2008-04-11
■[日記]マイスターを侮るな
日本武道館で博士課程の入学式。
千鳥ヶ淵の桜はこの数日度重なった風雨でほとんど散っていたけれども、枝にうっすらと桜色が残っている。いい加減、入学、おめでとう、などという文句も気恥ずかしく、煩わしくなった歳なので、この程度の晴れやかさ、ちゅうくらいのめでたさが相応しい。
修士課程の入学式には出席しなかったので、学部の入学式以来の入学式。会場も同じなので、式典というものに対する考え方が明らかに変わったことに気が付く。
なべて式典とは滑稽なものだ。絶望的に似合わぬ角帽とガウンに身を包んだ壇上の教授陣の体躯は貧弱で物悲しい。ニュルンベルクのマイスタージンガー。ワーグナーの壮大な響きも白々しい。日本武道館という会場自体が、もう、いたたまれない。昔であればこういった厳粛さの演出の虚構を内心でこれ見よがしに暴き、したり顔をしていたところだった、けれども、この七年の間に、「かのように」振る舞い、引き受けることの美しさと苦さも、少しは、知ったようだ。自分がどこに立っているのかについて、もう無知とは言えないし、そうであれば、自分の立つ足場に蹴りを入れる勇ましい行為も、結局は、ただ地団駄を踏むようであって、愚かしく、馬鹿馬鹿しい。今の僕は、この不恰好な、頼りない、足場を何とか活かして、美しい建造物を創りたい、と思う。足場を外すのは、それからでも、遅くはない。
暖かいので散歩がてら、久々に本丸跡でも、と皇居東御苑へ足を向けるも、金曜日は閉苑でがっかり。踵を回らし神保町へ。明倫館でデイヴィッド・マー『ヴィジョン』、山陽堂で『北一輝思想集成』を購入。古本屋巡りで汗ばんだので、さぼうるでアイスコーヒーを飲む。最初から、甘かった。苦手なのだけれど、こういう喫茶店では、まま、ある。そういえば、いつも、ここでは生ビールばかり頼んでいたのだった。甘いコーヒーを、苦みばしった顔で、ちびり、ちびり、とすすりながら、デイヴィッドマーヴィジョンデイヴィッドヴィジョン・・・ぶつぶつと繰り返していると、さぼうるの薄暗い片隅でジョイ・ディヴィジョンがいつの間にか演奏を始めていた。
歩くべきか、歩かざるべきか。イアン・カーティスの言葉は、相変わらず、よく分からなかったけれども、規範から事実は導かれない。僕は、今日も、ただ、歩いている。
■[メモ]「万物が原子から出来ているだなんて、大嘘です!」
知識の構造化云々のこうちょうせんせいのお話は半分夢の中だったけれど、新設の数物連携宇宙研究機構の村山斉先生のお話は鮮やかで前向きでとても清々しかった。ダークマターとかダークエネルギーといった正体不明のものが宇宙のエネルギーの大半を占めている、という有名な話なんだけれど、こういう場でユーモアも交えつつ、ほんとうのことを言い切るパワーに圧倒された。自然科学ですら、研究というのは人柄が本当によく表れると思う。明るく研究に向き合う能力を身に付けたいなあ。
そういえば、6 年前の蓮實重彦こうちょうせんせいの名高い式辞でも僕は眠ってしまった。結局僕は何も変わっていないのかもしれない。いや、こうちょうせんせいというものが変わっていないのだ。きっと。
2008-04-05
■[雑録]これが自然種だ!
と講談社現代新書のように高らかに名指し得るものがあるのか、僕には皆目わからない。*1
前回のネッド・ブロック Ned Block の翻訳に自然種 natural kind という語が出てくる。これまでも何度も様々な本で目にした語であるが、いまいち、自然種とは何か、が覚束ぬ。僕の所属する脳科学の研究室には、哲学辞典など、ない。そこで、安易にグーグル先生に尋ねてみた次第であるが、パンの酵母が云々、といったページばかりである。ブロック先生は「中国人ひとりひとりにニューロンの真似をさせたらそこに意識が生まれるか、仮に意識が生まれるとするならチベットやウイグルなどの問題はどうクオリアとして立ち現れるのか」といった奇抜な発想で知られる方であるが (後ろ半分は真っ赤とはとても言い難い嘘である)、流石に脳内の酵母菌と意識との関係を論じるはずがないのである。
こちらの「知識は自然種か?」 (pdf) は大変勉強になったが、これは応用編のようなもので、とりあえずの基本的知識を仕入れる、序に、皆様にも、たとえ劣化したものであっても、とりあえずの叩き台として情報を提供出来れば、との思いで英語版 Wikipedia の Natural kind の項を翻訳した次第である。何せ哲学の門外漢のため、ところどころ怪しい。誤りなどは指摘していただければ幸いです。
哲学における自然種とは、人工的な分類ではなく、自然な分類としての事物の分類のことである。あるいは、人や集団によって恣意的にひとかたまりにされたもののグループとしてではなく、実在する集合として、他の事物と分かたれる事物の集合 (物体、事象、存在) が共通に持つ何かのことである。
もし仮に何らかの自然種が存在するとするならば、自然種の良い候補には、金やカリウムのような各種の化学元素が含まれるだろう。クォークのような物理的な粒子も自然な種類かもしれない。なぜかといえば、仮にそれらを同じグループのメンバーだと認める人々がまわりにいなくても、グループでありえ、他の事物からグループとして区別しうるからだ。一方、50ポンド以上である物体の集合は、ほぼ確実に、自然な種類を構成しないだろう。ある人は輸送費の計算など何らかの目的のためにそれらの物体をひとまとめにしたのだろう。しかし、他の人が、別の何らかの分類法を採用せずに、同様にそれらの物体をひとかたまりにすべきであるという特別の理由はない。
そもそも自然種があるのか、あるとすればどんなものなのかに関する膨大な哲学的な議論がある。生物学の哲学では、「鷲」のような生物学における種が自然種かどうかに関して議論がある。人種、性別あるいは性的嗜好が自然種かどうかに関しても議論がある。気象学者は、雲を何種類にも分類するが、それらが本当に異なる種類なのか、あるいは、それらのグループは単に人間の分類する利益や関心を反映しているだけなのか、に関しては明らかでない。
より形式的な定義によれば、自然種とは実体のファミリーで、「自然法則によって拘束された特性を持つ。私たちは、鉱物、植物、動物といったカテゴリー形式をとった自然種を知っている。また、異なる文化においても完全に類似した方法で周囲の自然な実在を分類することを知っている。」(Molino 2000*2, p.168) この用語は W.V.クワイン Quine の論文「自然種」 Natural Kinds*3 によって現代哲学に導入された。彼によれば、物体の集合が「投射可能」である場合にのみ (そして恐らく、その場合、十分に) 種が形成されるという。投射可能とは、その集合の何らかのメンバーに対する判断が、科学的な帰納によって、他のメンバーに対しても妥当に拡張されうることを言う。従って、「カラス」や「黒」は自然種類辞 Natural kind term である。なぜならいかなる黒いカラスも「全てのカラスが黒い」という命題の何らかの証拠を、最低限、構成するからである。けれども、「黒くない」や「カラスでない」などは自然種類辞ではない。なぜなら、黒くなくカラスでないもの (例えば薫製のニシン red herring *4 ) は、あらゆる黒くないものがカラスでないことの証拠とはならないからだ。
ネルソン・グッドマン Nelson Goodman の問題の述語「グルー」(2000年1月1日以前に観察されたものに対してには青、2000年1月1日以降に観察されたものに対しては緑、を意味する) は科学には不適切であることが分かる。なぜなら「グルー」は自然種を意味しないからだ。クワインは、「種」らしさ (kind-hood) は論理的には原始的なものであると主張した。つまり他のいかなる個物間の関係にも還元することができないということだ。
文化的人工物は一般に自然種とは考えられない。ある著者はこのように指摘する。「それらは変化し続けるし、それらを指示する用語はヴィトゲンシュタインの言う『家族的に類似する述語』を構成するのみであるからだ」 (上掲書、p.169) 。この点に関してはさらに議論が行われている。例えば、ジョン・マクダウェル John McDowell は、「文化」と「自然」の間の対立は明確に形式化することは出来ず、従って、いかなる場合も文化的製品を不自然なものとしてではなく、(アリストテレスの用語を借りれば) 一種の「第2の自然」として解釈すべきだと、論じている。
*1:「これが〜だ」というタイプの書名は永井均が『これがニーチェだ (講談社現代新書)』で使用したのが淵源である。というようなことを永井先生がこの本のあとがきで言っていたような記憶があるけれども。
*2:Molino, Jean (2000). "Toward an Evolutionary Theory of Music and Language", The Origins of Music. Cambridge, Mass: A Bradford Book, The MIT Press. ISBN 0-262-23206-5.
*3:Quine, Willard Van Orman. 1969. Natural Kinds. in Ontological Relativity and Other Essays (John Dewey Essays in Philosophy) : Columbia Univ. Press.
*4:訳注:人の気をそらすもの、根本の問題から注意をそらすためのもの、人を欺く惑わすもの、デマ情報といった意味がある。【語源】猟犬を訓練するときに、獲物が通り過ぎたにおいの残っている道と交差するように、においのきつい薫製ニシンを引きずっておいた。そうすることによって、猟犬が正しいにおいと間違ったにおいとをかぎわけられるように訓練した。そこから、draw a red herring across someone's path という表現が使われるようになった。つまり、「人が進むべき道に、薫製ニシンを引きずっておく」ことにより、「人の注意を他にそらす」のである(スペースアルク red herring の項より)。
2008-04-02
■[論文][脳][意識]意識、アクセス可能性、そして心理学と脳科学の噛み合わせ/ネッド・ブロック
Consciousness, accessibility, and the mesh between psychology and neuroscience
Block N.
Behav Brain Sci. 2007 Dec;30(5-6):481-99; discussion 499-548.
『Behavioral and Brain Sciene』の昨年の最終号で、意識のアクセス可能性を巡ってネッド・ブロックと32グループに及ぶ論者たち (哲学者・神経科学者・心理学者など) との討論が行われている。抽象的な議論にあまり深入りしたくないけれど、とりあえずネッド・ブロックの要旨だけ、翻訳。
僕たちはどのようにしたら、現象的意識の報告を基礎付ける認知的アクセスのための神経機構と、現象的意識の神経基盤を分離できるのだろうか。実は「フォーダー的なモジュールの内部の表象が現象的に意識可能かどうか」といった硬直した形式こそが問題なのだ*1。
方法論はストレートに見える。つまり、「明らかなケースにおいて (例えば、被験者が完全に自信があり、僕たちが彼らの権限を疑うべき明らかな理由が無いとき) 現象的な意識の基礎である神経的な自然種を見つけよ。そしてその神経的な自然種がフォーダー的モジュール内に存在するかどうか確かめよ」というものだ。けれども、ここで、難問が発生する。そうした明らかなケースにおける神経的な自然種の中に、報告を基礎付ける機構を、僕らは含めるのだろうか?
答えが「イエス」である場合、フォーダー的モジュールの中には現象的に意識される表象はありえないことになる。しかし、僕たちは、どのようにして答えが「イエス」であるかどうかを知ることができるのだろう。ここで示唆されている方法論では、その方法論が答えると期待される疑問に対する答えが予め必要となるのだ!
このターゲット論文は、この問題の抽象的な解決策に賛意を示し、適切な経験的なデータ源を示す。適切なデータとは、ある意味で現象的意識が認知的なアクセス可能性から溢れ出すことを示すデータである*2。
現象的意識の神経基盤が認知的なアクセス可能性の神経基盤を含まないことを仮定するならば、僕たちはこの溢れ出し overflow の神経的な実在を見つけることができるはずだし、(他の条件が同じなら) 仮定によって可能となる説明によってこの仮定は正当化されるだろう。
どうやら、循環する議論を、同時にえいやっと解いて無理矢理解決する、らしい。だいじょぶか。オーバーフローとは具体的にどういうことか、はこれから読みます。
*1:訳注:『The Modularity of Mind』(邦訳 『精神のモジュール形式』) (Fodor 1983) の中で、ジェリー・フォーダーは、僕たちの初期知覚システムの多くが様々な意味でモジュール的であると主張した。例えば、僕たちはその内部状態にアクセスすることが出来ないし、報告が出来るようなタイプの表象も持たないと彼は主張する。
*2:訳に誤りがありましたので修正いたします。id:deepbluedragon さんのご指摘です。
2008-03-24
■[日記]ご報告
紆余曲折ございましたが、わたくし、本日をもちまして修士課程を修了いたしました。来年度からも同じ研究室の博士課程に進学いたしますので生活が大きく変わることはないのですが、漸く今日になって自分の中で一つの区切りとしての実感が芽生えました。
この数年は本当に生活が重く、苦しく、その反動で半分気晴らしのような不真面目な、不謹慎な、エントリーばかり書き連ねた覚えがいたしますが、それでもなにかしらの興を覚えて読んでくださる方々がいらっしゃったことが僕にとっての大きな支えになったことは間違いありません。一年生になったら友達百人できるかな、という歌がアイロニーであることは最近知ったのですが、日本に百人ほどは私の拙い書き物を心の片隅に気にかけてくださる方もいらっしゃった、という事実だけでどれだけ奮い立たされたことか。
僕は血縁や地縁といったパトリにどうしてもアイデンティティを重ねることが出来なかった。抵抗のための砦さえ与えられていない。ネットでの繋がりなど不健全で脆いものに過ぎない、と旧世代のひとは仰るでしょうし、それは確かに一抹の真実だと思います。けれども堅固なパトリを崩壊させて来たのもまた彼等なのです。僕らの世代は半分途方に暮れているのではないでしょうか。僕らの世代の、未熟な、けれども、ぎりぎりの抵抗として WEB 上における発信は機能しているように思います。そのためには、ことさらに、表向きに、攻撃的な態度をとる必要は全くなく、ただ日々のことを偽りなく綴るだけでも充分なのだ、という発見がありました。何故なら同じ日本語を話す者同士であっても、僕たちは余りにお互いを知らなさすぎるからです。お互いに対する無知・無関心こそが不健全と脆さの根源なのです。この場を通じて実際にお会いした方も沢山いますし、一生お会いすることのない方も数知れずいるでしょう。けれども、自分の生に対して不真面目である人は、誰一人として、いなかった、ということを実感できたというだけで、世間知らずな僕には大きすぎる収穫でした。そして、個々の生活こそ、最後に残された抵抗の砦なのだと思います。
・・・・でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。僕の言いたいのはこういうことなんだ。
1度しか言わないからよく聞いてくれよ。
僕は・君たちが・好きだ
こういった殆ど無責任のような、けれども、嘘のない、言葉を発する権利が、ラジオ DJ にならずとも与えられた、ということに、僕は感謝してやみません。
くどいけど、あと1度言うからよく聞いてくれよ。僕の言いたいのはこういうことなんだ。
僕は・君たちが・好きだ
So in love / Curtis Mayfield
So in love
I'll try to do the best thing that man can do
So in love
The key to our success, see each other through
2008-03-18
■[日記]俺の脳味噌今日もフリースタイルモード
犬も食わねえ日常の垂れ流しで有限の WEB スペースを食い潰す輩は氏ね、と友人は鼻から紫煙を吹きながら、言った。わっく!朝から晩まで論文執筆の緻密な作業、一言たりとも疎かにせず。もうくらくらしてきた。回顧懐古。
夜勤明け日曜朝からバンド練習。健康的すぎ、ロックじゃねえ。メカちゃん (Bass) 1時間半の遅刻。これがロックだ。俺のドープなドラムに誰もついて来れねえ。おろしたての新品春コートをいい古着ねと褒められディスられる。しっと!スタジオを出てちゃぶ台囲みチル歓談。
久しぶりに涙が出るほど大笑いしたのだけれど何に笑ったのかはもう忘れた。春はいつだってそうして行き過ぎるのだ。俺を含め、ボーカル以外の三人が低血圧者であることが判明する。ボーカルだけ上 100 を越える高血圧。高 血圧 & The 低血圧s。血圧の違いによりバンド解散後ソロ活動。独りキチンジョージを彷徨う。
北口のウラ寂しい通り沿いに小洒落た文具屋を見つける。俺の研ぎ澄まされた心のように銀色に光るドイツ製の穴あけパンチや三角錐型定規に目を惹かれるも、貧しき私は実験記録用に神戸ノート「理科の記録」を購うのみ。小学5・6年用と書いてある。オールドスクールなスタイルがマジでデフ。使いやすいデフ。
研究室で一息ついて以前レンタルして Shrink ごにょごにょするも見損なっていた
- 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
- 発売日: 2005/06/10
- メディア: DVD
を見る。9 年前 (Before Sunrise) は吸い込まれるように近づいていった二人が臆病に距離を御する姿が切ない。ラストシーンでにやけるイーサン・ホーク、わっく。何だか寂しいのでまた Before Sunrise を見たい。床に倒れて少しうとうとする。
新宿で俺のホミー id:Lisbon22 にたかってカラオケ・ブロックパーティ。サウナと化した個室を出ても熱気覚めやらず自宅までふたりでMCバトルしながら歩いて帰る。途中、大久保の暗い裏道でゴスペルの会に誘われる。スピリチュアルな奴はだいたい友達。ヒップホップもいいけどゴスペルもいいですよチェケラだと。わっく!どんとびりーぶざはいぷ!一点突破行くぜ HIPHOPPER!"MR. DYNAMITE" のフロウかまして危機をすり抜け帰宅。ZEEBRA 様はどんなときでも、いや、まれに、おれの味方であった。R.I.P. 永眠暁を覚えず。