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とどけ反核の思い −全米で原爆展−2007年10月17日
広島市が米国各地で1年半がかりで展開する「全米原爆展」の開催が今月から本格化する。来年秋の米大統領選を視野に、首都ワシントンと全50州の計101都市で原爆投下の実像をポスター展示し、核超大国に核廃絶のくさびを打ち込もうという計画だ。一部の会場には被爆者も訪れて体験を語る。遠大な試みにかける思いや意気込みについて、関係者に聞いた。(武田肇) ◆開催が確定している州 …………………………………………………………………… 米国イリノイ州出身。30代後半にビジネスチャンスを求めて広島に来たのが被爆地との最初のかかわりだ。「米国人のほとんどは、自国が地球を何度も破壊できる核兵器を抱えながらも、実態を正確に知らない」 米国各地で集中的に開催する異例の原爆展は、予算の制約上、広島市が展示ポスターを提供し、現地の自治体や平和団体が主催・運営する形をとる。そこで不可欠なのが米国人としての人脈だ。9月末現在で、開催が確定しているのが16都市、開催の意向があったのが25都市と上々の滑り出しだったのも「リーパー理事長の手腕なしに考えられない」(谷川晃・同資料館副館長)という。 日米を往復するなかで核兵器廃絶を訴える難しさを肌で知っている。多くの世論調査で米国市民の半数以上が「原爆投下は正しかった」と答える。それでも変化を感じているという。「9・11、アフガニスタン戦争、イラク戦争と急展開するなかで、自国が核を再び実戦で使うのではないかという懸念が米国民のあいだで共有されつつある。非常に保守的な層ですら、今のままでよいのかという疑念が生まれている」 母国と批判的に向き合わねばならない立場だが、心の中に矛盾はないという。「危ないことをしようとしているのを必死で止めるのは、間違った行動ではない」 …………………………………………………………… 国民学校3年だった8歳のとき。自宅でふかし芋の朝食を取り、窓から真っ青な空に銀色に光るB29の機影を見た瞬間、濃いミカン色のような閃光(せん・こう)をあびた。地べたにたたき付けられ、ガラス片をあびて血だらけになった母に助け出された。火災から逃げまどい、その夜は両目がぶら下がった黒こげの子どもの遺体の横で眠った。被爆から10日ほどたつと歯茎から血が止まらなくなり、頭髪はごっそり抜けた。3歳上の姉は遺骨さえ見つからなかった。 今回、初めて話そうと思うことがある。約10年前、結婚直後の一人娘が血液の病気と診断され、医師から「お孫さんはあきらめて下さい」と告げられたことだ。「私の被爆のために取り返しのつかないことになったと自分を責め続けた」。その後治療が奏功し、孫にも恵まれたが、血の気が引く思いは今も消えていない。「被爆の遺伝影響は科学的に解明されていないが、子を持つ被爆者の多くがびくびくして生きている。被爆は決して62年前の昔話ではないと伝えたい」 原爆を投下した当事国である米国を訪れるのは今回が初めてだ。だが、恨みつらみをぶつける気持ちはないという。「原爆投下は絶対に許せない。でも、事実をありのまま話し、どうしたら核兵器のない未来をつくれるのか米国の市民と一緒に考えたい。それが原爆で命を奪われた人たちの無念にもかなうことだと思います」 ……………………………………………………………… 思いつきではない。米谷さん自身、約3年前からユダヤ系米国人の夫らと同州で「草の根原爆展」を開いてきた。広島・長崎の被爆写真を展示したり、在米被爆者を呼び体験を語ってもらったりした。今年5月には自宅近くの高校で7回目の展示を成功させた。 きっかけは米国のある大学で偶然聞いた公開討論。「どれだけ核兵器を持てば国家の安全が保たれるか」。そんなテーマで国際政治学者らが口角泡を飛ばす姿に「広島、長崎を見てから言うてや」とヤジを飛ばしていた。米谷さんは戦時中、空襲で焼かれた街をさまよった経験がある。疎開先の鳥取では広島の原爆で顔を焼かれた同世代の女性とも出会った。「核兵器はゲームの駒とはちゃう」。そんな焦りをバネに始めたのが原爆展だ。 ただ、原爆展の開催は曲折の連続だった。ある町では「海軍で栄えた我が町にふさわしくない」と横やりが入った。進歩的な大学関係者に「民主党政権ができるまでは無理」と協力を拒まれたこともあった。逆に若い世代に「大事なことを知らせてくれてありがとう」と声をかけられると救われる思いがした。 米国にいると祖国・日本の姿が良くも悪くもはっきり見えるという。「本来、原爆展は日本政府がやるべき仕事のはず。 マイタウン広島
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