■カルチャーショック!!
「35年経った今は大丈夫」と言いながら日本に来た当初を振り返る。 「言葉の違いはもちろん・・・」「晩御飯の時間の短さ その反対にお風呂の時間の長さ 数をかぞえる時の指の折り方までフランスとは反対!」 「寝る時はフトン 泣き方も笑い方も感情表現の方法まで違う!!」 日本式の生活にはそうとうの苦労があった。 そんな中これまでの奥様の貢には、感謝がつきないようであった。
■ ニッポン
奥様との出会いは1970年、日本で行われた大阪万博の時である。 カナダ政府の依頼でカナディアンレストランの料理長として来日した時。 6ヶ月の間の仕事であったが、そのレストランでキャッシャーをしていた奥様と知り合い結婚した。
日本人の奥様を喜ばせるために万博後も日本に残ることにした。 そして、ある企業の依頼で京都にてフランス料理のシェフの仕事を得る。
1971年には、東京港区六本木の名店『イル・ド・フランス』のオープンに際し料理長になった。 そして1984年にレストラン・パッションをオープンさせた。
『奥様との事をもう少し詳しく話してほしい』とお願いしたら、 ユーモアを込めて「君は警察官か!?」と言ってそれ以上話してくれなかった。
■ 料理への道
1944年、南フランスのモンペリエに生まれる。 「少年時代はとても幸せでした」戦争が終り、人々は喜びと幸せに満ちていたという。 「物や食べ物がなくても楽しかった」「ボール1個で友達と遊んだり ヒーローごっこをしたり・・・」
学校への通学路、ホテルのキッチンの前を通っていた。 そこで働くコックさんたちを憧れの目で見ていたという。 「キッチンからいい香りがしてくる」 「白いコック服と高い帽子がまぶしく見えました いいなあ」 「毎日 家で食べる母親の料理もおいしかった」
アンドレ少年は、学校を卒業するころには、料理人になることを決めていた。
16歳でカルカッソンヌという町のレストラン『ロジ・ド・トランカベル』で料理修行を始める。
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