minimamoralia

2008-01-20

優しさを欠いた愛 23:42

 げ、いしけりあそびの野郎(いつのまにか「さん」から「野郎」になっている)がとんでもない大ネタを投下して挑発してきやがった…。ひとがせっかく気分よく中学生的妄想にひたっているというのに(笑)。ネタ…ねえっす。あなたと違ってスペイン語素人だもん…。資料探すのも読むにも時間かかるのよ…。もー、今回は負け! あー、勝ち誇ったやつの顔が脳裏に浮かぶわ…。腹立つなー。いつか借りは返すから覚えとけよー(泣)。


 で、関係ない話だけど、この本をついに買った。

エルヴィス伝―復活後の軌跡1958-1977

エルヴィス伝―復活後の軌跡1958-1977

 原書で眺めてるし(あえて読んでるとはいわない)、今回は見送ろうかなーとも思っていたのだけど、やっぱり負けた。『ドゥルーズガタリの現在」と一緒に買ったので、袋が頭の上に落ちてくれば確実に即死できる。本来ならその前に財布が即死だが、さすが16日すぎのJCBさまは偉大だ。

 ま、値段も長さも内容も「特殊」としかいいようのないものなので、間違ってもひとさまにお薦めしようとは思わないのだけど、それでも、やはり、つきなみではあるが「感動的」としかいいようがない。

 ピーター・グラルニック(こっちが正しい発音なんだそうな、でもわたしのなかではギュラ先生と変換されるのだけど)によるエルヴィス・プレスリーの伝記の第二部にあたり、原題は"Careless Love"。どうして聖書の一部みたいな邦題になってしまったのかはよくわからないのだけど、邦訳者はそこに、合衆国神話を読み解くという意味をかけたのかもしれない。しかし、もしそうだとすれば、それは違うんじゃないかと思う。

 エルヴィスが兵役を終えて、1977年にその死を迎えるまでの道筋を、ギュラルニックは詳細なデータやインタビューをふまえて、丹念に描く。この時点でのエルヴィスは世間一般(特に日本)では、完全にクリエィティヴィティを喪失した、無惨なポップ・アイコンというイメージを被されているが、本書はそれには同意しない。なぜなら、この本は、エルヴィスの本質は最後まで失われることはなかったということを証明するために書かれたのだから。それはなにか。かれの声である。

むしろ、「兄弟すべてが手をとりあう」世界についてうたい、「どうか/ぼくの夢を/いますぐ/現実に」と叫ぶようにうたうエルヴィスの声に聞きとれる苦痛、確信、率直な表情が注意を引く。

その瞬間の意味を手際よく要約するすべはない。それはエルヴィスが形式上の限界をいっさい配慮しないというまれな瞬間の一つであり、全体を通して故意にざらつかせたエルヴィスの声は、最後までうたったテイクでは、どれを聴いても結びの曖昧な一音で危げにためらう。*1

 このようにギュラルニックは本書のあちらこちらで、エルヴィスの声が、声そのものが、なんらかの意味づけを拒否し、声そのものだけが聴くもののこころにそのまま、かれの喜びや苦しみをもそのままに、届いてしまうことを強調する。そして、その届いてしまうものについて、なにかを付け加えようとはしない。つまりギュラルニックはこの本において、エルヴィスの神話を読み解くことを拒否しているとしかいいようがないのだ。

 神話を、あるいは原型を読み解く。このテーマは合衆国におけるあらゆるジャンルの批評において、つねに中心的な作業として扱われ、それ自体がもはや神話的な存在と化している。ホーソーンやポーによるゴシック解釈。ケイジンによるモダニズム分析、フィードラーの開拓文学読解…、文学の分野に限っても、このようにさまざまなとびきりすぐれた脱・神話化の作業が重ねられてきた。しかし、このような成果もまた、それがすぐれたものであるがゆえに、またあらたな神話として引き継がれていく。

 ロック批評にこのような神話/メタ神話の物語を持ち込んだのは、間違いなくグリール・マーカスだ。ケイジンとフィードラーの圧倒的な影響下にあるかれの思索は、ミュージシャンたちの真摯な、あるいは気まぐれな表現にはっきりとした意味を与え、かれら自身ですら意図しえなかったストーリーを語った。後にロラン・バルトベンヤミンフーコーなどの理論を消化したグリールの文章は比類なき影響力を持った。それはいまでも変わることはない。Rolling StoneやAmazonのレビュー欄では、あまたのミニ・グリールたちが今日も得意のメス裁きで神話を想像/解体しつづけている。

 そこから脱却することができた批評家は、わたしの知るかぎりではふたりだけだ。そのひとりであるロバート・パーマーは、最後は北ミシシッピの片田舎の掘立て小屋で、ビール片手に上機嫌で手拍子を打ちながら死んでいった。そしてピーター・ギュラルニックはエルヴィスやサム・クックを聴きながら、毎夜さめざめと涙を流す老人になった。ギュラルニックは本書の最後で次のように告白するように記す。

しかし、どんなに暗い瞬間であってもエルヴィスは、誰とも違う音楽、誰とも違う人間性を最初にはっきりと示した、あの純真な透明性を維持してきたのだった。エルヴィスは自分の限界を誰よりも意識していた。最初に成し遂げようとしたことから自分がいかにかけ離れてしまったかに気づくことによって、自分の信念そのものが試された。しかし、疑念はあっても、失望はしても、何度と抱いた自己嫌悪はあっても、また、幻滅と恐怖があっても、エルヴィスは贖罪的変貌という民主的理想を信じ続けた。いまある自分の姿ゆえにではなく、こうありたいと思っているからこそ自分を受け入れてくれる一般大衆と自分がつながることを求め続けたのだった。*2

 ここに書かれているのは、どうして自分はこういう人間になれなかったのかという嘆きと後悔である。60のおっさんに「どうしてぼくはエルヴィスじゃないんだろう」と泣かれても困ってしまうのだけど、たぶんギュラルニックは正しいのだと思う。ジャンプスーツを着こんでドーナツを齧ることも、バスタブに漬かって"Don't Be Cruel"をうなることもできないギュラルニックは、その代わりにこの長い、長い本を書いたのだから。

 手を伸ばせば届きそうなところに真実、理想、革命、正義、光、愛、そのほかあらゆる善きものがある。しかしそれはかならずその手をすりぬけてどこかに行ってしまう。つねにわたしたちに残されるものは、いったんは抱きしめたかに思えた恋人のぬくもりを感じた、その瞬間の記憶だけだ。批評はたぶん、けっして手に入ることのない恋人にたいして永遠にラブレターを書き続けることなのだ。

 だから、あらゆるすぐれた批評は、かならずその最後に自らの無力を告白する。なぜなら、いったん掴んだように思えた意味は、その瞬間に生まれ変わって、またあらたな無意味として飛翔していくのだ。批評ができることは、その名の起源にふさわしく、その意味と無意味の流れのなかのどこかの位置に読点を打つ(crit)ことでしかない。しかし、それでいいではないか。もし、わたしが、愛するもののすべてを知ったと思ったとしても、それはやはり"Careless Love"でしかないのだから。

D

"Careless Love" Odetta

*1:p321

*2:p691

isikeriasobiisikeriasobi 2008/01/22 12:59 貴重なマエロの名曲を、酔っ払って紹介する(しかも中学生が!)というあるまじき光景を目にして、思わずカツをいれさせていただきました(笑)。今度は軽くて気楽なのを書こうと思います。

duke377duke377 2008/01/22 15:31 ま、マジレスすると、一連のバジェナートもののなかでも最高だったと思います。こういう音楽の芯をぐっと掴んだもので、いきなりコアなものに持っていかれる形で、その音楽と出会えたとしたら幸福だよねー。

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