惨たるかな通州事件
日本の対中感情の悪化というのは現地での虐殺事件と共にあった。古くは大正9年の尼港事件、ロシア人や中国人の共産ゲリラが日本人700人以上を殺害した事件である。被害者の半数が民間人で、非常に残虐な殺され方をした。昭和3年の済南事件では中国兵に日本人居留民400人近くが殺害され、その殺され方が余りに残虐なので日本で反中感情が高まった。中国側たちあいの下での検死では、頭の皮を剥がれたり、目をくりぬいて石を詰められたり、女性は顔の皮を剥かれ陰部に木を差し込まれるなどの日本人の常識では考えられないような殺され方をした日本の民間人の死体の様子が記されている。中国人は日本人だけに対して残虐な殺し方をするのかといえば、蒋介石軍が直魯軍の武装解除兵士3000人を殺害するなど同じ中国人にも同様な虐殺を行っているので、これはあるいは現地の人にとっては特別な出来事でもないのかもしれない。日本人だって殺人はする。だが、殺した相手の目をくりぬいて石を詰めたりなどの殺人手法は、寡聞にして聞いた事がない。考え違いされる人がいるが、ここで民族の優劣や行為の善悪について言っているのではない。感覚や習俗の相違を言っているのである。どっちがいい悪いでなくて、日本人と中国人の感覚は「違う」という事が言いたいのである。
昭和12年7/28夜10時頃、河北省にあった日本の傀儡現地政権である冀東防共自治政府の首都通州=写真右、虐殺事件前の平穏な頃撮影=は何やら不穏な空気に包まれる。通州には380人ほどの日本人、朝鮮人が居留していた。なお当時は朝鮮半島出身者も日本人としてカウントされていたので、中国側も朝鮮半島出身者は日本人同様に見なしていた。7/29午前3時半、現地政府の中国人保安隊が突如、日本人居留民を襲撃、うち200人ほどが殺害された。2日後に駆けつけた日本軍守備隊に無事に保護されたのは日本人77人、朝鮮人58人だけであった。殺害された日本人、朝鮮人はただ殺されたのではなくて凄惨な手口で殺害されていて、まさしく虐殺であった。命からがらこの通州から逃れた同盟通信記者はこう証言している。宿舎のホテルに乱入して来た保安隊の中国人兵士によって日本人は縛り上げられ、「決して危害は加えないから安心してついて来い」と引き立てられていった財政庁には同様にして連れて来られた100人ほどの日本人、朝鮮人がいた。すると突然、保安隊は100人の民間人へ無差別射撃を行い、次々に倒されていったという。記者は運よく弾が当たらなかったので、城壁をよじのぼってそこから川へ飛び込み、通州脱出に成功したのだった。
現地政府の中国人保安隊は日本人を保護する存在であると、通州の日本人らは固く信じていて、盧溝橋事件もあったので北京から通州へと避難してきていた日本人も70人近くいた。通州事件で殺された日本人は女性や子供も区別なく、多くの死体は性別がわからないほど残虐な殺され方をしていた。この時に助かった日本人、朝鮮人のほとんどは、普段から親しかった中国人の家にかくまわれて、2日後の日本軍の通州入りまで息をひそめていたものだった。中国人保安隊は日本人の2歳の女の子の頭をピストルで撃ち抜き、3歳の男の子も虐殺、事件の後に通州を訪れた新聞記者、日本軍関係者らは屍臭のひどさと外に散乱している日本人、朝鮮人の死体の余りの酷さに言葉もなかった。通州には警官や特務機関の軍人なども少数いた事はいたのだが、通州の治安を守るのが中国人保安隊の職務で、日本人警官や軍人らのほとんどが抗戦する間もなく殺されてしまっている。
日本人の死体のほとんどは首に縄がつけられており、旭軒という飲食店には10代から40代までの女性7、8人がレイプされ裸のままで射殺されており、そのうちの4、5人は陰部を銃剣で突き刺されていた。錦水楼という旅館では女将や女中らが手足を縛られたままレイプされて斬首されていた。男は目玉をくりぬかれた死体で見つかった。さらには民家から手の指を揃えて切断されている子供の死体、首を縄で縛り池に投げ込まれた家族6人の死体もあった。日本軍が駆けつけた時の日本人の生存者の中には鼻に針金を通された子供、片腕を切断されたお婆さん、腹を銃剣で刺された妊婦などが命からがら助けを求めてくるといった有様だった。
通州南街吏家胡同19号の冀東医院の鈴木直之助(36)、妻のシゲ子(31)、二女の紀子(2)も、中国人保安隊に暴行された上で連行されている。その際に、長女の節子(5)は中国人看護婦の何鳳岐(21)が「私の子供」と言い張って守ったために捕まらずに済んだが、直之助は通州北門外西方の増官円の銃殺場で、機関銃2つと数十人が構える小銃で殺害された。シゲは背中を撃たれた際に紀子を投げ出してしまったので、助けに行こうとしたところを中国兵に剣で刺殺され、紀子は銃底で頭を割られて殺害された。9/29午前8時、節子は東京駅に到着している。
冀東保安隊第一総隊長であった張慶餘の「冀東保安隊通県決起始末記」などには中国人保安隊側から見た通州事件が記されている。昭和10年11月の冀東防共自治委員会成立により河北保安隊が冀東保安隊と名前が変わり、張慶餘は河北省主席の商震に指示を仰いだが、しばらくの間、表面を糊塗するようにと言われた。その後、張慶餘は中国国民党軍の宋哲元と面会した折に、抗日の意思を示して激励を受けている。張慶餘に言わせるとこれが通州事件の伏線であった。昭和12年7月の盧溝橋事件で、張慶餘は河北省主席の馮治安に指示を仰いだところ、馮は宋哲元率いる第29軍の開戦に呼応して通州で決起するように言ったという。蒋介石の南京政府は日本軍敗走のデマ放送をしきりに流していて、これを信じた張慶餘ら通州の中国人保安隊らは蒋介石軍が通州に攻めてきたら自分たちが殺されるかもしれないと、浮き足だっての決起であったとも言われている。
この通州事件は「保安隊変じて鬼畜」(東京朝日の昭和12年8/3夕刊1面)などと日本国内の新聞では大見出しで報じられ、日本人居留民を守るはずの現地保安隊の重大な裏切り虐殺事件として戦前の日本人のほとんどが知っている有名な事件であったが、戦後はまったく取り上げられなくなった。薄々感づかれた方もいるかもしれない。この中国人保安隊の日本の民間人へ行った虐殺の手口というのが、戦後、日本軍が中国人に行ったとする虐殺の手口に酷似している事に気づかれれば、なぜ通州事件が戦後、封印されてしまったのかは想像がつくであろう。妊婦の腹をえぐり、レイプした女性の陰部を銃剣で刺し、2歳の子供を射殺する−。これらの出来事がすべて中国人保安隊の犯行であるという事は、日本軍が中国で行ったという類似の虐殺事件の正体は一体、何だったのか、本当に日本軍がそんな事をしたのか、という疑問を誰もが持つであろう事を日本を占領統治していた連合軍が恐れたのだった。こうした残虐な殺害手法は中国の歴史にはあるが、日本人の感覚では理解を絶するものであるのだ。現地日本軍が行った捕虜銃殺、間諜の疑いをかけられた現地人処刑や匪賊の斬首などが、通州事件に見るような凄惨な民間人殺害とごっちゃにされて、現地日本軍の虐殺話として流布しているのではないか、との疑念が生じるのはやむをえないところだろう。伝聞情報の証言ではなしに、実際に自分が体験した事で、捕虜でも間諜容疑者でも匪賊でもない、どこから見ても純粋無辜な現地の、非戦闘員の良民を無意味に残虐な手法で殺害した元日本兵の、その背景に政治的な思惑のない証言というのは、一体、いくらあるものなのだろう。
なお同事件については、昭和12年12/24午後4時、冀東防共自治政府長官の池宗墨が北京の日本大使館に正式に謝罪、120万円の損害賠償支払いで合意している。
参考
東京朝日新聞各記事など 1937
中村粲「大東亜戦争への道」 1990
東中野修道「『南京虐殺』の徹底検証」 1998
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