minimamoralia

2008-01-13

群論 04:11

緑いろの毒蛇の皮のついている小さなナイフを魔女から貰わなくとも、すでに魂は関係それ自身になり、肉体は物それ自身になり、心臓は犬にくれてやった私ではないか。(否、もはや「私」という「人間」はいないのである。)*1

 この一文に痺れた18歳の僕は、その日から「僕」と書くことをいっさいやめた。僕は私になった。

 ただ、それでも何かが足りなかった。というよりは何かが多すぎた。サイズの合わない大きな靴を引きずりながらよたよたと歩いているような気がしていた。私は、いかにも18歳にありがちなように、私が嫌いだった。私がどうにも不恰好なものに思えてならなかった。私は、みすぼらしい私のことばかり考えていた。つまり、それもまたいかにも18歳らしく、私は私が好きだった。とにかく私は私以外の何ものかでありたかった。

 しかし、まあ、そんなことはどうでもよろしい。

 『復興期の精神』では「私」で統一されていた花田清輝の一人称は、のちに「わたし」と書かれるようになり、それは終生続くことになる。それと同時に『復興期』を覆っていたある種のロマンティシズムは後方に下がり、かわりに乾いた、わかりにくいユーモアが前面に立つ。以下の文章は先に引用した文とほとんど同じことをいっている。

しかし、生活とはなにか。たとえば、わたしの、家庭生活とはなにか。わたしという物体と、わたしという物体を分離した物体と、わたしという物体と結合した物体と、わたしという物体とを結合した物体の、さらに分離した物体との単なる運動や静止にすぎないではないか。一言、ことわっておくが、これらの物体は、わたしと同様、すべてことごとく、みずからを物体から区別している物体によって支配されている物体であり、わたしという物体とのあいだには、原則的には、支配、被支配の関係はない。*2

 ここで花田は、もちろん物象化、あるいは疎外について語っているのだけど、しかし、一般に語られる疎外論と大きく異っているのは、「原則的には、支配、被支配の関係はない」というように、疎外と不平等や搾取、悲劇といったものを直接には結びつけていないことだ。この場合の「疎外」とはほんらい「慣れない状況におかれる」という"Entfremdung"というドイツ語を翻訳したものだ。そして、その言葉をさらに分解すると、「他者のものにする」ということになる。つまり、花田はわたしの生活とは「他者」のものであるといっているとも読める。

 で、疎外論のご本尊であるマルクスにしたところで、疎外そのものを悪とみなしているわけではない。

すなわち動物はただ自分自身を生産するだけであるが、他方、人間は全自然を再生産する。(中略)…人間はそれぞれの種属の基準にしたがって生産することを知っており、そしてどの場合にも、対象にその固有の基準をあてがうことを知っている。だから人間は、美の諸法則にしたがってもまた形づくるのである。それゆえ人間は、まさに対象的世界の加工において、はじめて現実的に一つの類的存在として確認されることになる。この生産が人間の制作活動的な類生活なのである。*3

 つまり、人間とは、何かを生産し、それを他者に手わたすことによってはじめて類としての人間になるということだ。私にとって慣れないものを生み出し、それをわたしていくことによって、人間は人間として生きていく。それを関係といい、その関係の総体を世界という。マルクスはただ、その生産と、それがつくりだす関係といった世界そのものが、ひとりひとりの意思とは別の何か、だれかによって奪われていくことを批判したのだ。

 だから、花田にとって私は「わたし」と書くべきものであった。一個の物体である私を超えたところにある、関係の中に生きるわたしこそが花田の考える人間だった。

 こうして、この私もわたしになった。それで何らかの問題が解決するわけもないのだけど、わたしは、何か楽になったような気がした。 

 いったん、このわたしから、このわたしの一部を切り取ってみる。それは、たぶんこのわたしにとっても見慣れないものだ。このわたしは、そのわたしを、あなたに、世界に手わたしするために差し出して、祈るような気持ちで送り出す。うまくやれよと。

 そのわたしは世界に出ていく。このわたしを残して。そのわたしは、このわたしに代わって関係の海を漂っていく。そのとき、このわたしは気づくだろう。このわたしとは違うわたしがそこにいると。わたしわたされる関係のなかで、そのわたしはどんどん大きく強くなっていく。そして、そのわたし、無数にわたされ、無数にうけとられた、そのわたしたちの群れこそが、このわたしになっていくのだ。だから、わたしはいつも新しくなれる。新しく生きられる。

 その、わたしにすら見慣れぬわたしは、たしかにわたしのコピーであるはずなのだけれど、それが関係の海を泳いて戻ってくるときには、裏まで黒々と書きこまれていて、このわたしとはまったく違うものになっている。そして、このわたしは、それを受け止めるしかないのだ。

 わたしは、あなたに、他者に、世界にわたされてはじめてわたしになる。ここにいるこのわたしというものは、その参照点にすぎない。わたしは、あなたの、他者の、世界のなかにいる。

 それは単なる言葉遊びにすぎないか? そうかもしれない。しかしそれでもよろしい。それならばわたしは、生涯を賭けてそのただひとつの遊びをしてやろうじゃないか。それは、はたして愚劣なことであろうか。

復興期の精神 (講談社学術文庫)

復興期の精神 (講談社学術文庫)

*1:「群論」『復興期の精神』花田清輝、講談社文庫版、p105

*2:「物体主義」『花田清輝評論集』岩波書店、p64

*3:『経済学哲学草稿』カール・マルクス岩波文庫、 城塚登、田中吉六訳、p96-97、太字は書籍では傍点

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