2008/03/27 【中国】 生きたネコを煮てスープに
厨房から猫の悲鳴 レストランに批判集まる
↑これは話の枕です。
03月29日【札幌】文化人類学会/北海道民族学会 研究会 「医療人類学の近未来を語る」
道信良子(札幌医科大学)
「グローバル企業におけるHIV/AIDS対策−グローバル・ヘルスの視点から」
花渕馨也(北海道医療大学)
「病いの偶発性とプラグマティズム−医療人類学に未来は語れるか?」
池田光穂(大阪大学コミュニケーションデザインセンター)
「医療人類学の近未来を語る」
司会:松岡悦子(旭川医科大学)
参集者十数名。
今まで見た学術集会の中で、一番人数が少ない集会だった。春休みだったんだもんね、仕方ないのかな。
さても、社会医学の林さんだったろうか、ネコ薬膳のお話をお振りになっていた。
ネコを食べる。
沖縄の離島方面で、今も脈々と残る静かな潮流。治療効果を期待して、煮詰めたネコの血肉や、猫の脳を、食する。
1999年 沖縄県のネコ肉食業者問題で、沖縄県知事へ「猫肉業者の取り締まり 等を求める要望書」を提出。(NPO法人 動物実験廃止を求める会(JAVA))
1999年 救助活動「糸満猫肉業者」猫10頭(動物たちを守る会ケルビム)
・沖縄の伝統的な薬膳料理には犬肉の料理や猫肉の料理がある。
・猫肉は喘息(ぜんそく)に効く。
... 以下つづき...
2005年魔法のiらんど
日本で猫を食べるようになったのは、猫が増えた江戸中期からで、肺の病に効く・精力増強効果があるとして遊郭街や過酷な労働を行う鉱山夫や動物性蛋白質が乏しい島の漁民などの間で盛んに食べられていました。
また、長崎県の対馬のようにツシマヤマネコのようなヤマネコを食べていた地域では、それらのヤマネコの代用品として猫が食べられることもありましたし、東北地方には人間の子供を襲う巨大な猫の化け物をマタギが退治して食べたと言う伝承がいくつか残っており、この伝承を根拠に東北地方にも江戸初期まではヤマネコが生存していたとする動物学者もいます。
近年の話ですと、2000年(平成12年)に沖縄の農村で郷土料理用の食材として、代々猫肉を販売していた老夫婦が無許可で食肉を販売したとして食品衛生法違反で摘発されています。
このような薬膳を行うことには意味がある。
『 現状改善のあがきとその解釈:自己救済的あがき』
本州でも、過去、フツーにイヌネコの肉を食っていた。(世界的にも、古今東西、愛玩動物と食用動物はじゅうぶん同じ存在でありうる)
クジラを食うのが、日本国のサバイバル手段や伝統として必要なのであれば、イヌネコは鯨よりもっと身近な食肉候補だね。
まあ、それはさておき、江戸中期というと、まだ獣肉は御法度の時代だ。
常用する食品ではなく、せっぱ詰まったときや祈願が必要なときに、「強力な食物(呪物)」として採られていたと思われる。
ところで、犬肉食について詳しく述べられている本はあるのだが、
『 犬を食べる・陰陽・古代中国・鬼・追儺 』
黒犬は薬用。
病魔含む祓いは白犬。
滋養強壮なら黄犬(赤犬)。
これは実効ではなく、陰陽五行からきた論理の帰結。
猫肉食をメインにぎっちり開陳された論考は、寡聞にしてみたことがない。
犬肉食は、滋養たっぷりな風水的アイコンとして、実際以上の効力を託されていたという由来がはっきりしているのでわかるのだが、犬よりはるかあとになって東洋にやってきた猫に関しては、これはどのような意味づけによって薬効があるとして立ち上がったのか、そんなバカみたいに古い時代の話でもないし、調べようと思えば突き止めることは可能なはずだ。
猫肉では、トラ猫白猫黒猫などで薬効の差は設定されていたのか。
なぜ特に「肺」なのか。
陰陽五行では、猫はどこに配されるモノであるのか。
どこかに既存の関連論考はありますか?
なお、対馬や西表(いりおもて)など、大陸からイエネコが渡来する前から地元に土着のヤマネコがいた文化圏では、普通にそれらのネコをとって食っていた歴史がある。
本州でフツーにニホンザルの黒焼きや脳みそが薬膳として流通していた、それと似たようなもんだ。
廣瀬鎭「猿 ものと人間の文化史」法政大学出版局 1979年
p.76 サルの頭の黒焼の作り方 紹介
p.78
>サルの黒焼は、精神病の人、知恵おくれの子に呑ませるということで、薬理効果の主要なものは「脳病、頭の病」とされてきた。
p.80
>黒焼にたいする民衆の熱狂的な渇仰は、江戸時代に頂点があるといわれている。
>青森県下北地方ではサンコウヤキと称して、サル、テン、クマの頭骨を寄せて蒸焼にし、それを粉にしたものを強壮剤としているし、相伝の秘薬として各地で依然として人気のあることも事実である。
>薬用からのサルとの密接な関係は今日でもつづいており、薬用のためのサルの密殺もつづいている。
過去、獣の肉を食することは禁じられていた。
そのぶん栄養が足りず病弱になることもあり、弱った者が肉(タンパク質)を食べると簡単かつ劇的に「滋養強壮」効果が現れることが少なくなかった。
禁止と、実際の効力。それゆえに、風水や五行云々をよっこしてもなお、よけい薬効の期待が大きかったということもあるのだろう。
そういえば、ヒトは、猫アレルギーを発症することはよくあるが、イヌアレルギーは稀だったと思う。(猫ヒロシはネコアレルギーなんだよね)
イヌは、猫よりはるかにヒトとの共存の歴史が長い。(日本だけに限っても1万2000年前から縄文人とイヌは共存していた。そしてそれ以前から、ヒトはイヌ肉を食っていた)
イヌと共存できない血脈の人々は、もしかしたら生存にかなり不利だったのかもしれない。
イヌは、ヒトの視線を理解できる素養を持つように進化してきた。そこまで、ヒトとイヌの関係は深く長かった。
ネコは、性質が温厚になるように淘汰されただけであって、イヌほどのヒト共存に特化した性質を持つには至っていない。
(ここしばらくロシアで「キツネを代々温厚に淘汰したらイヌっぽくなったよ」という実験が行われているよね。ネコが経たのはたかだかその程度の淘汰ではないかと思える)
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【医療人類学と文化人類学の集い】
03月29日【札幌】文化人類学会/北海道民族学会 研究会 「医療人類学の近未来を語る」
その余談:
●メインは 『 医療人類学のレッスン 』
●印象は、マイウェイの巣窟。
●男性は売れない文系ファッション。女性はスラッとたおやかなフェミニンスーツが多いという、妙にコントラストが強い面々だった。
(ちなみに、児童心理学は教師ルック、地学は男も女もアウトドア系チェックシャツ、物理学はピンストライプ、防災科学は役員的背広、進化生物学は自由気ままの個性派ファッション)
池田さんは、どこで買ったんだろう、あのチョッキ。色が好きだ。
●突き詰めた方策はともかく、「医療人類学」という看板のキャッチーさは、現実に切り込む方便としてけっこういい線は行っていると思う。あとは「医療」に流されない強いトロイの木馬兵士であれる素養を、個人が持つかどうかだ。
個人の素養。
ゲームを楽しめる遺伝子を持っているか否かしだい。
こういう行動遺伝的な文脈(アナロジーではない)であれば、堂々と遺伝子をからめて語るがよい。
●「正義は、特定の状況の中でしか成立しない」そういう言説を目の当たりにするとほっとする。
「正義を突き詰めるのだ」と謳いあげる遺伝学者や、「なぜ不平等を是正しなければならないのかわからない」とおっしゃるIT関係者さんなどに、ぞっとさせられることが少なくない今日このごろ。
●花渕さんのアパシーっぷりとナルシスティックなファッション、そして、いざつっこまれるとしどろもどろに声が小さくなるという、ものすごくあからさまにおいしいキャラがたまらない。「現実」を装ったゲームをプレイする素質には欠けるかもしれないが、プレイするというポジションではなく、耽溺した存在として見た場合、この人を主人公にすると、えらい面白い物語が書けそうな気がする。
●「池田先生と太田先生の話以外は何を言いたいのか、何を質問したいのかさっぱりわからなかった」と言っていた男子学生二人。何がわからなかったのかをひとしきりうかがってみたい。
モノカルチャーに毛がはえた程度の若輩者であるがゆえに、異分野上の文脈がとれないたぐいのわからなさを嘆息していたのか。それともその学生は、文化人類学の奥義はしかと踏まえており、最も肝要たる芯とは別の次元の論をぶたれてもさっぱりだ、とすなおに吐露なさっていたのか。
● 一方的なプレゼンに、根回しや面識のない異分野からの吐露や疑問をぶつけられても、まあ、ヨソで見てきたたいがいの異分野交流場と大差ない消化不良と「こんなことがあったんですよ!ええっそんなことがあったんですか!?」的な意見交換以前の情報交換に終始してしまう。
ふだんからおりおり情報を交換しておける場としては、今はMLも機能不全なのだろうか。
もしくは、このようなあらたまった場を催さないと、接触する機会もないままに終わってしまったはずの人々が集まりなさっていたんだろうか。
クローズドのSNSでも、よほど積極的な動機がなければ、コンスタントな論議は無理だろうし、ゆるいつながりで水準以上の者のみが(ようするに素人お断り)見解を発信・応酬できる場というのは・・・
なんでもつないでくれるネットであるように見えながら、実際は逆にネット上ではそのような生産的かつ自由な場というものは構築しづらいのかもしれない。