minimamoralia

2008-01-26

愛を誓う 03:52

 のっぴきならない事情によって、ある街に赴いた。山並みが海岸線のすぐそこまで迫っている街だ。用件は小一時間ほどで終わり、帰りは車で駅まで送るという先方のご厚意を辞して、30分ほどの距離を歩いていった。急な下り坂を降りきると旧街道に出る。ついさきほどまで背中に感じていた山からの風が、こんどは潮の交じった海風に変わる。湯たんぽがわりの缶コーヒーをコートのポケットで握りしめながら、土曜日だというのにほとんど人のいないさびれた商店街を歩く。いままでにも何度か足を運び、まったく見知らぬ場所というのでもないのに、どことなく所在なげに、むしろうつろな気持ちでその街並みを、ときに立ち止まり、風で顔をしかめながら眺めていた。わたしはそのとき、この用件をわたしにおしつけた人が、この街に25年間で二度しか帰らなかった理由を考えていた。

 街は普段に変わらなかった。朝晩彼が散歩する時のままであった。茶舗の店先には、いつもの如く、額の広い番頭が前垂れ姿で坐っていた。

 将棋の好きな古本屋の主人は、相変らず盤の上にうつむき込んで将棋に余念がなかった。それから十銭ストアの売子たちは、今日も唇を赤く塗って、懶さうにぼんやり立っていた。しかし、すべてはよそよそしく、無関心な風景でしかなかった。これが四年も五年も、朝晩馴染んだ街の姿であろうか。行けば行くほど、街は白け渡って見えた。*1

 そう思っているうち、僕はふと一つの錯覚に捉えられた。自分は正気で、妻の付添いに来ているつもりでいるが、それは自分の思い違いであって、実は自分の頭は狂っていてこの病院に入れられここにこうして団栗を拾っているのではないかという気がしてくるのであった、そう思い始めると、この考えはいつまでも僕の頭について廻って、なかなか離れないのであった。*2

 小説家・上林暁の妻は、生活の辛苦から神経を病み入院する。上林は妻を気遣い、見舞い、付き添いつつも、もしかしたら自分自身もまた狂気に囚われているのではないかと自問する。そのとき、見慣れた街はかれにとってよそよそしいものでしかなかったのだ。なじんだはずのものに対する強烈な違和、知っているはずのものからはぐれてしまったことへの恐怖、そのとき上林は、この世界は、この街は、もはや自分の帰る場所ではないと感じていたのかもしれない。

 このように自分自身が風景から、世界から疎外されてしまったとき、その風景への、世界への愛はたやすく憎しみに変わるのかもしれない。かれはわたしにいっさいそういう話をしなかったし、そういうそぶりすら見せることはなかったのだけれど、この山と海が、山からの風と海からの風が、まるでからだを押し潰しそうに立ちはだかるこの街は、わたしが何度も夏にやってきたときの顔とは異って、かれに憎しみを覚えさせるものだったのだろうか。

定理二十五 われわれ自身とわれわれの愛するものについていえば、自分か自分の愛するものに喜びを与えてくれると想像されるいっさいのものを、われわれは肯定しようと努力する、また反対に、われわれかわれわれの愛するものを悲しませると想像されるようなすべてのものを、否定しようとつとめる。*3

 スピノザがいうように、愛と憎しみは表裏一体で、わたしたちが覚える喜びや悲しみとともに、ときに応じて入れ替わり、立場を変え、全肯定と全否定の繰り返しを繰り返すのだろうか。いったん心から愛したもの、心から愛したひとが、なによりも憎むべきもの、憎むべきひとに変わることがままあるように、わたしたちは、なにかをただ愛し続け、けっして憎むことのないように生きることは無理なのだろうか。


D

ぼくたちの愛が 恋人よ

永遠の真実であるように

これからもずっと

きみだけを愛していく

だから恋人よ きみもまた愛してると誓ってほしい

ぼくの魂の炎は永遠に燃え続けるから


ぼくの心はきみを愛し続けるように

きみに命じられたんだ

きみを幸せにすることがぼくの願いだ

きみをぼくのゴールまでつれていくんだ


ぼくはきみを永遠に愛していく

ぼくの残りの人生を通して

ぼくはけっしてきみから

きみの愛から離れたりしない

だから恋人よ きみもまた愛してると誓ってほしい

ぼくの魂の炎は永遠に燃え続けるから

"Pledging My Love" Johnny Ace

 初期デューク特有の過剰に甘いアレンジと、おおげさなまでにかけられたエコーの向こうから、ジョニー・エイスの声は、それでもいくぶんの苦さと辛さと深みを失なうことなく響いてくる。強い声だ。エイスが "Forever" と歌うとき、それが未来ある青年の誓いのことばというよりは、現世の愛に迷った亡霊のささやきのように聴こえてくるのは、エイスがこの曲の録音を終えたあと、ロシアンルーレットの事故でこの世を去ったという事実だけによるものではないだろう。ひとが生きることのできる時間も空間も超えた「永遠」という概念の核心をエイスの声が、本人も知らぬうちに、つかんでしまったからだ。

 だから、この歌の「誓い」はまるで暗闇のなかで交わされた約束のようにわたしには聴こえる。喜びよりは悲しみが、期待よりは諦念が、希望よりは絶望が、この若い恋人たちを待ち構えているように思える。しかし、それでも、かれらは愛と喜びに生き、憎悪と悲しみに生きることはないと誓うのだ。その誓いは、その行き先を知るものたちにとっては、深く、辛く、苦いものでしかない。それはむしろ狂気にも似ていないか。だからこそその苦さこそをわたしたちは祝福しなくてはならないのだろう。「ただ希望なきひとたちのためにのみ、希望はぼくらに与えられているのだ」と。

 かれが何を憎み、何を、そしてだれを愛していたのかわたしは知らない。知らなかったからこそ、わたしはかれにこの用件を託されたのかもしれない。わたしはただそれに従うだけだ。かれは弱さを見せることを極端に嫌っていたから、わたしも詮索することはなかった。だったら今回もその流儀にならうだけだ。それでもしかしたら、ひとつだけ、かれがひとつだけ望んでいなかったかもしれないことをするはめになってしまったのだけど。

 さて、いっぽうで、わたしたちの、もはや若くない恋人たちはどうであったろうか。上林は妻の入院する病院のミサに参列する。

 しかし僕が「如何なる基督教徒よりも基督教徒的でありたい。」と、心に噛み締めて呟いた時、僕はそれを具現すべき一つの目途が、心に浮んでいた。それは、もっと妻にやさしくしてやろうということであった。それによって僕は、「如何なる基督教徒よりも基督教徒的でありたい。」との願いを、果し得ると思った。……(中略)……この人間のために、もっともっとやさしく、もっともっと自分を殺してやれば、自分は基督教徒ではないけれど、彼等以上に基督教徒的であり得ないことはないはずだ。そうすれば、道はおのづから求められ、神はおのづから身を寄せてくるにちがいない……。*4

 狂気とぎりぎりのところで、上林は妻への愛を誓う。それはけっして無償のものではなく、上林が求め、迷い、もだえてまでつかもうとした、上林自身の喜びのためであった。愛するものを喜ばせるものを愛する。それが上林にとって暗闇のなかで聴こえた、妻への、そして自分自身への永遠の愛の誓いだったのだろう。たとえ、それがいつかは命とともに消え去っていくはかないものであるとしても。

 どこまでも続くかのように思われた寂しい旧街道は、もちろんそんなこともなく、やがて駅へと辿りついた。ほとんど待つこともなく電車がやってきた。車内は暖かかった。飲む機会のなかった缶コーヒーがポケットのなかで、痺れるほどに冷たくなっていた。

 ガレエヂの先まで行くと、町通りはもうおしまいだった。

 「この先を、どこまでもずうっと行ったら、どこへ行くのでしょうね。」遠い往還を見はるかしながら徳子が言った。*5

昭和文学全集〈14〉

昭和文学全集〈14〉

JOHNNY ACE

JOHNNY ACE

*1:「明月記」上林暁、『聖ヨハネ病院にて』新潮文庫、p126、書籍では旧字旧かな

*2:「聖ヨハネ病院にて」、上林、p227

*3:『エティカ』スピノザ、工藤喜作、斎藤博訳、中公ライブラリー、p212

*4:「聖ヨハネ病院にて」、上林、p247

*5:「明月記」、上林、p202

isikeriasobiisikeriasobi 2008/01/27 10:52 ジョニー・エイス、すばらしいですね…でも、20歳そこそこで永遠だの真実だのを歌ったしまった人にはバチがあたるんですかねぇ…

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