minimamoralia

2008-03-14

希望なんか埋めてしまえ 05:12


そう、やつらは街を引き裂き、野を燃やし

犬たちを森に放った

やつらは十字架を取り出して

でも、三巻目がなくなっちゃったんだ

せっかく映画が面白くなってきたところだったのに

闇が這いよってくる

夏は失われる

いまはもう池はすっかりさらわれて

冬のすべてが閉ざされた色に塗られてしまったよ

それでも霜が、すべてのものを温めてくれるさ


きみはぼくになにも求めなくていいよ

ぼくはいつだってきみを喜ばせるものになるさ

きみはなにも残していくことなんかない

ぼくはいつだって愛しているよ、ルイーズ


以前にも見ていたんだよね、聞いたともいってた

涙や雨ほどの価値もないって

取っておくような価値のあるものはなにもないし

売り払ってしまうほどのものもない

それでもきみはそれを列車の座席と引き換えてしまった


きみの呼吸が目に映る

膝頭に垂れ下がって

それからカラスのように上昇していく

きみは人生を求めてジャンプするんだ

木のなかのきみの場所から

でもきみはただそれを眺めて、うまくやってくだろう


きみはぼくになにも求めなくていいよ

ぼくはいつだってきみを喜ばせるものになるさ

きみはなにも残していくことなんかない

ぼくはいつだって愛しているよ、ルイーズ


きみはぼくをひとりで

この闇の後の世界に送り込むんだろう

イースターの服を着たぼくを横たえて

それとも祈りを捧げるぼくの友だちに送り付けるのかい

少なくともひとつくらいはぼくのために取っておいてくれ


きみはぼくをきみのたったひとりの男にもできるし

きょうこうして置き去りにもできる

そしてもう手紙を送ることもしないだろうな

ぼくはたぶんこの道をたどって

きみのところへは行けないだろう

でも、ぼくはいつだって

きみのところへたどりつけるよ


きみはぼくになにも求めなくていいよ

ぼくはいつだってきみを喜ばせるものになるさ

きみはなにも残していくことなんかない

ぼくはいつだって愛しているよ、ルイーズ

"Third Reel" Joe Henry

道の灯りは消してしまえ

玄関の灯りはそのままで

大声で叫ぶんだ

だれであれきみの隣りにいる人のそばで


いままでに夢見てきた

どんな希望も埋めてしまえ

犬が嗅ぎつけられないほどの深さまで

きみの縫い目からほつれた糸が出てる、愛さ

そして炎がきみのガウンを包み込んでしまうんだ


こんどはぼくがいけなかったというのなら

きみがここにいてくれたのなら

ぼくがあと半分ほどでも強かったのなら

今夜だけでもいいから

1マイルが半分の長さだったのなら

ぼくはここから歩いていけるのに

ぼくはここから歩いていけるのに


きみの名前を読んでみる

からっぽになった空き地で

裏切ってしまうのなら

それを愛だなんて偽らないでくれ

一瞬でもそんなふうに思わないでくれ

ぼくもしない


背中からもたれかかっていくぼくを

きみが受け止めてくれるのなら

ぼくはもたれかかっていくさ

ぼくはいまでも線路の上に立っている

きみにぼくの死角を見せたまま


こんどはぼくがいけなかったというのなら

きみがここにいてくれたのなら

ぼくがあと半分ほどでも強かったのなら

今夜だけでもいいから

1マイルが半分の長さだったのなら

ぼくは歩いていくさ

ぼくは歩いていくさ


ぼくがきみの声に自由を聴き取ったときは

それはぼくの耳の中で鳴り続けてるのだけど

ぼくは自分で、そこにいるみんなのために

「余り者のダンス」をかけよう


そして自分に言い聞かせるんだ

きみがけっしてしなかったことすべてを

ぼくは許すんだと

きみがけっしてできなかったことすべてを


こんどはぼくがいけなかったというのなら

きみがここにいてくれたのなら

ぼくがあと半分ほどでも強かったのなら

今夜だけでもいいから

1マイルが半分の長さだったのなら

いまごろは家にいるのに

いまごろは家にいるのに

"Buckdancer's Choice" Joe Henry

 1993年にジョー・ヘンリーが発表したアルバム、"Kindness Of The World" から、いつもわたしがシラフでふむふむと歌い、酔っぱらってガナっているふたつの歌、"Third Reel" と "Buckdancer's Choice" の2曲です。わたしにとってこのアルバムはあらゆる音楽のなかでも、けっして一番好きというわけではないにせよ、もっとも大事なアルバムのひとつでありつづけています。


 はじめて "Third Reel" を聴いたとき、そのタイトルの意味がわからなかった。スリーブにある歌詞も読みづらく、読んでみても「かれらがなくしてしまったサード・リール」とは何なのか見当もつかなかった。侵略者の軍隊なのか、あるいは怪獣かなにかか、とにかく大した映画ではないだろう。その映画が突然終わる。そう、続きのフィルムの三巻目がなくなってしまったのだ。ちょうど面白くなってきたところなのに。何の前触れもなく映画は終わる。世界は終わる。終わったあともわたしはそこに残されて、何かわからないことをブツブツとつぶやいている。フィルムと同じように夏もなくなってしまう。閉ざされて何もなくなってしまった世界で、霜だけが世界を温めている。わたしはそのイメージに完全に引き込まれてしまった。

 わたしは、この曲と同じイメージをそれまでに本のなかで二回見た。ひとつは小学校4年生のとき、なぜか家にあった『水滸伝』90回本のラスト、廬俊義が夢の中で処刑され、はっと目覚めて視線の先に「替天行道」の額を見るシーン。もうひとつは大学2年の5月、ただひとりわたしに目をかけてくれた教授に渡されたある小説を読んだとき。あえて原文でひこう。なぜなら、そのときわたしが受けた衝撃は英語で伝わってきたからだ。あ、あのときの廬俊義と同じだと。何もかもがいきなり終わってしまったんだと。わたしが初めて英語をそのままイメージとして焼きつけることができた瞬間だった。

Stunned, he let her go and she lurched forward again, walking as if one leg were shorter than the other. A tide of darkness seemed to be sweeping her from him. "Mother!" he cried. "Darling,sweetheart,wait!" Crumping, she fell to the pavement. He dashed forward and fell at her side, crying, "Mamma. Mamma!" He turned her over. Her face was fiercely dissorted. One eye, large and starning, moved slightly to the left as if it had become unmoored. The other remained fixed on him, raked his face again, found nothing and closed. *1

 世界が終わる。突然終わる。わたしはそこに残されて生きなければならない。人生のクライマックスを迎えることなく、そのままからっぽになった生を、わたしは生きなくてはならない。

 わたしはすでに終わった世界を生きていかなくてはならない。それがわたしがずっと抱え込んでいた、そしていまもそのまま持ち続けている妄想だ。世界は突然終わる。暴力によって、ことばによって、夢によって。現実によって。終わる、とにかく終わる。ただ、このわたしだけは、その終わりによって終わってしまうことはない。

 もちろん、わたしはいつもそんなことを考えて生きてきたわけなどないし、そういう妄想だけに取りつかれて音楽を聴いてきたわけじゃない。わたしはひとに「どんな音楽が好きですか?」と問われたときに、たいていこう答える。「えーっと、襟のでかいシャツを着たおっさんとその予備軍が歌っている歌」。これでサルサもブルースサザン・ソウルもトラディショナルソングもたいていは納まる。こういった音楽は、わたしに、わたしの視界が届かない遥か遠くの世界を見せてくれる。わたしがわたしとして生きていない世界をわたしに与えてくれる。わたしにとってまだ終わっても始まってもいない世界を知らせてくれる。わたしに別の世界をもたらしてくれる。こんなにありがたいものはない。わたしはそっちで生きたい。

 ただ、わたしは、そこに生きていない。襟のでかいシャツなんて持ってないし。

 わたしは、わたしが生きたいと願う世界に生きることができない。白いごはん毎日食べてるし。

 わたしは終わってしまった世界にだけ生きている。毎日とくに何も考えず働く。だれも笑ってくれないダジャレを言いながら。

 ジョー・ヘンリーがわたしに見せてくれたものは、わたしが生きている、その世界だった。その、終わってしまった、なくしてしまった世界に、そのあとでひとりぽつんと、あらゆるものから離れてしまったままで、それでも世界を欲しがってさめざめと泣いている姿だ。わたしとは違うひとが描いたわたしの自画像だった。そんなもの音楽に求めたことないのに。

 わたしの音楽の聴き方は、たぶんふつうの人たちとは違うと思う。それは別に逆立ちして聴くとか、あるいはほかの人とは違った感性で聴いているとかということではなく、単に左耳がよく聴こえないので、ヘッドホンやイヤホンを使うことができないということでしかないのだけど。要するにわたしは一歩家を出たら自分の好きな音楽を聴くことができない。あとは脳内再生に頼るか、自分でその歌を口ずさむしかないのだ。

 だから覚えるしかない。どうしても家にいるときに聴き込んで覚えないかぎり、わたしはわたしの好きな歌とともに日々を過ごすことができないのだ。頭の中で鳴らしているとき、わたしはたぶんぼーっとした表情でふらふら歩くどこか覚つかないひとに見えるだろう。その音を口に出したとたん、わたしはほかの人に対して異物になる。いきなり歌い出す、どうみても怪しいおっさんの出来上がりだ。

 でも、そうでもしないかぎり、わたしはわたしの愛するものとともに日々を生きることができない(このくやしさがイヤホンのコード垂らして歩いてるあんたらにわかるか?)。歌いたくて鼻歌歌ってるんじゃない。鼻歌でも歌わなきゃやってけないから歌ってるんだ。そのためなら怪しいおっさんにでも何にでもなるさ。

 だから、どうしても気楽な歌ばかり好きになるのだけど、できるのならば呑気に気楽に生きていたいと思うのだけど、やはりそうはいかないのが実際のところだ。わたしはわたしに似ているものなんて嫌いだ。そんなもん邪魔だしなにより醜い。わたしはわたしじゃないものが欲しい。たとえそれとともに生きることができなくても。だから、わたしは「ああ、この歌の気持ちがわかる!」なんてことは思わない。共感はしても、それをわたしだなんて思わない。ただ、そこに聴こえてきたもの、そこに見えてきたものが、わたしそのものであるようならば、やはりそれを受けいれるしかない。

 で、わたしはきょうも歌う。"Third Reel"を歌う。"Buckdancer's Choice"を歌う。"She Always Goes"を"Kindness Of The World"を、周りの人に聴こえないように小声で、たまに大声で。終わってしまった、実のところは最初からあったのかなかったのかすらよくわからない世界を懐しんで歌う。わたしがいつもあなたをよろこばせるひとであるように願って小声で歌う。新宿からちょうど1マイルくらいの家に酔っぱらって帰るとき、この距離が今夜だけでも半分であったらなぁと千鳥足でよたよたと歩きながら大声で歌う。怪しいおっさんはきょうも歌う。もう半分だけでいいからもう少し強かったらと。だれに聴かせるというのでもなく。

*1:'Everything That Rises Must Converge' Flannary O'Conner,"THREE By Flannary O'Conner",Signet Classics,p284

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/duke377/20080314/1205439150