minimamoralia

 | 

2008-04-13

18:26

 どうもありがとう。

 いま、わたしはみなさんのロールモデルとして、ここに立っています。バート・ピーターソン市長のお招きによるものです。そしてこの機会を与えてくださったことを神に感謝しています。

 これがナイスでなかったら、なにがそうなんでしょうか。

 わたしは、ある三年間のことを考えていました。第二次大戦の間のことです。その間、わたしは二等兵から伍長になりました、ナポレオンアドルフ・ヒトラーと同じ階級ですね。

 わたしは実のところ、カート・ヴォネガット・ジュニアなんです。で、わたしの子どもたちが、もうわたしと同じように中年の終りにたっしているんですけど、わたしについてごちょごちょというときにはいまだにこう呼ぶんです。「このジュニア。あのジュニア」って。 

 でも、サウスメリディアンとワシントン通りの角にある、エアーズ大時計を見るときには、みなさん、どうかわたしの父のことを気にかけてください。カート・ヴォネガット・シニアです。かれがそれをデザインしたんです。それからさらにいえば、かれとかれの父親、バーナード・ヴォネガットは、やたらと多くの建物を造りました。かれはオーチャード学校と児童美術館の創設者でもあります。

 かれの父、わたしの祖父である建築家のバーナード・ヴォネガットが造ったもので、いろいろありますけど、「アテニューム」があります。第一次大戦の前には「ドイツ館」と呼ばれてたんです。どうして「アテニューム」なんて名前に変えられてしまったのか想像もつきません。だってグリーク―アメリカン形式に媚を売ったような代物だったんですから。

 みなさんは、わたしがポールモール煙草の製造者を訴えていることをご存知かと思います。だって、それはわたしを殺してくれなかったんですよ。で、わたしは84歳になってしまいました。聞いてください。わたしは第二次大戦、わたしたちが最後に勝ったやつですね、のあと、シカゴ大学で人類学を学びました。ある形質人類学者、人骨を何万年も遡って調べるやつですね、がいうには、わたしたちはせいぜい35年かそこらくらいしか生きられないんだと。なんでかというと、近代歯科学なしでは、わたしたちの歯はその程度しか保たないんだと。

 古き良き時代のことというんではないんです。35年。わたしたちはそこからやってきました。インテリジェント・デザインの話をしてるんですよ! いまや、歯医者や健康保険を賄えるすべてのベビーブーマーたちは、何とも可哀想なことに、100歳まで生きようとしています。

 たぶん歯医者を非合法化すべきなんです。それから医者に肺炎、昔は「老人の友」と呼ばれてました、の治療を止めさせるべきなんです。

 しかし、今夜わたしがしようとしているたったひとつのことは、みなさんを憂鬱にするでしょう。ですから、今夜わたしたちがすることが、まったくもって楽天的になれるような、ある考え方をわたしはしたいと思います。すべてのアメリカ人が、共和党員だろうと民主党員だろうと、金持ちでも貧乏でも、ストレートでもゲイでも、わたしたちの国がこんなにも悲劇的かつ暴虐的に引き裂かれていようとも、受け入れられるような、そういう宣言ができるんだということです。

 まず第一に、アメリカ人の普遍的な感情としてわたしが挙げるのは「砂糖は甘い」ということです。

 アメリカ合衆国の悲劇的かつ暴虐的な分裂については、とくに目新しい話はありません。とくに、ここ、わたしの生まれた州であるインディアナにおいてもです。わたしがここで子どもだったころ、この州はク・クラックス・クランの全国本部の管轄内でした。メイソン・ディクソンラインの北側で、最後にアフリカン・アメリカンへのリンチが行われた場所でもあります。マリオンだったと思いますが。

 しかし、テル・オート、いまや「美術の国」と致死的な注射の施設を自慢していますが、には、労働者の指導者であったユージン・デブスの生家と住まいがありました。いまもあるはずです。かれは1855年から1926年まで生きて、全国的な鉄道ストを指揮しました。第一次大戦への参戦を拒否して投獄もされました。

 かれは数回大統領選挙にも出ています。社会党からの推薦で、こんなことを言いながら。「一方で下層階級とされる人たちがいる。わたしはそのなかのひとりだ。一方で犯罪分子とされる人たちがいる。わたしがそうだ。一方で牢獄に繋がれた魂がある。わたしは自由ではない」

 デブスはとてもたくさんのことをジーザスクライストから盗みました、しかしそれはまったくもって独創的なものです、その話をわたしに聞かせてください!

 しかしですね、すべてのアメリカ人が同意できる宣言の話はどうしたと? 「砂糖は甘い」。確かに。しかしながらわたしたちは大学の施設にいるのですから、もう少し何か文化的に重みのある話にしてみましょう。で、これがわたしの提案です。「モナリザレオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれて、パリのルーヴルに吊る下がってる絵は、完璧な絵画である」

 OK? 挙手してください。同意できませんか?

 OK。手を下げてください。投票は満場一致でした、といいましょう。モナリザは完璧な絵画であると。たったひとつ困ってしまうことというのは、実際のところわたしたちが信じているすべてのことに当てはまるのですが、それは真実ではない、ということです。

 聞いてください。かの女の鼻は右に傾いてるでしょう? OK? ということはかの女の顔の右側は平べったく後退して、わたしたちから遠さかっていくわけです。OK? しかし描かれているかの女のそっち側には、三次元的効果を与える、何の短縮法も使われていないのですよ。レオナルドはそんな短縮法などやすやすと使えるはずです。単に怠けてやらなかったんでしょうか。もし、かれがレオナルド・ダ・インディアナポリスだったなら、わたしはかれのことを恥だと思うでしょうね。

 かの女がやぶにらみであることも不思議ではないわけです。

 いま、どなたかがわたしに質問したいようですね。「真面目だったことがあるんですか?」。答えは「ノー」。

 1922年の11月11日に、わたしがメソジスト病院で生れたとき、この街は、いまのバスケットボールやフットボールのチームがそうであるのと同様に、人種の分離状態にありました。産科の先生はわたしのちっちゃなはじっこを叩いて、わたしの呼吸を始めさせました。で、泣いたのかって? ノー。

 わたしはいいました。「おかしなことが産道を下っている最中に起こったんですよ、先生。乞食がぼくのところにやってきて、もう三日も噛まれてないっていうんです。だからぼくはかれに噛みついてやりました!」

 まあ、真面目にいうなら、わたしの友人のインディアナっ子が、今夜いいニュースと悪いニュースがあるという。史上最高だし史上最悪だと。何がそんなに新しいのか?

 悪いニュースってのは、火星人マンハッタンに着陸して、ウォルドーフアストリアにチェックインしたと。で、いいニュースは、連中はあらゆる色のホームレスだけを食べて、ガソリンの小便をするんだと。

 わたしは信心深いのかって? わたしは組織されない宗教を実践しています。わたしは聖ではない混乱に属しています。わたしたちは自分たち自身を「われらが永遠の仰天の淑女」と呼んでいます。わたしたちは50パーセントのローマカトリックヘテロセクシュアルな聖職者たちと同じくらい独身主義です。

 実際のところは、わたしがこんなふうに右手をホールドアップしたときというのは、ふざけてなんかいないということです。わたしはわたしの名誉ある言葉を、わたしが言おうとしていることが真実であるとするために与えるのです。実際に、わたしはアメリカ・ヒューマニスト協会の名誉総裁なんですよ。いまは亡き偉大なSF作家、まったくもって役割を超えた能力を持つ人であったアイザック・アシモフから引き継いだものです。わたしたちヒューマニストは、死後に何の報いも罰も期待することなく、わたしたちのできることをやっていくのです。わたしたちは、たったひとつの抽象概念に対してのみ、全力を尽くして仕えるのです。それはわたしたちの真の家族性にたいしてです。わたしたちのコミュニティにたいしてです。

 わたしたちは死を恐れません。あなたたちもそうでしょう。ソクラテスは死について言いました。もちろんギリシャ語で? 「死とはもうひとつの夜にすぎない」

 ヒューマニストとして、わたしは科学を愛しています。迷信は嫌いです。それがわたしたちに原子爆弾を与えることはなかったのですが。

 わたしは科学を愛しています。わたしたちに、この地球をゴミ屑にする手段、そんなものは好きじゃないですが、を与えてくれたという理由だけでなしに。科学はわたしたちに、わたしたちの最も大きな疑問の二つに対する答えを見つけてくれました。どのようにして宇宙は始まったのか。そして、どのようにしてわたしたちや、ほかの動物はこんなに素晴らしい身体を手に入れたのか。目とか脳とか腎臓とか、そういったものを。

 OK。そうです、科学はハッブル望遠鏡を贈ってくれました。それは時の始まりからずっとの、光と不在を捕捉します。望遠鏡はほんとうにそうするんですよ。そしてわたしたちは知ったのです。そこにはかつて、まったくもってなにもなかったのだと、完全になにもなかったと、なにもないということすらなかったと。そんなこと想像できますか? できないでしょう。そこには想像するなにかもなかったんですから。

 しかし、そこに偉大なビッグ・バーーーン!がありました。そしてそこから、こうしたいろんなたわごとが出てきたんですよ。

 

 そして、どうしてわたしたちは、こんなに素敵な肺やまつげや歯や足爪やケツの穴やらなにやらを手に入れたのでしょうか。何百万年にもおよぶ自然の選択によってです。一匹の動物が死ぬとき、別の一匹は交尾しているのです。最適なものが生存するのです!

 しかしですね、もしあなたが、偶然にせよ目的あってのことにせよ、だれかを殺さなくてはならないときは、それはわたしたちの種を向上させることにはなりますけど、そのあとに交尾はしないでくださいね。そうすると赤ちゃんができてしまいますから。お母さんが教えてくれなかったかもしれないけど。

 で、そうです。わたしの友人のインディアナっ子のことですね、わたしもそのなかのひとりであることを拒んだことはありませんが、実際問題、これは黙示録なのです。ずべての終わりなのです。神聖なる聖ヨハネと、ヴォネガットなる聖クルトが予言してるのです。

 わたしは気候の変化によって、まさに飢えて死のうとしている最後の北極熊についても語っているのです。それはわたしたちについても同じことですね。ほんとうに北極熊を可哀想だと思っています。かれらの赤ちゃんは、あったかくて抱きしめたいほどかわいらしくて人を信じやすい。わたしたちの赤ちゃんみたいに。

 このような恐るべきトラブルの時代を生きる若者たちに、この年老いたまぬけが何かアドバイスなどあるのでしょうか? ええ、わたしは、このわたしたちの国が死刑制度を持っている唯一のいわゆる先進国であることを知ってます。懲罰房もね。なんでそんなものがほっつき回ってるんでしょうね。

 でも、聞いてください。もしだれかが、たとえばテル・オートのような致死的な注射施設のなかで、ストレッチャーに乗せられていたとしたら。そしてかれの最後のことばが、「きっとわたしにレッスンをしてくれるんだよ」というようなものだったとしたら。

 もし、ジーザスがいま生きているのなら、かれはその致死的な注射で殺されるでしょう。わたしはそれを進歩と呼びます。わたしたちはかれを、最初のときにかれが殺されたのと同じ理由で殺さなくてはならないでしょう。かれの考え方がリベラルすぎる。

 わたしの、これから書き始めようとする作家たちへのアドバイスですって? セミコロンを使うな! それらは服装倒錯の両性具有で、まったくもってなにも表象していないんです。それらがあなたにいえるすべてのことってのは、大学には行ったほうがいい、というくらいですよ。

 さあ、最初はモナリザで、いまはセミコロンです。わたしは、カール・マルクスについてなにかいいことを述べるという、ワールドクラスの気違いだとの評判にだってしがみつきますよ。この国では一般的に、インディアンのいない場所では間違いなく、今まで生きてきた人間のなかでもっとも邪悪な人だと思われてるんですからね。

 かれはコミュニズムを発明しました。わたしたちはずっとそれを嫌うように教えられてきたわけです。だってわたしたちは、ウォール街でカジノと呼んでいる資本主義をこんなに愛しているんだから。

 カール・マルクスが夢見たコミュニズムとは、人々の、とくに子どもや老人や障碍のある人たちの、面倒をちゃんと見るように、産業化された国家をつくっていくということです。産業革命がそれらを散り散りにしてしまう前にはちゃんとあった、部族や拡大された家族がそうしてきたように。

 わたしたちはコミュニズムの悪口をそんなにいうのを止められるくらいには賢いのだと、わたしは思っているのです。別にそれがいいアイディアだからというんじゃありません。わたしたちの孫やその孫たちがかれらの目玉を共産党中国に質入れしてるからですよ。

 中国共産党は巨大で驚異的に整備された軍隊を持ってます。わたしたちはそんなもの持ってない。わたしたちは安っぽすぎる。わたしたちみんなが核武装したいくらいですよ。

 しかし、いまでも多くの人が、カール・マルクスの最も邪悪なことは、かれが宗教についていったことだといいます。かれはそれを下層階級の阿片だといったのです。かれはそれを悪徳だと考えた。かれはそれを追い払いたいと欲した。

 でもマルクスがそういったとき、1840年代に遡ってみれば、かれが使った「阿片」ということばは、単純に隠喩的なものではなかった。そのとき、阿片というものは唯一の鎮痛剤だった。歯痛から喉頭ガンにいたるまでにね。だいたいかれがそれを使っていたんですから。

 虐げられた人々の親愛なる友として、かれはかれらの苦痛を、ほんの少しでも、柔らげるなにかを歓迎しようとしていったのです。それが宗教です。かれは宗教をそういうものとして好んだのです。けっしてそれを廃棄しようとしたのではなかった。OK?

 いまならかれは、今夜わたしがいうようにいうでしょう。「宗教はとても多くの不幸な人々のとってのタイルノールになるだろう。わたしはそうなることを喜ぶ」

 中国共産党のことですが、かれらは疑いなく、わたしたちより商売が上手だ。たぶんずっと頭もいい、共産党員であろうとなかろうとね。わたしがいってるのは、かれらがあちらこちらのわたしたちの学校で、どれほどうまくやってるかということです。ごらんなさい! わたしの息子のマーク、小児科医なんですが、かれはハーバードの医学部で入試委員をやってます。かれがいうには、フェアに入試のゲームをやったら、入ってくる生徒の半分はアジア人女性だと。

 まあ、カール・マルクスに戻りましょう。この国の1840年代の指導者たち、かくもジーザスに、慈悲深き全能の神に盲従していたかれらは、マルクスが宗教の悪に関してはっきりと述べたときにどうだったか? かれらは奴隷を所有することを完全に合法化していたのです。そして女性たちに投票も、公的なオフィスを持つこともさせなかった。神が許したのです。80年にもわたって。

 わたしは、アメリカの刑法による16年の懲役から戻ってきた男性からの手紙を持っています。かれはいま42歳で、ようやく出てきた。かれはわたしに何をしたらいいか尋ねてきた。わたしは、カール・マルクスが言ったであろうことを言いました。「教会に加わりなさい」

 いま、わたしが右手を挙げたことに気づいてください、ふざけてるのではありません。わたしが次にいうことはなんだって真実であるはずだと信じています。それはこういうものです。わたしの人生のなかで、最も精神的に崇高なアメリカの現象とは、ナチスを破ることへの貢献、まあ、わたしも大きな役割を果たしましたが、ではなく、ロナルド・レーガンによる神なき共産主義ロシアとかいろいろ、の転覆でもありません。

 わたしの人生のなかで、最も精神的に崇高なアメリカの現象とは、アフリカン―アメリカンのひとびとが、白いアメリカ人による扱い、政府によってもそうでなくても、単にかれらの肌の色だけで軽蔑され蔑視され、ときに病んでいるかのように扱われてきたことにもかかわらず、かれらの尊厳と自尊を維持してきたことなのです。

 かれらの教会が、まさにかれらがそのようにしてきたことへの助力をしたのです。そう、そこにはカール・マルクスが再臨しました。ジーザスが再臨したのです。

 そして、世界のほかの場所に対してアメリカがしてきた贈り物とは何でしょう、世界のほかの場所で最も喜ばれたものは? アフリカン―アメリカンのジャズとその子孫です。わたしによるジャズの定義は何かって? 「最高級の安全なセックス」

 わたしの人生における二人の偉大なアメリカ人とは、まあ、知ってるかぎりでは、フランクリン・デラノ・ルーズベルトとマーティン・ルーサー・キング・ジュニアです。

 ルーズベルトは、もしかれ自身が小児マヒにかかることがなければ、下層階級の人たちへの哀れみを持つことはなかっただろう。ただの金持ちで、思い上がった支配階級のアイビーリーグの馬のケツだっただろうと。でも、突然かれの脚はもう動かなくなってしまったのです。

 世界の温暖化にたいしてわたしたちができることとはなんでしょう? 灯りを消すことはできますね、たぶん。でもしないでください。大気を修復する方法なんて思いつきません。遅すぎたんです。しかし、わたしが直せるものがひとつあります、この今夜に直すのです。ここインディアナポリスでです。それは、かの善き大学の名前です、わたしの時代からあったものです。でもその名前を「I.U.P.U.I(インディアナ大学―パーデュー大学・インディアナポリス校)」なんてものにしてしまった。「I.U.P.U.I」? 知恵ってものをなくしちゃったんですか?

 「やあ、ぼくはハーバード出だよ。きみはどこに行ってたの?」

 「I.U.P.U.Iさ」

 ピーターソン市長が2007年の間わたしに与えてくださった無限の力をもって、わたしはI.U.P.U.Iをターキントン大学と改称します。

 「やあ、ぼくはハーバード出だよ。きみはどこに行ってたの?」

 「ターキントンさ。上品だろ?」

 これにて完了。


 時の経つのをもって、だれもターキントンがだれなのかなんて気にもかけなくなってしまいました。いまではバトラーってだれだ?となるんでしょうね。ここはクラウズ・ホールですが、わたしは実際にクラウズ一家の何人かを知っています。ナイスな人たちでした。

 しかし、言わせてください。わたしは今宵あなたたちにブース・ターキントンの生涯と作品について語らないわけにはいかないのです。この街の生まれです。1869年から1946年まで生きました。わたしと24年間重なっています。ブース・ターキントンは戯曲と小説と短編の書き手として名声を得ました。かれの文学界でのあだなは、わたしもそう言われますが、「インディアナから来た紳士」です。

 わたしがガキだったころ、わたしはかれみたいになりたかった。

 会ったことはありません。何ていったらいいかわからなかったでしょう。わたしはヒーローへの尊敬でイカれてたんでしょう。

 そうです。ピーターソン市長がこの1年を通して与えてくださった無限の力をもって、ここにいるだれかに、ここインディアナポリスでブース・ターキントンの戯曲「アリスアダムス」を上演するように要求します。

 甘美な一致なんですが、「アリス・アダムス」とは、わたしの亡き姉の結婚後の名前でもあるのです。身長6フィートのブロンドのグラマーな女性でした。いまはクラウン・ヒルでわたしたちの両親と、祖父母と、そのまた父母と、ジェームズ・ウィットコム・ライリー、その時代アメリカで一番稼いだ物書き、と一緒にいます。

 姉のアリーがいつもわたしに何ていってたか知ってますか? かの女はよくこういいました。「あんたの両親があんたの前半生をめちゃくちゃにしたのよ。で、あんたの子どもが後半をめちゃくちゃにしたの」

 ジェームズ・ウィットコム・ライリー、「インディアナっ子の詩人」、はその時代、アメリカで一番稼いだ物書きでした。1849年に生まれ1916年に亡くなっています。かれはお金を取って、詩を劇場や講堂で朗読したんですよ。そんなにまで普通のアメリカ人が詩を必要としてたんですね。想像できますか?

 偉大なフランス人作家であるジャン・ポール・サルトルがあるとき言ったことを知りたいですか? もちろんフランス語で言ったんですよ。「地獄とは他人のことだ」。かれはノーベル賞を辞退しました。わたしはそんな無礼なことはしません。わたしはアフリカン―アメリカンのコックによって正しく育てられたんです。かの女の名前はアイーダ・ヤングといいます。

 大恐慌の間、アフリカン―アメリカンの市民の間ではこんなことが言われてたんです、ほかにもいろいろあったんですが、「白い連中は自分の子どもを育てるのを悪いことだと思ってる」。

 ただ、わたしはアイーダ・ヤングだけによって正しく育てられたわけでもありません。かの女は奴隷の曾孫で、知慮深く、親切で尊厳に満ち、自尊心が高く文学的で、能弁で思弁的で、仕事を楽しんでいました。アイーダ・ヤングは詩を愛していました。よくわたしに詩を読んでくれました。

 わたしは43学校の教師たちによっても正しく育てられました。「ジェームズ・ウィットカム・ライリー学校」です。それからショートリッジ高校でも。立派な公立学校の教師たちは地域の名士でした。感謝を込めて元学生たちは、成人してからも、かれらを訪ね、いまはどんなふうにやっているかを話したものです。そして、わたし自身もそんなセンチメンタルな成人だったのです。

 しかしもうずっと昔のことです。いまはもう、わたしの好きだった教師たちは、たいていの北極熊と同じところに行ってしまいました。

 人生で紛れもなく最高なのは教師であることです。もしあなたに教えることへの気違いじみた愛があって、あなたのクラスが18人かそれより少ない人数であったのならば。18人かそれ以下の人数のクラスというのは家族のようなもので、まるでひとつになったように感じ、振るまうのです。

 わたしが43学校を卒業した年は、まだ大恐慌の真っ最中でほとんど仕事も職もなかった。ヒトラーはドイツを乗っとろうとしていた。わたしたちのだれもが作文のなかで、大きくなったらより良い世界をつくるのだという希望を語っていた。

 わたしはイーライ・リリーで働いて、化学物質によってガンを治療するんだと言ってました。

 ユーモリストのポール・クラスナーがジョージ・W・ブッシュとヒトラーの大きな違いを指摘しているのに感謝の念を抱いています。ヒトラーは選挙で選ばれたのです。

 わたしのたったひとりの息子、マーク・ヴォネガットの話に戻りましょう。中国人女性とハーバード医学部の話ですよね?

 もちろんかれはボストン地域でたったひとりの小児科医というわけではありませんが、かれは絵描きであり、サックス奏者であり、物書きでもあります。かれは「エデン急行」という何とも良い本を書きました。かれがヤクでイカれて、独房に押し込められて拘束服を着せられたりした、ことについての本です。かれは大学の学部時代はレスリングの選手でもありました。なんとまあマニアックなことか!

 かれの本では、かれがいかにハーバードの医学部を卒業できるほどに回復したかということも書いてあります。「エデン急行」、マーク・ヴォネガットです。

 借りないでくださいね、おねがいですから、買いなさい!

 わたしは、本を買わずに借りて済ませようとしたり、あるいは貸したりする人をボンクラだとみなしてます。百万年も昔、わたしがショートリッジ高校の生徒だったころ、ボンクラというのは偽の歯をケツっぺたにくっつけて、タクシーの後部座席のボタンを噛んでしまうようなやつのことを言ったんです。

 でもちょっと急ぎましょう。今宵ここにいる何人かの、機能不全家庭からやってきたやることのない、印象的な若者たちは、明日の真のボンクラというものをどう定義するのでしょうか。もうタクシーの後部座席にボタンはないのですよ。時代は変わってしまいました!

 わたしはマークに人生ってなんだろうね、と尋ねました。わたしにはさっぱりわからないので。かれはこういいました。「父さん、ぼくらはなんとかやってけるように、たがいに助けあおうとしてここにいるんだろ。どんなことでもね」。どんなことでも。

 「どんなことでも」。悪くありません。取っておきましょう。

 そしてわたしたちはこの黙示録の時代にどう振るまうべきなのか? わたしたちはいつもにましてたがいに親切であるべきなのです、きっと。ただ、あんまり真面目になりすぎるのもやめなくてはいけません。ジョークがとても役にたちます。それから犬を飼いましょう。まだいないのなら。

 わたし自身も犬を飼っています。新種の雑種です。半分がフレンチプードルで、半分は中国のシーズーです。

 だから、クソプー(Shit-Poo)。

 ご静聴ありがとう。そしてわたしは、ここからいなくなります。

Kurt Vonnegut "At Clowes Hall, Indianapolis, April 27,2007"

from "Armagedon in Retrospect" G.P.Putnam's sons 2008

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/duke377/20080413/1208078803
 |