[トップページ] [平成14年一覧][Media Watch][070.14 中国の言論統制][210.73 満洲事変・日華事変] [222.01319 中国:外交]

________Japan On the Globe(229)  国際派日本人養成講座_______
          _/_/   
          _/     Media Watch: 国際プロパガンダの研究
       _/_/      
_/ _/_/_/         文書偽造から、外国人記者の活用まで、
_/ _/_/          プロパガンダ先進国・中国に学ぶ先端手法。
_______H14.02.24_____36,731 Copies_____403,469 Views________

■1.エドガー・スノー■

         世界を征服するには、まず中国を征服しなければならぬ
        ≪田中手記≫

     1941(昭和16)年、大東亜戦争開戦の年の春にアメリカのラ
    ンダム社から出版されたエドガー・スノーによる「アジアの戦
    争(The Battle for Asia)」の第一編第一章の冒頭に引用され
    たセリフだ。「アジアの戦争」とは日本の「世界征服計画」
    の第一ステップだと言うのである。
    
     エドガー・スノーは1936年、中国共産党の支配する大陸奥地
    に潜入して、毛沢東とのインタビューに成功し、翌年出版した
    「中国の赤い星」は英米でベストセラーとなった。「私は、着
    くとすぐに毛(沢東)と会った。その姿はやせたリンカーンの
    ように見えた」という見事な一節で、中国の共産主義者は、ロ
    シアの革命家のような「血に飢えた権力主義者」ではなく、
    「良心的な民主主義者」であると印象づけた。
    
     その中国を侵略する日本人を「アジアの戦争」では次のよう
    に描写する。
    
         神道の教えを基にする武士道を信ずるサムライたちは、
        百年足らず前なら、誰でも衝動的に、不幸な平民の首を斬
        り、刀の斬れ味を試すことができた。日本の兵士が、今日
        でも同じように中国で中国人の首を刎ねている理由はここ
        に由来している。1923年(大正12年)の関東大震災の際、
        軍隊と警察の指導の下に行われた6千人の在日朝鮮人の虐
        殺は、実に日本人の女や子供の手によって行われたのであ
        る。
    
     スノーは、日中戦争では「やせたリンカーン」が、「女や子
    供まで虐殺に加担する残虐な日本人」の侵略と戦っている、と
    いう鮮烈なイメージを多くのアメリカ人に吹き込んだのである。

■2.歴史を変えた偽造文書■
    
     スノーが引用した「田中手記」は、「田中メモランダム」
    「田中メモリアル」「田中上奏文」とも呼ばれ、昭和2(1927)
    年に首相となった田中義一が天皇に上奏した文章とされている。
    英米の代表的な百科事典ブリタニカ(1990年版)には次のよう
    に記されている。
    
        彼(田中義一)が、満洲国の指導者張作霖の暗殺に関与し
        た陸軍将校を処罰しようとした時、陸軍は彼を支持するこ
        とを拒み、彼の内閣は倒れた。その後まもなく、田中は死
        亡した。天皇に中国での拡張政策を採用するよう助言した
        とされる文書”田中メモリアル”は、偽造されたもの(for
        gery)であることが明らかになっている。
        
     この田中メモリアルは、10種類もの中国語版が出版され、
    大陸の津々浦々で流布されていた。ロシア語版、英語版、ドイ
    ツ語版まで出されて、世界中に「世界征服を目指す日本」とい
    うイメージをばらまいた(その「日本語訳」もあるが、日本語
    で書かれたはずの原文はいまだに姿を見せていない)。
    
     この田中メモリアルがスノーの「アジアの戦争」の冒頭を飾
    り、そこから東京裁判での「日本は全世界支配を企んだ」とい
    う弾劾につながった。一つの偽造文書が歴史を変えたのである。
    
     中国で一般に信じられている所では、田中メモリアルは昭和
    2(1927)年7月、昭和天皇に上奏された後、極秘文書として宮
    内庁の書庫深く納められていたが、翌3年6月、台湾人で満洲
    との間で貿易業をやっていた蔡智堪(さいちかん)という男が
    宮内省書庫に忍び込んで、二晩かかって書き写したものを中国
    語訳文にし、昭和4年12月に公表したものだとされている。
    
     台湾人商人が007のように皇居の中にある宮内省に二晩も
    忍び込んで、中国語文で25ページもの分量の文書を書き写し
    たとか、いまだにその日本語原文が発表されてない、とか、い
    かにも荒唐無稽な筋書きであるが、それでも世界史を大きく変
    えてしまう所にプロパガンダの怖さがある。
    
■3.偽作の証拠■

     歴史家・秦郁彦氏は、田中メモランダムが偽文書である証拠
    を列挙している。[2]
    
    ・ 田中が欧米旅行の帰途に上海で中国人刺客に襲われた。
    → 正確には「マニラ旅行の帰途、上海で朝鮮人の刺客に襲わ
      れた」。田中本人が上奏した文書で、自分自身が襲われた
      事件を、このように書き間違えるはずがない。

    ・ 大正天皇は山県有朋らと9カ国条約の打開策を協議した。
    → 山県は9カ国条約調印の前に死去している。
    
    ・ 中国政府は吉海鉄道を敷設した。
    → 吉海鉄道の開設は昭和4年5月で、上奏したとされる昭和
      2年の2年後。
    
    ・ 本年(昭和2年)国際工業電気大会が東京で開かれる予定
    → 昭和2年にこの種の大会はない。昭和4年10月の国際工
      業動力会議のことか。
    
     秦氏はこれ以外にも5件の記述の誤りを指摘し、「これだけ
    材料をそろえば、偽作の証拠としては十分過ぎるだろう」とし
    ている。さらに、日本政府が田中メモランダムの存在を知った
    のは昭和4年9月であり、上記の最後の2点と合わて、偽作の
    執筆時期を昭和4年6月から8月に絞りこんでいる。
    
     この文書が偽造されたルートは諸説あるが、秦氏はこの時期
    に張作霖の長男・張学良の日本担当秘書・王家驕iおうかて
    い)が「10数回に分けて届いた」「機密文書」を中国語に訳
    させた上で「整合性を持った文章」に直して印刷した、という
    手記を残している事から、彼が偽造者だろうと推定している。
    この「機密文書」とは「あまり質のよくない(大陸)浪人の意
    見書のたぐい」と秦氏は見ている。そしてこの時期の中国では、
    他にも同様な偽造怪文書がいくつも出回っており、田中メモラ
    ンダムはその一つがに過ぎない、という。

■4.「世界征服」の「共同謀議」■

     昭和21年5月3日に始まった東京裁判の冒頭陳述において、
    キーナン検事は日本が「世界征服」を狙ったという起訴理由を
    持ち出して、日本側を驚かせた。曰く、
    
         1927年、日本政府は中華民国に対して、積極政策を樹立
        し、1928年4月、中華民国に軍隊を派遣した。・・・
        
         起訴状は、被告等が東アジア、太平洋、印度洋、あるい
        はこれと国境を接している、あらゆる諸国の軍事的、政治
        的、経済的支配の獲得、そして最後には、世界支配獲得の
        目的を以て宣戦をし、侵略戦争を行い、そのための共同謀
        議を組織し、実行したことを明らかにする。
        
     日本人弁護人の中心となった清瀬一郎は、「アメリカ軍のや
    る裁判だから、起訴状の中心は、真珠湾攻撃にはじまる、日米
    開戦の共同謀議と太平洋戦争に関することだと思っていた」所
    に、1941年の日米開戦から遡ること、14、5年も前の1927,8
    年から始めるとは、と大いに驚かされた。
    
     さらに中国侵略を言うなら、1937年の支那事変か、1931年の
    満洲事変ならまだしも、1928年4月の軍隊派遣とは日本軍が数
    千名の出兵をした済南事件である。これは蒋介石率いる国民革
    命軍100万が、張作霖の北軍100万を征伐しようとした内
    戦の最中に日本人居留民30余名を虐殺した事件に対応するも
    のだった。英紙デイリー・テレグラフは「中国人は略奪と殺人
    とを天与の権利であるかのごとく暴行を繰り返している」とし、
    日本軍の行動を「正当防衛」と認めたものである。[3,p276]

■5.田中メモリアルに基づく世界侵略?■

     清瀬は、アメリカの言う「1927」年からの「世界侵略の共同
    謀議」説が、同年に天皇に奏上されたという田中メモリアルに
    基づいているのではないか、と気がついた。ナチス・ドイツが
    ヒットラーの「わが闘争」をバイブルにして世界征服に乗り出
    したように、日本も田中メモリアルに基づいて世界侵略を企ん
    だ・・・これがアメリカが東京裁判で証明しようとした筋書き
    だった。
    
     日本側弁護団は田中メモリアルが偽書であることを証明する
    戦術をとった。ちょうど蒋介石の最も信頼の厚い部下であった
    秦徳純が次のような証言を行った。

         私は、中国における極めて普遍的な印刷物(至る所に流
        布されているパンフレット)に依ったもので、その中には
        「田中の世界侵略計画」、つまり第一段階で満蒙侵略、第
        二段階で華北の侵略、第三、第四段階では1940年の(41年
        の誤り)真珠湾攻撃となって現れるのであります。
        
■6.これ以上、この問題についての質問を許しません。■

     林逸郎弁護人がこの証言をとらえて、日本文の原文を見たこ
    とがあるのか、と尋ねると、秦は「見たことはない」と答えた。
    さらに内容の荒唐無稽な点をいくつか挙げて、気がつかなかっ
    たのか、と詰め寄ると「特に注意したことはありません」。の
    らりくらりと逃げる秦徳純に、ウェッブ裁判長がいらだったよ
    うに聞いた。
    
         私はただ一つだけ証人におききしますが、あなたは「田
        中メモリアル」といわれるものの真実性について、何か確
        信を持っているのですが、それとも疑う理由を持っている
        のですか。
        
     この質問にも秦徳純は、まともには答えなかった。
    
         私は、それが真実のものであることを証明はできないし、
        同時に真実ではないことを証明することもできません。し
        かし、その後の日本の行動は、作者田中が、素晴らしい予
        言者であったように、私には見えるのです。
        
     その一週間後、1927年に奉天領事をしていた森島守人が証人
    台に立ったとき、今度はアメリカ人弁護士クライマンが「田中
    メモリアルが偽書であったことを証明するために質問したいと
    思いますが、許可いただけますか」と裁判長に聞いた。
    
     ウェッブ裁判長は「これ以上、この問題についての質問を許
    しません」と拒否した。裁判長も検事団も田中メモリアルが偽
    書であり、日本の「世界侵略の共同謀議」を証明する証拠には
    なりえない、と気がついたのだろう。以後、東京裁判では二度
    と、田中メモリアルは登場しなかった。
    
     しかし、田中メモリアルがそれで滅びたわけではない。中国
    では公式的には依然、歴史事実とされており、1991年に北京で
    発行された「民国史大事典」では次のように記載されている。
    
         田中義一首相兼外相が1927年7月、天皇に奏呈した文書。
        内容は支那を征服するためには、まず満蒙を征服しなけれ
        ばならず、世界を征服するためには、まず支那を征服しな
        ければならないとし、そのためには鉄血手段を以て、中国
        領土を分裂させることを目標としたもので、日本帝国主義
        の意図と世界に対する野心を暴露したもの。
        
■7.「30万人虐殺」説の出所■

     もう一つ、もっと高度な国際プロパガンダのテクニックを紹
    介しておこう。日本軍が南京占領時に30万人の虐殺をしたと
    いう「南京大虐殺」説が今も中国政府の公式見解になっている
    が、それを世界に最初に知らせたとして有名になったのが、マ
    ンチェスター・ガーディアン紙の特派員として、事件当時南京
    にいたオーストラリア人記者H・J・ティンパーリーによる
    「戦争とは何か−中国における日本軍のテロ行為」である。
    
     その第一頁にティンパーリーは「華中の戦争だけでも、中国
    軍の死傷者は、少なくとも30万人になり、一般市民の死傷者
    も同じくらいであった」と書いた。スノーもこれを下敷きにし
    て「アジアの戦争」で「上海・南京間の進撃中に、30万人の
    人民が日本軍に殺されたと見られているが、これは中国軍の受
    けた死傷者とほぼ同じくらいであった」と述べた。
    
■8.蒋介石の「国際宣伝処」の手先だった外国人記者■

     ところが、最近、このティンパーリーが実は蒋介石の「国際
    宣伝処」の手先だったことが明らかになった。蒋介石に委任さ
    れて「国際宣伝」を担当していた曾虚白の自伝で次のような一
    節が見つかったのである。
    
         我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔を出
        すべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際
        友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと
        決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくし
        て我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティ
        ンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐
        殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい、印刷して発
        行することを検討した。・・・このあとティンパーリーは
        そのとおりにやり、・・・二つの書物は売れ行きのよい書
        物となり宣伝の目的を達した。
        
     スマイスは南京にあった金陵大学で社会学を担当していたア
    メリカ人学者で、南京事件後に戦争被害の実地調査を行い、戦
    闘行為以外の暴行による民間人死者2400という数字を出し
    た。この数値は少なすぎるとして、「30万人虐殺」を主張す
    る一派からはカッコ付きで扱われている。そのスマイス博士す
    ら、実は国民党の国際宣伝処の手先だったというのである。
    
     中国大陸では、数千年の間、多くの民族が入り乱れての戦乱
    が打ち続いた。その過程で敵を貶めるためのプロパガンダ手法
    を高度に発展させてきた。本号で紹介した文書偽造や、中立的
    に見える外国人を金で雇って宣伝を書かせたりというのは、そ
    の一部である。その高度なテクニックを使えば「温室国家」日
    本に育って「心から謝罪すれば許してくれる」などと信ずるお
    人好しを丸め込むのは、赤子の手をひねるようなものである。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(028) 平気でうそをつく人々
b. JOG(060) 南京事件の影に潜む中国の外交戦術
c. JOG(079) 事実と論理の力
d. JOG(081) 松井石根大将

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 鈴木明、「新『南京大虐殺』のまぼろし」★★、飛鳥新社、H11
2. 秦郁彦、「昭和史の謎を追う 上」★★、文春文庫、H11
3. 北村稔、「『南京事件』の探求」★★、文春新書、H13
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

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