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2005年08月08日

仏教を捨てよ

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「山根二郎」という人がいる。この人は金喜老事件や東大裁判で主任弁護士をつとめた弁護士だが、最近はカルト系の裁判にもいろいろかかわりを持っている。とてもまじめな人なので、カルトの裁判のときなどは、その教義や宗派の成り立ちにいたるまで詳細に調べをする。その過程で、彼が見た「仏教の真実」と「日本の仏教はダメ」という結論は、彼の著書「仏教解体」に詳しい。もっとも、実際にその著書を読むと、オウム事件のことをとても意識して書かれているから、それをわかってから読まないと、ちょっと違和感があるかも知れないね。

ネット上をいろいろ調べると、この人の著書や言動については賛否両論、なかなかすごいものがある。仏教そのものを「当たり前のもの」「空気のようなもの」と感じている人たちには、もちろん、評判が悪い。書籍そのものにも、小さな間違いとか解釈違い、多様な面のうちの1つをとりあげて代表としているところなどが、「信者」にはツッコミどころ、と、思わせるところになる。

山根氏はその著書の中で「仏教のみが、世界の宗教の中で唯一、人間の生きる喜びを賛美しない。人間の存在を否定する」だから、まず、仏教とその習慣というものが、「近代的な人間観」から外れたもの」であって、それは「多くの他の宗教を習慣とする人たちと相容れない」と、いう。仏教そのものを否定しなければ、日本人は世界から孤立したままだ、という。

西欧の近代の根底には「ルネッサンス」があった、ってことは社会科の授業でみんな習ったと思うけど、ルネッサンスは、要するに「四の五の言わないで、いま、生きてることがすばらしい!」みたいなところからすべてをはじめる「ネアカ思想」みたいなところがある。

対して「存在は無」「自分は無い」と、自らの命を否定することからはじめる「仏教」は、「生も死も同じだもんね」まで行き着き、あげくのはてはオウムみたいに「人を殺してもいい」までいっちゃう。その危険性が内側に潜んでるんだよね。つまり救いようのない「ネクラ宗教」が、仏教なんだな。いや、少なくとも日本ではネアカな宗教じゃないわな、仏教ってのは。

だから、人間でもなんでも、仏教では「不浄」なんですね。ホトケにならないとあーたは救われませんよ、とやるわけだ。で、ホトケになるには人間では到底できない修行を積む必要があるから、凡夫はみんなホトケになる修行はさせてやるけれど、ホトケにはなれんわな。で、普通は死んでもホトケになれない。「なれる」という仏教もあるにはあるけれど、それは要するに「なれない」のアンチテーゼとして登場したものだから、根は同じだね(ヒトは死んだらホトケになる、っていうのは俗信で、本当はオタマジャクシがカエルになるようには、実はなれない)。

ところで、世界はグローバル化の時代だし、インターネットもあるし、電車に乗ればガイジンはいっぱいいいるし、隣でしゃべってるヒトの言葉は良く聞けば日本語じゃないし、という時代に日本もなってきたからね。ネアカに囲まれたネクラなんてのは、要するに「勝手に死んだら?」とか言われて終わっちゃうわけですね。世界から見れば。

ここで「いいんですよ、ぼくはここで死ぬから」というネクラなヒトはまわりに迷惑をかけないで、自分だけそうしてくれればいいんであって、ヒトにまでそれを強制することはない。ああ、おれは人生をたのしみたい、ってヒトは、それがどんなかたちをしているものであれ、仏教を捨てなさい、ってことですね。

インドも中国もほとんど仏教徒っていないのよ。今は。日本だけ。ここ200年くらいの近代にあわなくて、みんな仏教って撤退したんだよね。

仏教って、要するに「みんな死んでしまえ」って思想だからね。ネクラの極みだね。それをNHKとかそういうところが「宗教の時間」とか言ってありがたがるわけですね。「ホトケさまはこうおっしゃっておりますのよ、ほほほ」みたいなことを、やさしい言葉で言う、背の低い女のボーサンがおりましたな。言ってることは別に誰に聞いても同じような答えが返ってくるような内容でしょ?あれ。あれだったら、最近若いのが座ってるけどさ、駅前の手相見のお兄ちゃんとかお姉ちゃんに聞いてもいいようなことだよね。若いときには男をとっかえひっかえして散々自分の小説のネタにしてたようなのが一転してボーサンやって「悟りがどうのこうの」ってショーバイのためにやってるんだよ。あれ。だまされるほうがおかしいよな。

ということで、仏教ってのは簡単に言えば「近代にあわないネクラ宗教」。だから、死んでもそういうのやりたい!大好き!って言う人以外は、やめといたほうがいい、あるいは深入りせず、テキトーにつきあったほうがいい、ってことだね、山根さんの言うことは。で、ぼくもそう思うよ。

でも山根さんみたいに、否定しきる、ってことまでいかなくても、そういうもんだ、ってわかったうえで、葬式とか、仕方ないときは適当に付き合う、っていうのがいいと思うんだよね。ぼくらみたいに普通の人にとっては。

投稿者 nori-m : 2005年08月08日 06:42

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コメント

仏教と葬式ももともとは無関係でした。

江戸時代ぐらいからの話だと思うんです。

仏教が葬式をやるもんだから、あわてて神道もやり始めたというようなことです。

投稿者 めぎや : 2005年08月08日 13:02

めぎやさん、コメントありがとうございます。

時代とともに宗教の意味とかやるべきこととかって、変わってくるものですよね。教義ってものがあるから普遍のように思うけれども、実際は変わっていくものですからね。もともとかたちがないものだから、変わりやすいといえば変わりやすいものなんですが。

ところで、写真はメキシコ舞踊の「魔女の踊り」なんですよね。今回の話にあわせたつもりですが。

投稿者 nori-m : 2005年08月08日 15:35

鳥の写真を お願いします。

投稿者 めぎや : 2005年08月08日 20:55

暑すぎて、鳥のいるところにいけないんですよー。
すみません。

投稿者 nori-m : 2005年08月09日 06:36

そう言えば 鳥も飛んでいないような。暑いです。

投稿者 めぎや : 2005年08月09日 14:02

山根二郎は、坐禅修行と般若心経をキーワードにして仏教批判をしている。ところが日本仏教の多数派は、浄土系と日蓮系で占められており(2/3)、坐禅をしないし、般若心経をよまない(法華経・阿弥陀経第一優先)。極楽浄土がある、永遠の仏がいる、とする信仰の方が多くの民衆に支持されているのである。
山根二郎の論理では、創価学会の教義に対抗出来ない。「何をお門違いなことを言っているのだ、関係ないよ」 

投稿者 dirty : 2005年08月12日 12:09

dirtyさん、コメントをありがとうございます。

山根氏のあの本は創価学会は相手にしていないと思いますよ。あの本が出された年代から言って、「修業」を強調するオウム真理教のほうを相手にしていると思います。

また、創価学会という団体を語るときも、「宗教」だから、
「教義」を問題にするのだ、と思われるかもしれませんが、やはり宗教というよりは洗脳の技術、心理学のほうから攻めるのが、正解のように思います。教義はあの団体の場合、添え物に近い感じがします。内部から見ても、外部から見ても、言行不一致のところが多すぎる団体ですから。

山根氏の著書を読むと、私の本文に書きました通り、あちこちに粗雑なつくりが見えます。そこで、その粗雑な作りそのものの批判はあってしかるべきだと思いますが、山根氏の主張している「仏教はネクラである」ので「他の文化圏と相容れない」ため、「日本は文化的に孤立する」という、一連の論調の筋は大方正しい、と、私は思います。

投稿者 nori-m : 2005年08月12日 17:07

>「仏教はネクラである」ので「他の文化圏と相容れない」ため、「日本は文化的に孤立する」という、一連の論調の筋は大方正しい、
少数の坐禅オタクは自閉的でネクラでしょうが、日本仏教は大勢として現世利益追随ではないかな。戒律は守らない、説教はしない、副業や金儲けに熱心、妻帯し、遊びまわる。これに対してタイ・ミャンマー・スリランカは熱心な仏教国です(人口あわせると日本と同じ)。日本には寺院はあっても仏教はない(僧侶はまったく尊敬されていない)といわれても致し方ない状況ですね。信心深い檀家を除けば、一般の日本人はお経をよむことはないし、仏教を意識して生活行動しているわけでもない、したがって捨てる仏教の実体がない。

投稿者 dirty : 2005年08月12日 18:58

(続)「仏教解体」は、「麻原」と「道元」がともに釈尊の正統な継承者であると主張しているから、共通点を求めたら見つかったというわけ。そこで坐禅至上主義の「道元」の思想は、兇悪なものであり、したがって仏教は根源的に否定されるべきものであるという。そしてこのような仏教を信じている日本人は世界から孤立すると。ともかく論理が飛躍しすぎる。
道元の開いた曹洞宗は、量的には(信者数)日本仏教の一部にしか過ぎない。圧倒的に勢力の大きい浄土真宗は、坐禅はやらないし、般若心経は絶対によまない。同じく坐禅を認めない日蓮宗は「法華経」を最高であるとして尊重するが、「法華経」の立場は「諸法実相(この世のものは存在する)」であり、「空の思想」と対立する。ヤジは般若心経の「空の思想」を取り上げてこれがネクラの根源であるというが、日本仏教は「空の思想」をまじめに受けとらず棚上げしているのではないか。

日本人が「仏教漬け」であるという見方には反対する。むしろ仏教が「日本漬け」なのである。

投稿者 dirty : 2005年08月12日 20:56

dirtyさん、再度のコメントをありがとうございます。

山根氏の「飛躍」は、最初からオウムをターゲットにしたもので、そのためにいろいろな材料があの本の中で使われている、といったほうが正確だと思います。

瀬戸内の淫乱バアサンやNHKの宗教の時間とかを見ると、日本人の大方には、仏教そのものの実態はどうであろうとも、「まじめな仏教とは、その中心にニヒリズムしかない」と、けっこう多くの人に信じられているといってよいかと思います。つまり、信じている人はそう多くはない。でも「仏教とはこんなもので、我々もその中にいる」ということを、信心をしていない人でも、考えている。ときにそれがエキセントリックに表現されることがある。

つまり、仏教と呼ばれるものを信じている人がどれだけいるか、という問題ではなくて、「仏教とはそういうものだ」という観念を共有している人がこれだけいる、ということなんだと思います。それを「仏教漬け」と称している。

まぁ、法華経ってのも、大乗と小乗がわやくちゃになっちゃったのを、まとめたもの、みたいなところがあって、それを日蓮が曲解やってる振りして無視しつつ、自分の主張をそれに載せたのが「日蓮仏教」というところがどうしてもある。だから、法華宗とは言うものの、法華経よりも「御書」という感じになっちゃうんだろうけどね。

とにかく、教義とか宗教の中身、という問題とは違うところにこれらの問題はあるように思います。

投稿者 nori-m : 2005年08月12日 23:11

「仏教解体」は、内容から見て「道元禅とオウム真理教における修行上の類似点についての一考察」とサブタイトルを付すべきものだ。似ていると言っても、もとはインドの瞑想法なのだからあたりまえのこと。オウムがサリンをまいたから、道元禅の連中も危険だというわけ?しかも、道元禅は少数野党に過ぎないのに、仏教全体にまで拡大して「仏教解体」とわめくのはいかがなものか。
 道元の著作は難解ゆえに、日本の知識人には絶大な人気があるのをみて、著者は道元を仏教の代表選手として選んだのであろう(ネット検索のヒット数は、空海・親鸞・日蓮・法然・道元の順であるが)。また道元が仏教の正統派であるとみなして他は捨てているようであるが、大いに疑問がある。

 日本人一般は、仏教に「帰依」しているのだろうか?キリス教徒のように、洗礼・聖書備置・教会集合のような宗教的行動をせず、葬儀と法事、加持祈祷以外は寺院とは接触が少ない。「空の思想」について話を聞いてもその場限りで経典の内容を知ろうとはしないし、日常会話にでることもない。神棚はあっても仏壇のない家が増えている。日本人は辛うじて「無宗教・無神論」ではないところに踏みとどまっているというべきかな。
習俗にしみこんだ日本教としての仏教はある。これは歴史風土から来たるものであって容易に脱却できるものではない。

「文化摩擦」はどこの国でも避けられないが、学習して乗り越えられるものであると思う。
 日本の企業がアメリカに進出したとき、訴訟社会の渦に巻き込まれて莫大な授業料を払わされた。そしていまグローバル化で日本社会の変革を迫られている。司法改革もその一つであるが、反対していたのは山根二郎など既得権益を守るだけの日本人弁護士である。
日本が「仏教で文化的に孤立化する」とは考えられない。
東南アジアのイスラム圏で工場を運営する日本企業は、お祈りの時間でしばしば作業が中断するのを許容しているのである。

投稿者 dirty : 2005年08月14日 10:08

dirtyさん、コメントありがとうございます。

> 「仏教解体」は、内容から見て

作者である山根氏とdirtyさんのご意見が違う、というのはわかります。私に言われても困りますので、山根氏に直接お話をされると良いのではないでしょうか?

> 習俗にしみこんだ日本教としての仏教はある。

私も、どの宗教にも帰依していませんが、習慣やその社会で認める習俗として、宗教儀式(あるいはそれに近いもの)を許容しないと、その社会では生きていけないので、そうしているだけです。それ以上のかかわりを宗教と持つことはこれからもまずないと思います。かかわりたくもありません。私は他に忙しいことがたくさんあります。

また、dirtyさんには私の文章では伝わっていないみたいですけれど、一般的な日本人の持つ「仏教とはこういうもの」という、その観念は共有されているところがあるんじゃないでしょうか?帰依をしている、していない、ということとは別に、ね。

だから一般的に「仏教」といえば「教え」「修業」「座禅」みたいな単語が出てくる。この日本人に共有されている「仏教という観念」と、その観念を好ましいものとして受け入れている感性とか文化が、宗教の本来の姿以上に、あの本ではまな板の上に載っているのですね。その「共有された観念」の象徴として、道元なりなんなりが使われている、という感じではないでしょうか?

> 日本が「仏教で文化的に孤立化する」とは考えられない。

企業の話とかになると、その大目的は洋の東西を問わず「お金」です。宗教にも文化にも、関係ある部分もあるし、ない部分もあるけれど、現代のグローバリズムとは要するにお金を中心に世の中を回すことを、世界中の人たちが受け入れる、ということだ、と、私は理解しています。「お金」が世界語になった、という感じかな。ですから、企業の例を出すと、山根氏の著書の内容とは、ちょっとかけ離れた内容になると私は思います。ここいらへんのことは、dirtyさんと私は意見が違うかも知れません。

グローバル化すべてが善ではないと私は思いますが、「グローバル化すべてが善である」という前提に立って「グローバル化できないやつはダメなやつ」という言い方は、やはり私には一方的な物言いに聞こえます。

私はまだ司法改革の内容について、仔細に調べたことがありません。ですから、これについては私はdirtyさんのご意見もあり、山根氏のご意見もあるのだな、内容はわからないけれども、という程度の認識でいるのが現状です。

あと、山根氏と私は個人的な面識は一切ありません。単に著書を読ませていただいた、というだけです。

投稿者 nori-m : 2005年08月14日 11:11

いろいろとご意見をいただきましたが、このテーマについてはこれで終わりにしたいと思います。
情報提供のつもりで書きます。
「仏教解体」の著者は、これは「世紀の名著」であると自負しており、如何なる批判も許さないということでした。講演会を数十回開催したようですが、著書はサッパリ売れませんでした。ことし「話の特集2005」において「山根二郎かく語りき」が掲載されてネット上に多少反応が出たようです。
なおネットに下記のメーリングリストを開設したようです。

仏教解体講座
グループの説明:6年前、現代思想家であり弁護士の山根二郎が書き下ろした大著「仏教解体」は、初めての本格的かつ根底から仏教という闇のの本質を解明したことで、衝撃を与えたが、いまその衝撃波は静かに世界に波及しつつある。 日本が近代国家として再脱皮するには、どうしてもこの色即是空の呪縛から自由にならなければならないが、日本社会の現実はさらに閉ざされてゆくばかりではないか。 眼から鱗を落とした志ある人だけでいい、ここに集え。深く思考し、行動せよ。

投稿者 dirty : 2005年08月14日 14:17

dirtyさん、コメントありがとうございます。

実際、売れてないみたいですね。内容も言いたいことを真正面に言えばいいのに、繰り返しになっているところもありますから、大著とは自称されるものの、読みやすい本ではないです。

山根氏の言いたいことは、仏教そのものというよりも、日本の大衆に共有されている仏教という名前の観念のほうだと思うので、それを世界の他の国の宗教観と対比させているのは、筋としては良いと思っています。

山根氏ご本人が「いかなる批判も許さない」とは言っても、批判をする人はするでしょうし、批判を止めることはできませんから、そういうことは言わせておけばよい、というレベルの話なのだと思います。どういうシチュエーションでそのひとことが言われたのか、というのは興味がないでもありませんが。

「どんな批判でも受けて立つ」という意味で言ってるのかも知れませんね。そうだとしたら、それはそれで論客としての責任を全うするためにも、是非御願いしたいものです。そうではなくて「無視する」という意味だとしたら、どうしてそうなのかを聞いてみたいものです。

投稿者 nori-m : 2005年08月14日 16:18

コメントありがとうございます。

「仏教書数百冊を読破し確信を得たものであり、完璧なものであるから批判する余地なし」と大変な剣幕で怒るそうです。
当方からみると、こんな程度では不勉強きわまりなく思えるのですが。さらに弁護士としての資質に疑問を抱き調べています。

投稿者 dirty : 2005年08月14日 18:12