付けた。さらには、そうした徳目を悪魔に売り渡した階層として扱うより他ないとまで認識するようになった。常民階級が徳目に背を向け… したがって彼らは、ほんのわずかでもおのれの利益につながると判断すると、喜怒哀楽の感情を度が過ぎるほど、行為や言葉によって示した。大声を張り上げたり、暴言を吐いたり、下卑た言葉で口汚く罵倒したり、時には腕をまくったり拳を振り上げたり、目を剥いて睨んだり胸ぐらを掴んだりするのもそのためであることが少なくなかった。そうしてこうした粗野な言動こそが、しばしば彼らに利益をもたらしたのである。

「 朝鮮紀行 」 イザベラ・バード 1897年( 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫 )
暮らし向きの楽な人々は一軒また一軒と場所を変えて時間をつぶす。政治については危険すぎるので話題にしないが、宮廷や市内のゴシップや著名人をさかなにした冷やかしを受け売りしたり、ニュースを仕入れたり、披露したり、でっち上げたりする。( 中略 )庶民は通りや家の前で宿屋で人と会う。そしてお互いの商売、仕事、ふところぐあいなど、かなりぶしつけと思われることについてえんえんと尋ね合ったり最新のニュースを仕入れ合ったりするのである。どんな男もできるかぎりニュースを集め、あるいはつくる。耳に入れたことを嘘と誇張で潤色する。朝鮮は流言蜚語の国なのである。朝鮮人は知っていること、というより耳にしたことを人に話す

ノース・チャイナ・ヘラルド紙 1905年5月5日号
( 「 外国新聞に見る日本3 」 1992年 毎日コミニュケーションズ )
朝鮮ほど贈賄や腐敗がよく見られる国もないだろう。また、この半島ほどなんの理由もなくだましたり、だまされたりすることが広く行なわれている国もない。そして、これまで朝鮮政府ほど詐欺、うそ、横領が満ちあふれ、骨の髄まで堕落した政府はなかった。しかし、朝鮮はそのような自分たちのやり方に慣れ、これには気づかなくなっており、他人の欠点ばかりが見えるのだ。 ( エッソン・サード記者 )

「 悲劇の朝鮮 」 アーソン・グレブスト 1912年( 高演義・河在龍訳 1989年 白帝社 )
( 学者である両班は )礼節上、天地の間に起こることならすべからく知っていなければならないし、質問されたことにはことごとく答えられなければならないわけですが、ただ、わざと騙そうとするのではありませんが、その嘘っぽい理論で結論を下す論法ときたらまったく驚くべきほどです。自分が正しい場合がほとんどないにもかかわらず悪びれる様子がほとんどない。もし誰かが彼の言うことを受け入れないで別の論理で反駁を加えたりすると、彼は礼を守り抜くために必死の努力をするんです。なかなか信じようとしない人を説得したり、または自分の正しさを納得させたと自分自身思えるまでは、決して投げ出したりはしません

「 朝鮮の悲劇 」 F.A.マッケンジー 1908年 ( 渡辺学訳 1973年 平凡社東洋文庫 )
韓国人は、遺伝と教育とによって、その大部分が、おおげさな物言いをする人間か厚顔無恥の嘘つきかである。それで、日本人の非行についての彼らの陳述は、検証なしに、これを受け入れることはできない。( ジョージ・ケナン、ニューヨーク・アウトルック紙の論説から引用している )

「 在日韓国・朝鮮人に問う 」 佐藤勝己 1991年 亜紀書房
〔佐藤氏は金嬉老事件の裁判で特別弁護人をつとめた( 1968年春、在日コリアン金嬉老が借金の取り立てのトラブルから暴力団員を射殺、静岡県寸又峡の旅館に立てこもり、宿泊客を人質にして民族差別の不当性を訴えた事件 )〕
誤解を恐れずにあえて書くと、今になって振り返ってみると、はじめて、庶民つまり「 原コリアン 」に会ったのである。なぜ「 原コリアン 」かというと、彼は正直に自分の感情を表明する。そして、自分の不利になるようなことは、事実であっても断固として認めようとしない。しかし、相手側の非は、どんな小さなことでも針小棒大に言い立てる… 次に目立つことが大好きだ。天才的とも思える組織能力、つまりある特定の人に狙いをつけたらあらゆる方法で接近を図る。看守に贈り物をし、相手がそのワイロを受け取る。それを逆手にとって次ぎ次ぎと要求をエスカレートさせていく。彼の独房の中は、写真で見る限り書斎のようであり、料理する出刃包丁まであった。その結果、一人の看守を自殺に追いやってしまうのだが、これらのことは筆者にとってはまさに驚きの連続であった。

平気で嘘をつく人たち
偽証が氾濫する法廷   朝鮮日報 記事入力 : 2003/02/13 19:05
 何の罪もない人を罪人に仕立て上げ、罰を受けるべき人の罪を覆い隠す「 偽証 」が法廷ではこびっている。

 偽証とは民・刑事および行政訴訟などで、事実を明らかにするために裁判に出頭した証人が嘘をつくこと。検察が起訴した偽証事犯は2002年1343人。98年の845人に比べ4年間で60%近く増えている。

 検事が同席している刑事裁判はまだいい方だが、民事裁判は「 嘘の競演場 」だという言葉が出てくる程だ。

 特に、偽証自体がほとんどないに日本とは統計だけでもはっきりとその違いが分かる。

 2000年の場合、韓国で偽証罪で起訴された人が1198人であることに比べ日本は5人だった。韓国と日本の人口の差を考慮した場合、国内の偽証が日本の671倍に達するというのが最高検察庁の分析だ。

 偽証がこのように多い理由は、嘘を大したことと思わない社会の風潮と、「 情 」にもろい韓国の文化が最も大きな理由だと判・検事は話す。

 清原( チャンウォン )地方裁判所・晋州( チンジュ )支部の尹南根( ユン・ナムグン )部長判事は「 親しい人に不利益を与えたくないという理由で、証人としての出頭を極力避け、出頭したとしても『 思い出せない 』と答えるケースが多い 」と話す。

 尹部長判事は「 このような証人は悪人というよりは、他人に悪いことを言えない典型的な韓国人である 」と付け加えた。

 偽証に対する処罰が軽いのも原因のひとつとして挙げられている。2001年、全国の裁判所が処理した計846件の偽証事件のうち、実刑が宣告されたのは181件( 21% )だった。

 同年、刑事裁判全体( 20万件 )の中、実刑が宣告された事件は25%水準の5万件だった。偽証罪は故意性が強い場合、最高懲役10年まで宣告することができるが、軽い処罰で済むケースが多い。

 こうした現実は外国と比較するとさらに浮き彫りになる。ビル・クリントン前米大統領は2001年11月、米連邦最高裁に弁護人リストから除名された。ホワイトハウス元実習生のモニカ・ルインスキーとの性スキャンダルなどで偽証したことに対する厳しい代償だった。

 クリントン前大統領はこれに先立ち、アーカンソー州でも弁護士資格を停止された。嘘を容認しない文化がこうした措置の背景にあるというのが法曹人の見方だ。米連邦最高裁傘下の量刑委員会が作った「 連邦量刑指針 」によれば、偽証罪は最低でも懲役10〜16ヵ月を宣告し、減刑できないように定めている。

 最高検察庁の金賢雄( キム・ヒョンウン )公判訟務課長は「 偽証は真実を究明する司法機関の業務を妨害し、結局は国の公権力に対する不信も招くことになる 」と述べた。

朴世鎔( パク・セヨン )記者
『 民事裁判は「 嘘の競演場 」だ 』 『 偽証がこのように多い理由は、嘘を大したことと思わない社会の風潮と…  』韓国人朝鮮人の証言や主張は、鵜呑みにせず、十分検証する必要がある。



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