『護教の盾』掲示板でのやり取りから。
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/poppyoil/pages/bbs.html
http://defencecatho.seesaa.net/
このブログ主の表現はきついですが、主張内容は、カトリック信仰に照らして正しいです。
ジェンマさんのこともしばしば書かれておりますので、どうか検討なさってください。
私的啓示を細かく検討するより、たとえば、まずはハードン師の本を読みましょう。
金田さんを怖がらないでください。そこに書いてあることと、教会文書を照らしあわせてみてください。
また、「見て直ぐ飛びのく」のはやめて、落ち着いて、じっくりと読んでみてください。たまに失礼なことも書いてあるかと思いますが、そのあたりは無視して。
分かっておられるとは思いますが、「これは 『攻撃』 でも『非難』 でもない」です。おそれないで。心配しています。
名前:tema 日付:4月12日(土) 11時43分
ヨゼフ・ジェンマ氏はあいかわらずの検討ハズレの回答をする。
アヴェ・マリア!
temaさん、コメントありがとうございます。
まず件名の「どちらが本筋か」ですが、これが最近の私がしていることに向けられたものだとしたら、私は、ピンと来ません。最近の私はよりによって「エクソシズム」を扱っています。これはカトリックの世界においても、おそらくかなり辺境にあるものです。これは、そのブログ主の方の世界からは、ますます離れた世界の筈です。ですから、この情景の中に「どちらが本筋か」という言葉を置くのは、ちょっと "場違い" なような気がします。
> 金田さんを怖がらないでください。
いや、私が金田さんを恐れていないことは、金田さんご自身がわかっていらっしゃると思いますよ。
しかし私にとって金田さんの展開していらっしゃることは-----その「質」は、本当は-----比較的「簡単」なことなのです。それは、私が彼との対話の中で何度か「金田さんは当り前過ぎることを言っています」と言わずにいられなかったようにです。そして、彼の議論は一言で言えば「外郭的」なのです。しかしあまりにも "言葉に貼り付いて" いる人には、このへんのところが-----私が「外郭的」と言う時に言わんとしていることが-----どうにもわかって頂けないようです。(ピンと来る人にはピンと来ます。)
> このブログ主の表現はきついですが (…)
> たまに失礼なことも書いてあるかと思いますが、そのあたりは無視して。
このような捉え方は一見正しいように見えます。「それとこれとは一応別物と見ることができる」と...
しかし第一に、彼の場合、単にその表現が「きつい」とかの問題ではありません。この一文によってわからない人にはわかりません。「あの程度はまあまあ-----ギリギリであれ----- "普通" の範疇じゃん」と思う "カトリック信者" にはわかりません。
そして第二に、「それとこれとは一応別物」という見方ですが、私は、今迄はあまりハッキリと言わなかったかも知れませんが、「本当のことを言えばそんなことはないのだ。決してない」と思っています。昔からです。つまり、「ものを見る」という総合的な行為において、人間がその "人間性" を別にして "知性だけ" において、"知性的な分野に限定して"「真理」なるものを把握し得る... などということは、本当は、決して、ありません。人間というものは、まあ、ある言い方をすれば、"知性的なもの" と "感性的なもの" が有機的に総合されたものであって、"頭脳的なもの" と "魂的なもの" が有機的に総合されたものであって、それ故に「ものを見る」という行為においても、それらの両要素が必要なのです。
しかし、これも「説明」は難しいです。
「知性的にはまあまあ優れている人が、魂的には全くの盲であることがあり得る。」… この言葉の "リアリティー" がなかなかわからない人達がいると思います。
ヨゼフ・ジェンマ 日付:4月12日(土) 19時13分
「外郭的」て何なんでしょうな(「外郭」と聞くと「政府外郭団体」くらいしか思い浮かばないが(笑))、と思ったら「tema」さんは的確にそこを突く。
ジェンマさん
>彼の議論は一言で言えば「外郭的」なのです。
「外郭的」という意味がよく分からないのですが・・・・・・
仮に表面的という意味なら、金田さんの議論は決して「外郭的」ではありません。
カトリシズムの核心部分ではなく周辺部分の議論である、という意味でも、「外郭的」ではないと思います。
また、金田さんが信者ではないからその議論がカトリシズムとは反している、という意味で「外郭的」というのなら、それはまったく意味をなしません。
金田さんの信仰は私には分かりませんが、その議論自体は、何一つカトリックの伝統に反しないからです。
そもそも、もしその主張者の信仰をもってその主張自体の内容の良否が決まるのなら、ここで引用されている教皇空位論者たちの主張など唾棄すべきことになりますよね。
ブログ主のレトリックにとらわれず、その内容自体を検討なさってほしいと思います。極めて理性的、カトリック的であります。
なお、金田さんたちが「言葉に張り付いている」というのはジェンマさんの主観に過ぎないと思いますし、仮にそうだとしても、金田さんの議論の価値を下げるものではありません。
もちろん金田さんの議論はカトリック信仰からして当たり前のことに過ぎないのかもしれませんが、今もっともその内容を吟味されるべきはジェンマさんのようなお立場の方々だと思います。
>「知性的にはまあまあ優れている人が、魂的には全くの盲であることがあり得る。」… この言葉の "リアリティー" がなかなかわからない人達がいると思います。
この言葉、まったく同感です。
しかし、これは私には、ピオ10世会の信者や教皇空位論者の方々に向けられた言葉のように思われました。かわいそうに、彼らは確かに一見知性的です、少なくともそうあろうとしているようですが・・・・・・
tema 日付:4月13日(日) 1時41分
十分な説明と言えるが、これに対してヨゼフ・ジェンマ氏は、一言たりとも具体的な反論ができない。
アヴェ・マリア!
tamaさん。
申し訳ないが、あとはご自分の旅を続けて下さい。あなたはあなたの旅を続け、彼は彼の旅を続け、私は私の旅を続ける。それでOKです。
あなたの目に彼の主張がそのように映っているだろうことは、全く分ります。全く理解できます。そして、あなたは現時点でそのことに満足していらっしゃる。私が何を言う必要がありましょうか。
あなたがここに来て話をしようとお思いになった動機は、見たところ、言われているところ、あなたの私に対する「心配」です。あるいは、聖ピオ十世会とその支持者達へのあなたの「憐れみ」です。あなたは、あなたの言うところに依れば、それを届けにここに来ました。
それ故、その問題は、ことあなた自身の信仰にとっては死活問題ではありません。
私にとってもまた、反対の方向において、そうです。つまり私にとって彼の主張は死活問題ではありません。中心的な問題ではありません。
あなたと私の対話が何らかの実りを持ち得るのは、あなたにとって聖ピオ十世会の問題が中心的になった場合か、私にとって彼の主張するところが中心的になった場合ですが、今はそのどちらにも該当しません。
そして、ある事柄が死活問題でない時、中心的問題でない時、それについて卓を囲んで話し合っても大したことにはなりません。そのような議論は、何処か、ラウンジか何処かで持たれるべきものです。私は甲斐を感じません。私は自分にとって中心的な問題を他に持っており、そして私の時間とエネルギーには限りがあるので、「あなたの言っていることがわからない」と訊かれたからと言って、私はその全てに応える労を取りたくありません。(一語を説明しようとすれば、結局全てを説明しなければならなくなります。)
私にとって、彼の主張との付き合いは今に始まったことではありません。私は彼が聖ピオ十世会問題を扱い始めた頃から知っています。だから、こう言っては悪いが、今、あなたからそれに対する「吟味」を促される必要はありません。あなたは「まだ吟味が足りないと思います」と言うことは可能ですが、それを言ってみても仕方がありません。
そして、あなたも実は最初から充分に知っていることでしょうが、私という人間は、あなたが私の管理するこの家の通路にさりげなく置いた鉢植え-----「かわいそう」という形容の鉢植え-----がその対象としているところの「聖ピオ十世会」の、今や極めて堅固な支持者です。ですから、私という人間もまたあなたにとって「かわいそうな人達」の中の一員ということになります。(ですから、まあ、あなたは事実上、この場所にわざわざやって来て、当の本人を目の前にして「私はあなたのことをかわいそうな人だと思ってます」という "言い方" をしていることになります。)
私がこの地点に至ったのは、それなりに長い時間を経てのことです。簡単なことではありません。ですから、今の時点のあなたには、私に対する「心配」と「忠告」をここに置いて立ち去ることの他に、できることはありません。
ですから、あなたはあなたの最初の動機に基づき、ここに置くべき物を置いて、それで終わりにして下さい。
ヨゼフ・ジェンマ 日付:4月13日(日) 14時12分
またもや情緒的感想文で終わる。やれやれ。
「金田さんは当り前過ぎることを言っています」とヨゼフ・ジェンマ氏は言っているが、「当たり前」の何が悪いの? だいいち、ヨゼフ・ジェンマ氏は「教皇首位権」などカトリックにとって「当たり前」の教義を散々否定しているではないか。仕方なく私は教会文書や教理書を引いて、正統教義を説明しているのだが、いっこうにヨゼフ・ジェンマ氏には理解した気配が見えない。彼には「当たり前」のことが「当たり前」ではないのである(その一方パウロ6世は「替え玉」だと信じているppp)。何でもかんでもわかったふりをしていきがるのは止めて、初歩的な教理書から読み直すべきだろう。
とはいえ、そもそも私は再三言ってきたように、ヨゼフ・ジェンマ氏のような知性の足りない洗脳された人間を説得する気はまったくない。間違った信仰を持ってどうなろうが、それは本人の責任だから私の知ったこっちゃではない。ただ私は、カトリック内の普通の信徒の方々が踏み迷わないようにと願い、あらかじめ正しい情報を提供しているだけである。ある程度の成果はあるようで、幸いなことである。
「ただしい論駁に対して一つたりとも反論できない人」の他の例。
「■Tant Pis!Tant Mieux!そりゃよござんした。■」2008年4月8日記事
http://malicieuse.exblog.jp/8340259
おフランスにおいて既に彼らはプロ・チベタン pro-tibetains (プロ・チベット市民)と呼ばれているらしいです。
(・・・)
彼らをおフランスではプロ・シノワ pro-chinois (プロ中華市民)と呼ぶそうです
どちらもおフランスでは「プロ扱い」なんですね。アマぢゃない。___φ( ̄^ ̄ )
これに対して、「Calligraphy and Catholicism」4月10日記事が次のように指摘。
http://blogs.yahoo.co.jp/ramona_lull/53684730.html
それは「プロ・アマ」のプロじゃなくて
pro - con (賛成ー反対)のプロでしょう。
どこにも「市民」とは書いてないし、単に「中国派」「チベット派」の意味ですよ。
フランス語を勉強したことはないけど、そのくらいは知らないでも想像つく。
後者ブログ主が前者にトラックバックをかけたところ、前者はそれを削除したそうな。
(文責・金田一輝)