2008-02-05
■あたたかい
ヴィック・チェスナットの名を、現代の英語詩人を代表するひとりとして挙げるのは、持ち上げすぎというものだろうか。かれのことばには、それに値するものがあると思うのだけど。
あたたかい からだはあたたかい
筋肉がひきつり
態勢がその埋め合わせをする
つめたい 矢はつめたい
摩擦はなにも温めない
しかし的は純粋で
傷は安全だ
試行錯誤して
太陽を追い求める
それがぼくらがなすべき唯一のこと
きみを貫くこのガンマ線のメッセージとは何だ
終末はすぐにやってくると
かれらはいう
太陽を忘れ
月を敬意をはらえとかれらはいう
でもぼくらのピンホールの視界は
何であれ充分に翻訳できやしない
でも、何であれ、AでもBでも
ねえ、ぼくはそれでいいんだ
"Warm" Vic Chesnutt
もちろんかれの詩は、たんに書かれたことばとしてだけあるのではなく、かれのひきつって絞り出すような声、追いかけてくるこだまのようなギター、車椅子にあずけたねじったようなからだ、そういったものと一体となって、わたしたちのまえに現れるのであって、それはたしかに歌ではあるのだけど、一方でなにか、まだ歌になるまえのなにか、歌と名づけられるまえのなにか、歌として手わたされるまえのなにか、であるようにも思える。それは表現として成熟していないというのではなく、共感し、共鳴し、共有しようとするあまたの手をいったん振りほどいて、とりあえずは自分だけの力で歩きだそうとする瞬間の表出なのだろう。そして、わたしたちに、その瞬間を感じとらせるものは、やはりかれのことばなのだ。
かれのことばに現われるさまざまな摩擦が、意図された矛盾であれ、無意識に導かれた混乱であれ、わたしたちがやすやすと理解したり、好意を抱いたりすることを拒否する。もちろんひとつひとつの単語は明晰だ。ただその重なりがひとかたまりの明快な意味としてとらえられることを許さない。なぜ冷たさの象徴が矢であるのか。純粋な的とはいかなるイメージであるのか。太陽と月の対比は定石通りに生と死のメタファーであるのか。しかしチェスナットはそういった読みをひっくりかえすように最後にいう。「AでもBでも、ぼくはそれでいいんだ」。そしてわたしたちはまた、意味が意味になるまえの世界に放り出される。
わたしたちは意味が意味としてある世界に生きている。その意味が共有される範囲をわたしたちは社会といい、世界という。わたしたちは意味をことばに載せて他者に伝える。わたしたちはその行為をコミュニケーションと呼び、その行為の集積を文化と呼ぶ。しかし、その一方で考えてみると、だれかれとなく知れわたり、共有された意味というものは、もはや他者に伝えるべきものではないのではないか。あらゆる意味を共有しえた他者というものを、もはや他者と呼ぶことはできないのではないか。
もちろん、わたしは、わたしが意味するあらゆるものを、そのままあなたにわからせることはできないはずだ。できないからこそ、あなたはわたしにとって永遠にあなたであるのだ。それなのにわたしは、あなたが、わたしを、わたしの意味を共有してくれている、理解してくれているという、もしかしたらまったくの誤解でしかない期待にもとづいて、あなたに語りかける。ただ、それは、もはや伝えるべきものを失ない、伝えるべきひとを失なったにもかかわらず、鏡に向かって失なった意味をしゃべりつづけようとする、非(ディス)コミュニケーションでしかないようにも思える。そして、いま世界をずっと見はるかしてみると、わたしたちは、わたしとあなたがまるで同じ人格であるかのように、ほとんどすべてを共感し、共鳴し、共有しようとしている。みんなおなじなのだ。そこにはもはや他者はいない。そこにはもはや理解を阻むなにものもない。ならば、そこにはコミュニケーションもありえない。こうして世界はディスコミュニケーションによって埋めつくされた。あらゆることばは独り言になった。それがよいことなのかわるいことなのか、わたしには判断がつかないけれど(でも、やはりわたしはそれにノーという、だってわたしはアカだから)。
詩人は、そのディスコミュニケーションを、たったひとつのことば、たったひとつの連なりでひっくりかえす。詩人によって、わたしたちがすでに知っていると思っていた意味は、その意味を奪われ、わたしたちは、またその意味を取りかえすために話し始めなくてはならなくなる。詩人がつねにスキャンダラスな存在であるのは、このように詩人のことばが意味を、社会を、世界をひっくりかえす可能性を秘めているからだ。
しかし、そのことによって詩人をモラルに反するものと呼ぶことはできない。モラルというものは、固定させられ、静止させられ、所有された意味や社会や世界をそのまま肯定することではないからだ。世界でもっとも尊敬されるモラリストはいう。
喪失は変化にほかならない、これが宇宙の自然の喜びとするところなのだ、その自然に従って万物は(うまい具合に)生起し、永遠の昔から同じ形の下に生起し、永遠に至るまで他の同様な形の下に生起して行くであろう。しかるに君はなぜいうのか、すべては具合悪くできており、これからもつねに具合悪くあろうし、神々がどんなに大勢存在しようとも、これを正す力は彼らの中に結局見出されなかった。世界は絶えざる悪に悩まされるべく定められているのだ、と。*1
同様に20世紀の高名なモラリストはこのように書いた。
習慣は偶像(イドラ)のようなもので、イドラが力を持つのは、われわれが、それに服従しているからだ。ここではわれわれを欺いているのは思考の方だ。なぜなら、考えることのできないことは、また行なうこともできないように見えるから、人間の世界が想像力によって牛耳られているのは、想像力はわれわれの習慣から自由になれないからだ。だから、想像力は創り出すものではないと言わねばならない、創り出すのは行動である。*2
モラリストたちは、このように変化と行動を肯定し、固定した意味に覆われた世界を退ける。わたしはけっしてモラリストではないけれど、かれらの生成と変化への意思を、また自らのものとしたいと思う。そして詩人とはそのモラルのモラルたるところ、生成と変化を仕事として司るひとびとなのだ。あらゆる詩人は、かれらが望むにせよ望まぬにせよ、なんらかのかたちでモラリストであることをまぬがれない。
ここまで考えてきて、あたたかいものとはなになのか、すこしだけ見えてきたような気がしてきた。生まれたてのもの、まだ名のないもの。ひきつってピクピクとうごくもの。矢によって的にされて、安全にされるまえのもの。太陽の灼熱も、月の冷気もその温度を奪うことのできないもの。まだ意味がないからどちらでもいいもの。それらはみなあたたかい。そのようにチェスナットは凍えるような声で歌い始めている。その冷たい吐息だけが世界に温もりを与えるのだといわんばかりに。
- アーティスト: Vic Chesnutt
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- 発売日: 2007/09/11
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