事件特報(1)
H19.2.17
監禁虐待事件

元警官、現職中に妻の両親を
         遺産目当ての監禁虐待!!


事件の概要

 

 平成18年3月まで山形警察署の警備係長として勤務し現在は退職金を手にして退職した警察官の事件である。
その監禁事件の出来事は現役時代の平成10年ころから平成14年の天童警察署勤務時代のお話です。
 この警察官は、山形県の南陽のサクランポ農家で昭和20年に生まれた。
昭和40年山形県の警察学校を卒業し警察官を拝命した者である。
昭和48年に私の妹と見合い結婚した。

 私の母親は、帯広近郊の酪農家で夫を亡くして暮して居たところへ、
山形の神社の次男が無一文で舞込んで居座って、今の父の子を母親が宿したので止む無く結婚した。
その後、二歳離れて産まれたのが見合い結婚した私の妹である。
 私の父親は、山形商業出なので酪農は、全く馬牛の扱いが下手で母親が中心に経営していた。
昭和38年頃は農地も高騰して来て宅地になりそうな時に、父親が「山形の実家で神主をしたい。」と言い出した。
母親の農地の金を当てにしている夫が、兄貴が神主の後継ぎをしているのに入り込んだ。
母親も止む無く土地を売却し山形へ移住したが、その際に離婚を考えて夫と財産分与をしていた。
 私は、山形の工業高校を卒業し東京のソニー系に就職した。
直ぐ、辞めて帯広の病院で働き、その後警察官に転職した。 
母親は、案の定夫が生活費を入れない事から将来を考えて私の勤務地の札幌へ移住し同居していた。

私は、昭和49年に道警察本部の機動隊に所属し、当時過激派の仕掛けた爆弾処理班の仕事をしていた。
その処理訓練中に私は、妬みから放射線被爆被爆事故を負ってた。
それで母親が「札幌にアパートを建てるから、退職して身体の治療したら。」と勧められた。
 私も高熱の毎日なので、母親の勧めに応じ依願退職の形で辞めた。
母は、退職した直ぐ後に「山形の代替え地と借家を売却して来る。」と札幌から山形へ戻った。
  しかし、その売却に妨害して母親の預金や土地の財産を狙って奪ったのが、妹夫婦である。
この娘夫婦は、札幌への移住に反対し毎晩戻った母親が居た稲荷神社に押掛けた。
神主の父親も、反対し母親の土地へ勝手に建築業者へアパート建築の図面を契約して阻止した。
 その為母親は、土地の売却できなくなり止む無く新築後に纏めての売却を考えた。
昭和55年までの間に、自宅用の建物と隣にアパートを並べて新築し、その建築業者に広告を出し売却を図った。
  しかし、この売却を阻止する為に稲荷神社社務所の生活から夫が、新築住宅へ移り居座った。
娘の妹夫婦も、その自宅用の建物の二階へ引越しをし居座り始めた。
そして母親に対して、札幌への移住を断念するように娘夫婦と父親の三人で責め立てた。
その間、母親のアパート家賃収入を当てにし妹夫婦や夫で母親から無心した。
昭和51年から平成2年の母親が倒れるまでの間、母親がその無心の状況を隠れて日記に記録していた。
 昭和62年、妹夫婦は居座っていた実家の二階から出てた。
山形市内の中桜田に広い土地を買い家を新築した。
平成2年2月17日、娘夫婦が毎晩押掛け遅くまで寝かせないで母親を責め立てた事が原因で倒れた。
そのストレスから糖尿病を悪化させ失明したのである。

 その倒れた当日の深夜、娘の妹が実家へ押掛けた。
寝ていた母親の枕元の全財産の入った「手提げ」を盗みに入った。
しかし、母親が気が付き「何する。」と言って手提げのベルトを引っ張った。
その手を叩いて手提げごと全財産を強奪して逃げた。
その時、別の部屋で寝ていた父親は、その騒ぎに対して一切知らぬ振りしていた。
母親は、サイフの現金から預金通帳、家賃振込み預金通帳、土地の権利書、実印など全て奪われた。
所持金が無く札幌への逃避も出来なくなった。


 それから以降は、娘夫婦によって拘束された。
私との電話連絡されないように妹夫婦の自宅に連れられて監視された。
その平成2年の秋には、母親から奪い盗った預金からお金を引き出して「離れ。」を建てた。
妹夫婦の中桜田自宅横に六畳二間だけの監禁用住宅には、風呂も台所も洗面所も無かった。
妹夫婦が「離れ。」と呼んでる監禁用建物へ直ぐ、無理やり母親を監禁した。
父親も娘夫婦に協力する立場を取っていたとから母親を助けようともしなかった。
妹夫婦は、「私達の言う事を聞かないと承知しない。」と脅していた。
「札幌の亨君が来ても、一切余計な事を言うなよ。」とも強与し脅迫していた。
私や親戚の者が実家へ立寄りそうになった時には、中桜田から母親を松山の実家へ戻してた。
そして実家で付き添い介護を妹夫婦が装っていた。
平成5年に私は、東京に出張し帰りに事前に電話し実家に立寄った。
母親が実家の奥の間のベットで寝かせられていた。
 この時、ベットを高くして布団に妹が片手を母親の胸に入れていた。
後で、隠れて母親の脇を見たら抓られた痕を私は、見ている。

 平成7年札幌で自営していた「北海道警護サービス」や「日本特捜探偵社」の会社の本社事務所としていた。
実家へ移転し私は、両親を見る為に帰った。
ところが、妹夫婦は母親と一切逢わすこと無かった。
妹夫婦が「母親が札幌へ帰れと言っている。」と言って話もさせなかった。
 父親にも「亨を札幌へ帰らせれ言え。」と妹夫婦から強与され反対させられていた。
その頃の父親は、既に神主も他人へ引き渡していた。
昼間から茶の間の食卓のテーブル下で真っ暗にして寝るなどの異常な行動していた。
 この状況や妹夫婦が押掛けて「札幌へ戻れ。」と騒ぐので止む無く又、元の本社へ戻した
当時の母親は、眼の治療し徐々に歩き回れるようになっていた。
妹夫婦の監視や無一文で自由な行動を取られなかった母が言う。
平成10年ころには、父親もボケが酷くなり「離れ。」へ連れられて母親と一緒に監禁監視される状態だった。
その頃から既に、父親の預金通帳や株券、恩給年金も盗まれていたことが判った。
そして、親戚や職場に措いても「息子が親の面倒を見ないから私達が世話している。」と言い触らしていた。
当然、私には親戚関係の一切冠婚葬祭などの連絡も無かった。
私が両親へと毎月海産物を送っていた品物も全て盗み取っていた。

 平成12年の西暦2000年問題で、コンピューター誤動作の恐れから富士銀行山形支店から私に連絡が来た。
母親が私名義で380万円預金していた。
380万円が「父親が来て渡せと言って聞かないので、卸に来て欲しい。」と言う内容の連絡が来た。
 私は、山形へ来て銀行で事情を聴くとにした。
母親が「三人の子供さんに、平等に同じ金額を預金されていたお金です。」と言われ卸して帰った。
妹にも連絡されたらしく、同じく母親から受け取ったが、それに不服で父親から400万円を盗ったことが後で、判った。
この頃から、札幌の私の身辺で次々と色々な出来事が起きた。
その一つに、特定郵便局ビルの三階で構え住宅を兼ねて事務所を借りていたが、その一階の入り口に放火され、電話回線が焼かれたのでした。
 その為に、補償問題で結局事務所を豊平区の平岸へ引越しすることになりました。
その他にも急に嫌がらせのさまざまな事案が多く有りました。
平成13年の12月始めに、母親との連絡が全く取れないことから、帯広の私の父親違いの姉に電話をした。
 姉との話から、母親がお盆過ぎから姉の家に来て居ることが判ったので、直ぐ私は帯広へ向かった。
母親は、姉の家の以前地下だった部屋が棟上されて一階に改造されてた。
そこへベットや生活用品を揃えて生活していた。
姉も一緒にベットを置いて世話していた。
それは、母親が札幌へ逃げないようにする為だったことが後で判った。
久しぶりに私は、母親と逢い「札幌へ早く戻って暮そう。」と話した。
喜んで「このまま直ぐ札幌で暮したい。」と母が言った。
師走なので私は、ゆっくり母親と温泉や以前の酪農して居た場所など母親を姉と連れて楽しんだ。
その間に母親の態度が変なので問詰めたら、妹夫婦から財産の入った土地の権利書などや実印を盗られてた。
 しかし、その時には監禁されていたことや暴力を受けていた事は言わなかった。
公証人役場へ連れ回されたので逃げて来た事は、話していた。
それを聴いた私は、山形へ調査に行くと母に言ったら「私も行くと姉が言って二人で山形へ向かった。

母親の土地など調べたら自宅建物が父親との共有になり、又山林が父親名義になっていたので驚いた。
山形での一日目は、お墓へと二日目に初めて妹の自宅と「離れ。」を姉から案内された。
妹が自宅に居て私は、「母親から盗ったものを返せ。」と怒ったが、「預かっただけだ。」と言い話が食い違った。
そこへ姉が仲裁に入って「私に任せな。」と言うので私は30分位離れていた。
 結局、後で返すとの事で、姉と帯広へ帰った。
後で、最初から姉と妹は電話で話し合って居たので私が騙されていたことが母親から聴いて判った。
 この後、私は札幌へ戻り母親からの頼みから妹に対し、アパートの今まで盗っていた家賃の返還や盗った金品全てを内容証明付きの書面で求めた。
妹から全く返答が無いので妹の夫が警察官なので、勤務先の天童警察署所長に連絡した。
効果があって、12月30日午後6時過ぎに父親を同行し妹夫婦が帯広の姉宅へ飛んで来た。
 しかし、土地の権利書と実印だけを置いて30分も居ないで帰った。
この時、私はには父親から自宅の共有名義のことから山林の名義が、母親の名義に全部なっていないことに関して聴きたかった。
だが、父親が姉の家に入るなり「25万亨、返せ。」と怒鳴って繰り返していた。
私は、父親から借りていないので、父親の叫んでいることが判らなくボケが酷くなっているので何も聴けないで帰した。
 その後、正月明け落ち着いてから札幌へ私は、戻って不動産の仲介業者に頼んでバリヤフリーのマンションを探して契約し帯広へ戻った。
 
 姉の家に、母親を迎えに来たと入ると、姉が「母さん札幌へ行かないって。」と言い、母親と逢わせようとしなかった。
私は、姉を母親の替わりのように信じていたので「母親の本当の意向なら、それなら仕方が無い帰る。」と言った。
札幌へ帰ろうと時間待ちしていると、姉が「母さんが如何しても最後だから駅まで見送りをしたい。」と言うので一緒に送る。」と言い送って貰った。
その帯広の駅で、母親と別れる時に私が耳元で「元気に暮しててね。」と言うと「亨、山形へ戻ったら●●●に殺される。」と言った。
 私は、そんな冗談をと言って分かれた。
その後、母親が「余計なことを亨に言った、この口が悪い。」と言いながら姉から拳骨で頭を3回と口の横ホッペタを抓られた。
母親は、拳骨も抓られたのも本当に痛かったので、「お前、娘が親に何する。」と言い返して泣いたと私に、後で話した。
翌日、食事もしないで山形へ無一文のまま飛行機に乗せられ戻され、それを待ち構えて妹夫婦が迎えに来て又「離れ。」に監禁した。

 それから「帯広に嘘言って行ったし、亨君に余計な事を喋った。」と妹夫婦が怒って「一週間食べさせないから。」と言われた。
妹の夫警察官から、母は背負っていたナップサックを引き取られ叩かれた上に、又権利書し実印を盗られた。
その後、6日間何も食べられなく過ごし帯広から一食もしていなかったので、三日目には目まいして動かれなかったと母が言う。
監禁から6日目の午後3時過ぎに、50過ぎの女がお茶を湯の御に一杯入れて差し入れしてくれたと言う。
その女が白い歯を出して笑ったので判ったが、平成13年の初夏に妹夫婦から公証人役場へ連れ回された時の証人の妻だったことが判った。
 それから母親は、意識をうしなってしまい気がついたら山形大学の付属病院のベットの上で治療を受けていたと話した。
私が平成17年10月に来た時には、既に平成16年10月に山形徳洲会病院へ転院されていた。
その山形の公証人役場へ連れ回された時の話は、妹夫婦が母親に「全財産を●●●に全部遣ると公証人の前で言え。」と脅された。
母親が「札幌の亨に渡すから、お前等などに遣らない。」と公証人の先生に言った事から、公証人役場を出た後で叩かれた。
 その時に、大嶋夫婦の証人妻が白い歯を出して観て白い歯を出し笑っていたと言う。
その暴行の場所は、公証人役場の近くであったが判らなく、そこからすぐ自宅戻され「離れ。」に、監禁されていたと私に話した。
この証人夫婦は、後ほど平成14年96日、同じ公証人役場で口答遺言公正証書を妹●●●と父親との証人であった事が判った。
大嶋証人の夫婦は、公証人役場の側で居酒屋を開店している事から、その店内と私の推測で考えられた。
この断食監禁虐待事件で私は、平成19年に山形警察署に私が届け出たのが数日遅く時効になっていた。
父親は、わたしが平成17年10月8日山形へ移住して来た時には、既に数年前から「さくらパレス」と言う妹の自宅から近い老人施設に居た。

 そして、平成17年12月4日に私が父親に午後3時20分から10分程度逢って話し帰った後、直ぐに妹が逢いに来ていた事が判った。
妹が約2時間父親の個室に妹が居て、午後6時近くに帰った30分後に担当の介護士が心肺停止している父親を発見し妹に電話したと言う。
私と逢った時には、一週間前に腰を骨折しベットで寝て動けない状態でも、風邪も治り元気に話していた。
それが死因は、呼吸不全と言う診断である事から不自然死で、私は司法解剖を担当医に嘆願したが聴きいれられなかった。
 妹に、二時間も居た当時の状況を説明を聴いても一切答えない。
父親の葬儀に措いても、親戚関係者の全員を私の居る実家から遠く離れている西蔵王のホテルに全員送り込み立寄らせ酢に帰した。
私は、葬儀の3日間一人で父親の遺体を守り一睡も出来なかった。 親戚の方々が「借金して失踪したと●●●夫婦から聞いていたので連絡しなかったし、年賀も出さなかった。」と教えてくれた。
母親に、この状況を話したら「爺ちゃんは、口を塞がれたか無理やり何か飲まされて殺されたのだ。」と言う。
なお、父親が他界する二日前の12月1日の同じ時間帯に父親と話をした時に「●●に騙されて全部盗られた。」と教えられた。
それに対して、私は「何を盗られた。」と聴いても答えなかった。
次の日に妹から電話が夕方あったので聴いたら「爺ちゃんボケているから。」と切った。


私は、平成14年の12月9日札幌での借家損壊での損害賠償請求の訴訟をするのに3年目の時効が近かった。
その為に、札幌地方裁判所への提出期限が迫っている事から必死に書類作成に忙しく5日に札幌へ向かう予定で居た。
私の訴訟に対し、妹が「そんなの辞めな。」と辞めさせようとしていた。
それは、妹が訴訟される被告の大家に対して「壊して欲しい。」と150万円を支払って頼んでいたのでいたからであった。
平成18年に入って、妹がアパート家賃の引渡しも無く母親の一切の権利書や実印などの返還をしないので私が母親と相談し請求した。
 しかし、母親の強奪した金品も父親の預金通帳など一切、返還に妹夫婦が応じなかった。
母親が妹が返さないので怒って「全部、婆ちゃんの財産の名義を変え渡すので公証人の先生を、このことを録音して聴かせて呼んで欲しい。」と言った。
私は、録音機器を買って母親の意向を録音して山形公証人役場の公証人 三浦宏一氏に聴かせた。
公証人は、「確りしているから構成証書を作成するので証人二人を揃えて欲しい。」と言われた。
 私には、直ぐ山形で頼めれる人が居ないと答えたら、公証人から大嶋夫婦の紹介を受けた。
その作成前に、公証人が私に母親の実印の改印と住所が妹のところへ勝手に移動されているので戻して欲しいと言われた。
私は、改印の証人に大嶋夫婦の夫に頼み実印を作った。
住民票の取り戻しは、山形市役所の住民課 鈴木 淳一担当官が直接母親から事情聴取して戻した。
この時に、既に大嶋夫婦から妹夫婦に連絡され妹が知って、山形地方裁判所へ母親の成年後見人手続きを申立てた。
 私は、公証人と2月3日以降に作成する約束をして、札幌地方裁判所に損害賠償請求の訴訟を遅れながら起していたので第一回目の公判に行った。
 
その後、帰ったら山形家庭裁判所に妹が相続を妨害する為に母親の山形徳洲会病院の内科担当医から認知症の診断書を取っていたことが判った。
それで公証人での遺産相続公正証書の作成が出来なくなって妹の審判裁判の被審問人にされた。
妹の申立が却下され弁護士が選任された。
 母親は、その選任弁護士に直接逢って意向を伝え遺産を私に全部渡して名義を変えようとしたが弁護士は、逢う事も無かった。
私は、平成18年3月に直ぐ妹を調停に掛けたが全く代理弁護士を立て応じなかった。
その後、母親の弁護士の解任の手続きを妹の恐喝や暴行を容認していたり意向を聴き入れないことで解任手続きを取った。
平成18年10月に突然、妹の代理弁護士から父親が平成14年に口答遺言の公正証書を作成している内容と目録が届いた。
 私は、何故他界した後の間がない期間に言わなかったか憤慨していたが、預金金額も少ない事から、遺留分の請求訴訟もしなかった。
母親は、平成19年1月まで入院先の病室内に措いて妹夫婦から「私達の言うとおりに言え。」と脅され暴行を受けていた。
 この後、平成19年2月に妹が「実家の建物は、父親が全額出資していた。」として建物明渡し請求訴訟を山形地方裁判所に起した。
それにより仮執行が行われたが私と、二階に住む●●洋子さんは、そのままの居住が認められた。
その事を母親が全て私に告白した事から、私は毎日早朝から夜の面会許可時間まで警護にあたった。
 突然、平成19年9月13日の私が帰った後の深夜に後見人弁護士が退院させて、妹夫婦に搬送を頼んで母親を現在の特別老人ホームに入居させた。
 
私は、母親が一番恐怖を感じている妹夫婦に搬送させた事案で裁判所に抗議し解任を早急に求めた。
平成19年12月に解任請求の山形家庭裁判所の判決が下り棄却された。
平成19年12月3日、山形地方裁判所から「建物明渡し請求」の判決が下った。
 しかし、建物明渡し請求訴訟に関しては、母親と父親の金銭貸借が口答だけなので証拠も無く抗告しなかった。
私は、弁護士解任に対しては、すぐ即時抗告したが仙台高等裁判所の判決も棄却された。
平成20年1月に、私や●●洋子さん共に実家建物から隣の母親のアパートに、それぞれ引っ越し明渡した。
平成20年現在までに措いて、妹の警察官夫婦が父親から騙したり盗んだ金額は、スーパー定期預金していたのを総額2750万円以上になっている。

 母親からは、「離れ。」の自宅横の建物や日記帳から子供二人の大学費用から新車の自家用乗用車まで全て盗んだ預金から引き出し使い込んでいることが判った。
その他に、私を困窮さらる為の様々な工作などに水戸市の荻谷昭夫と言う名のヤクザ系の男を使ってしていたことが明らかになってた。
この夫婦の母親や父親を監禁し預金通帳を盗んで使い込んだまでの概要である。
この後、これらの詳しい経過を順次致します。
   

娘夫婦で遺言の
強与・暴行事件

公証人役場へ連れ回し全財産渡さない
と怒り罰に一週間 断食の虐待介護!!

 


父親が平成10年頃に入ってから少しずつ認知症の度合いが酷くなり掛かっていた。
父親の「離れ。」から逃走の心配は無かった。
確りしていた母親を札幌へ逃避させない為に、平成13年には両親二人を「離れ。」に完全に監禁した。
 その二人に対して一日の食事を母親の糖尿病を理由にして業者へ委託していた。   
一日二食のスプーン3杯程度約50グラムのお粥に味噌汁を湯のみ茶碗に一杯に限定して頼み込んでいた。
なお、食事の時間やオムツの交換の時間を午前10時と午後5時にしていた。
全て業者を使って配達させたり最低の介護をさせていた。
 これらは、母親の告白証言から明らかになった。
 介護や配食の業者の方も母親が助けて欲しい。」と言っても信用されなかったと母親は言う。
最低の食事の待遇監禁から一週間もしない間に空腹から直ぐ眼が回って立てなくなった。
ベットで二人共、歩く事も出来なくなった。
父親は、ガラス割って逃げられるのに助けなかったのはボケて一日中「25万返せ。」と叫んで居た。
最初は、ベットの下に潜って居たと言った。
二人は、ベットへ横たわる日々を過ごすようになって、その後には排便排尿にも立てた。
業者のオムツの介護を受けさせられた。
 風呂に関しても妹が必ず監視し妹の自家用車やデーサービスの車両を呼んで妹が監視に付き添った。
一ヶ月に一回程度同じところへ連れて行かれて介護業者に洗ってもらった。
妹の娘からは一度も風呂も食事も介護して受けたことが無いと母親は告白している。
 ただ、指爪や足の爪切りに対しては、「私の言うことを聞かないと承知しないぞ!!」と脅された。
業と深爪されて痛くて何度も泣いたとがあったと告白している。
そして耳糞に関しては、わたしが母親の何年も一度も掃除していない詰まっている耳掃除をして証拠にした。   
 意図的に、ボケたようにするのに聞き取れなく詰まらせていたことが判った。


 

父母への虐待の一方!!
私にも保証人の立場を利用悪意 !!


山形の土地を売却に帰ったまま帰らないので札幌でそのまま待っていた。
その後間もなく私は、母親から300万円を借りて身体の楽な喫茶店を買い営業した。
放射線被爆の後遺症で毎日熱のある身体で治療しながら働いていた。
昭和53年4月に3件に店を増やしていたが、全ての喫茶店を売却した。
そして、その資金でボデーガードの警護会社と探偵調査事務所を創業し始めた。
探偵社の業務の一環として「ペット探索」を北海道で始めて事業に組み込んだ。
その為に、犬猫の保護施設が必要になった。
止む無く手間が掛かるので営利業務からボランティア活動に切り替えた。
「北海道犬猫救護センター」の「ニャンコ先生の家」と名称を掲げた。
約50人のボランティアさんを集めて施設を運営した。
それが丁度、平成5年ころから本格化して平成7年頃には、保護団体としても認められた。
北海道のテレビや新聞などマスメデアで取り上げられて保護施設の犬猫が増え出した頃である。
当時、札幌市中央区の特定郵便局のビル3階で本社の事務所があった。
他に北海道内に3支所と東京池袋に支所1ヶ所設けていた。
そろそろ任せられる所員も多くなったので私は、実家二階を事務所を本社を移動した。
だが、父親や妹の妨害で又、戻し営業した。
この時から、私の身辺に色々な妨害問題が起きたが妹夫婦が絡んでいたことが後で判った。
 平成10年頃から、インターネットでの誹謗中傷から徐々におおくなった。
ボランティアが集まらなくなって施設の維持管理も難しくなった。
新篠津村から施設も札幌へ分散して戻し、又保護施設を移動することになった。
移転に際しての時期に、丁度山形の私の実妹夫婦から手紙が来たりしていた。
その理由は、「両親の財産のことで話し合いたい。」とのことでの電話や手紙であった。
 このころから既に、父親の財産のスーパー定期預金を妹夫婦は、盗っていたから気にしていたことが判った。
そんなやり取りの中で、私は妹に借家の保証人を頼んだ。
簡単に引き受けて貰い豊平区霊園駅近くに床の抜けている古い家を不動産紹介で大家と逢うこと無く借りた。
この場所は地下鉄に近いけれども既に床が抜けて雨漏りする欠点から何年も借り手が無く放置していた家であった。
当然、犬猫の飼養も治療などをすることの許可を得ての契約書であった。
 しかし、1ヶ月経過したころから直ぐ頻繁に110番通報や大家へからの近隣の苦情が来たとの電話が何度かあった。
そんな何者かの嫌がらせが始まった。
近隣の人からの話で、この借家の大家さんが問題でヤクサ系の人と聴いた。
「早く出る方が利巧だ。」と教えて貰った
一ヶ月後経過してからクザ風な男が来た。
「大家だが、床や雨漏り直す金を出して出れ。」と真っ赤なボルボに乗って来た。
ボルボの赤に、赤い靴を履いて現れて来て、「お前とは話にならない保証人から金取る。」と言った。
私は、妹夫婦に相手にしないように連絡して措いた。
その後、直ぐ勝手に妹夫婦が相談も無く大家に60万を支払処理したと言って連絡が来た。
そこから次の引っ越しする際も、妹が保証人になって遣ると言い保証人になった。
後の借家も家主が壊すほどの雨漏りする家だからと貸した家だった。
貸した大家も借家の庭に来て犬が欲しいと見に来ていた。
ある日突然、同じ人から110番通報が一日10本も苦情が来ていると通知警察からあった。
施設は、隣近所が駐車場で犬猫の騒音も臭いもしなかったのに誰かの嫌がらせだった。
そんな時期に、大家の弟と名乗る電話で借家の土地にアパートを建てると言って来た。
また、少し経過したら弟さんから契約無効なので家賃を姉に払わないで立退きを要求して来た。
私は、直ぐ大家に電話したが今まで通りに支払って欲しいと言われたが、家賃を分割にして様子を見た。
 その後、急に大家が態度が変わって来たと思ったら犬猫の苦情からの「建物明渡し請求」の訴状が届いた。
裁判では、和解となり犬猫保護施設を見つけて、引越しが全部終わったら鍵を渡す事で話が決まっていた。
その後、何故か保証人の妹が札幌に来て、借家の大家と逢っている情報が入って来ていた。
 そして借家を私が出張して留守の間で犬猫を移動した後、直後に勝手に建物全部損壊させられた。
それが、平成14年12月9日だった。
裁判の中で、妹から「150万を支払うから壊して欲しい。」と大家に頼んでいたことが判った。
私は、全ての家財道具と探偵機器や警護機材にパソコンとデーターを失った。
 当然、依頼者に対しての違約金の支払が生じた。
 こんな事から、母親から貰った380万円も無くし、それ以上に支払に借金を抱えた。
それから仕事が機材も無くし家出人や盗難車の探索などの仕事が中心になった。
必然的に社員も減らし収入も少なくなり、保護している犬猫のエサ代に困った。
札幌市の大通りで街頭の寄付金集めながら盗難車や家出人の探索をした。
 更に、犬猫施設を南区の藤野へ移動しても嫌がらせの110番苦情が連続した。
そこも大家へ直ぐ苦情が行き又、引越しを止む無くされた。
札幌市から離れ北広島市のトタンの作業場を保護施設にした。
 しかし、そこは半年で積雪になり潰れてしまい又、札幌市内の盤渓へ引っ越した。
そこは、盤渓のそば屋がボヤで飼っていた犬猫を引き取ったところの娘さんが以前借りていた借家であった。
 もう水道もないボンプで沢の水を使用していたようであったが、もうポンプも壊れていた。
壁も剥がれていたり雨漏りもしていた壊す予定の家だった。
その家を股貸しの形で一万円で借りて施設にした。
この頃は、既に里親に犬猫を貰われて行き数は、減っていた。
ここから茨城の水戸市の荻谷昭夫こと「遠くのご隠居」がネットの掲示板に現れたのでした。
妹から「150万を支払うから壊して欲しい。」と大家に頼んだことが判った。
 この平成14年12月の借家損壊事件の頃から北方ジャーナルの嘱託記者の小笠原が付き纏い始めた。
その記者の記事の私の写真が、山形の実家に置いてあった中学時代の写真で誰にも渡していないものだった。
 未だに、その男が掲示板を別に立ち上げて誹謗中傷しているので内容をご覧下さい。
私は、もう犬猫の保護活動もしていないのに全く無関係な妹との問題に加担している。
 この男から、●●洋子さんが札幌で私が損害賠償請求の裁判中に自宅で傷害を負された。
札幌白石警察に訴えた男であった。
その時の精神的な後遺症から私が、警察の勧めで山形に呼んで警護をしている。
 その為に、監視カメラなどを設置した。
この男に、私も公判に出頭する時に待ち伏せられて拉致されるところをした。
後に、この男の水戸市から札幌へ乗って来た車は、トヨタランドクルーザーだった。
札幌地方裁判所で私も白のRV車で見ている。
その車は、妹夫婦から新車を買っても貰っていたことが判った。
妹と荻谷は、深く関係していることが判った。


母親セツが帯広の娘へ逃避


 平成13年の10月ころ「離れ。」で監禁されていた母親は、「このままなら娘夫婦に殺される。」と思った。
何とか嘘を言って逃避を謀った。
それで最初に結婚し死に別れた先夫の長女が北海道帯広市の酪農して居た。
側に嫁ぎ住んでいるので娘を口実に利用した。
妹に母が「婆ちゃんが死ぬ前に一度、逢って措きたいので帯広●子に逢わせて欲しい。」と頼み込んだ。
渋々と妹は応じて帯広へ飛行機で同行し連れて行ったと母が言う。

この帯広の父親違いの私の姉は、仲が良くい。
警察官時代から、頻繁に出入りし実家のように泊まりに行っていた。
この頃は、暫くお互いの連絡が無かった。
平成13年12月に始めに私から姉に電話した。
母が帯広に居る事が話から判った。
それを聴いて直ぐ、私は帯広の姉の家へ札幌から向かった。
そして久しぶりの母親との対話をすることが出来た。

帯広の姉の家は、帯広市内の競馬場近くに位地し、同じ酪農家の隣へ嫁いだ。
早くから住宅や商店街の開発が進み土地が高騰していた。
帯広市内でもニトリ家具などの大手が店舗を出して、姉の家は土地成金になっていた。
母親は、何とか帯広の娘の家へ逃避したが山形の娘と帯広の娘が共謀していることを察してた。
私が母親に逢いに帯広の姉の家に着いて泊まっても姉も同じ部屋にベットを置いて監視していた。
姉が必ず監視している状態の中なので、母親も山形の娘夫婦から財産を奪われた事情をなかなか話さなかった。
しかし、様子がおかしいので私が母親を問い詰めた。
母親が「土地の権利書や預金通帳、実印など盗られた。」と話した。
それを聴いてから直ぐ、姉と私は山形の土地が売却されていないかなどの調査に向かった。
それまでの間、母親や姉と帯広の温泉や母親が最初に結婚して苦労した帯広市音更などへ泊り掛けで楽しんだ。
この時はすっかり回復し糖尿病も良くなって太って杖を突いて一人で食事も排便も自分でしていた。
 妹夫婦は、この頃は既に脳梗塞で下半身付随になっていたと裁判で申立ていた。

 

山形の妹夫婦と帯広の姉が事前に共謀して
姉が私と山形調査へ同行!!

 


  私が母親から土地の権利書や預金通帳、実印など盗られていることを聴いた。
母親の頼みから財産の入った手提げを取り戻す為や土地が売却されていないか等を調査に山形に向かった。
帯広の姉も「私も一緒に行く。」と言い出して同行した。
山形へ着いても直ぐ、私達は妹夫婦の自宅へは行かないで山形駅前近くのホテルに宿泊した。
市役所で土地が売却されていないかの調査から始めた。
ホテルでの姉からの話で初めて母親が妹夫婦の隣に「離れ。」を建て母親が生活していたことを知った。
既に我が家の家のお墓を山形の市内に建てていたことが判った。
一日目にお墓を姉から案内された。
母親の土地が売却されていないことや松山の実家の建物が父親との共同名義で登記されていない事が判った。
母親の山林が父親の名義で登記されている事も調査から私は知った。
調査も終わり最後の山形を離れる日に、妹夫婦の山形市中桜田の自宅へ姉から案内されていった。
妹と逢って母親から盗んだ手提げのガバンの要求をしたが、拒否された。
その理由は、預かって欲しいと頼まれたと言って返さなかった。
姉が割り込んで来て「私が話しするから二人にさせて欲しい。」と言い出した。
私は、姉を信じて任せておいた。
妹と約30分程度話していたが結論がでないと「後で母親へ届ける約束をしたから帰ろう。」と私に姉が言った。
私も、それに応じて帯広へ帰った。
この時、姉の案内で廊下続きになっている「離れ。」の建物を初めて見た。
母親が暮して居たと言う部屋には、バリヤフリーも施してなく台所も風呂も無い部屋だった。
また監禁用に考えたのか窓も茶の間に一箇所しか無い部屋であった。


  

ボケた父親を同行して妹警察官夫婦が帯広へ
母親へ土地の権利書と実印を返還へ




 山形から帯広へ姉と戻っても妹夫婦から返還に来る連絡が無かった。
母親と相談して妹警察官夫婦に対して内容証明の手紙を郵送し返還を求めた。
一週間が経っても返事が無いので、妹の夫の警察官が勤務している天童警察署長に連絡した。
山形県警本部の友人を通して相談して返還を求めて再び要求した。
平成13年12月30日の午後6時30分ころ突然、父親と妹警察官夫婦の三人が帯広の姉の家に来た。
母親の土地の権利書と実印だけを投げ捨てるように置いて30分もしないで立ち去った。

 母親の土地の権利書と実印だけを投げ捨てるように置いて30分もしないで立ち去った。
父親が「25万円貸したの返せ。」とか「25万円を貸せ。」とか訳の判らないことを何度も叫んでいた。
後で、25万円は「釣堀の工事費」と判った。
妹は、母親に「婆ちゃんが預かって欲しいと頼んだから預かっていたの忘れた。」と言って母を責めた。
母親は、盗んだと主張していた。



母親の札幌へ行きに脅し
母親へ山形へ帰ると 強与!!



その後、私は母親の居る帯広へ札幌から向かった。
平成14年1月の末までに間に、三往復した。
母親は、写真の奥のトイレ通路の右にベットを置き寝ていた。
姉は、私の横で寝ていた。
母と話する時には、必ず姉も側で聞いていた。
母親と札幌で一緒に暮らす準備などの話などした。
私は、札幌へ正月休みのあけるのを待って札幌へ戻った。
不動産屋を走り回りバリヤフリーのマンションを探した。
帯広へ戻った。
 

 この時には既に私が母親から離れている機会を利用し妹夫婦と姉とが結託していた。
母親を脅し「亨が札幌から来ても札幌へは行かないと言え。」と強与した。
「札幌へ行ったら、必ず 亨 の居ない留守に行って酷い目にあわせるから覚悟していな。」とも言った。
妹から何度も姉の携帯電話に掛かって来て姉が、母の耳元に着けて聞かして脅した。
後で母親から告白された。
私は、マンションを契約して帯広へ母親を迎いに行った。
姉が「婆ちゃんは、お前と一緒に札幌へは行かない。」と言っていると私に言った。
 「逢わないと言っている。」と嘘を言い私に逢わせようとしなかった。
母親は、姉の家の以前地下室だったところを桁上げして一階へして改装していた。
部屋に姉と一緒に寝ていたが、母親を二階へ連れ去り鍵を掛けて逢わせようとしなかった。
私は、諦めて札幌へ帰る為に時間待ちをしていた。
二階に居た姉に、母が「もう死ぬまで逢えないので最後に亨を見送りさせて欲しい。」と頼んだ。
母と一緒に送って行くと姉が二階から降りて来た。
姉は、運転する自家用車に無理やり母親を同乗した。
帯広駅へ三人は、向かった。

見送りの帰りに母親が帯広の娘からも
拳骨や抓られる暴行をされた!!

 帯広駅構内で母親が歩くのが遅いと姉の娘が、母親の車椅子を借りて押し私の乗る列車を待った。
その際に、母親が札幌へ戻る私に「山形へ帰ったら山形の娘に殺されるな。」と不意に話し出した。
私は不信に思った。
「婆ちゃん冗談でも良いけれど、もう生きて逢えないかもしれないね。」と涙くんで言い返した。
「母さんが札幌へ来て暮したくないと言うなら俺も仕方が無い帰るさ。」と私が言った。
「元気に何時までも長生きしてね。」と手を振って時間前に、車椅子に乗っている母親と車椅子を押す姉と別れた。
ホームに入らない前の通路で、別れホームに向かった。
 母親は、最後に助けに来て貰えると信じて私に言った。
別れて手を振り見えなくなったところ、直ぐ人目に付かない場所に車椅子姉が移動した。
姉が、「余計なことを喋って。」といきなり拳骨で3回頭を叩き、その後で母の口元をおもい切り裂けるほど抓った。
母が、「痛い。」と言い「親に向かって何する、この馬鹿者。」と叫んだ。
母親が娘の●●を怒ったと言う。
後、直ぐ山形へ連れ戻された。
一週間も口が腫れて痛かったと告白している。


 

帯広への逃避と息子へ話したことに対しての
母親へ厳しい妹警察官夫婦の制裁

 
 帯広へ逃避した母親を又脅して札幌の私と暮そうするのを娘の警察官夫婦が妨害した。
山形へ帯広の姉の家から食事もさせないで姉は飛行機に無一文で母親を乗せ送った。
 それを山形空港まで山形の娘の妹警察官夫婦が待ち受けた。
そして、母親が山形へ着くなり直ぐ妹夫婦は、自宅の「離れ。」へ入れた。
母親が背負って持ち帰った土地の権利書と実印の入ったナップサックを取り上げた。
再び又、妹警察官夫婦が手に入れた。
その後、母親に対して「私達に嘘を言って帯広へ逃げて、この恩知らずが許さない。」と言った。
更に「亨へ余計なことをベラベラ喋って罰として一週間何も一切食べさせないからね。」と言い再度監禁した。
当時、同じように父親も「離れ。」に入れられていたと母親が告白する。


息子が必ず助けに来ると信じて
待ちに待った・・・と涙流す母



 母親は、帯広から何も食べていなかった。
平成13年の夏に公証人役場で娘警察官夫婦から公証人へ言うとおりのことを言わなかった罰られた。
この時にも一週間の断食をさせられたが、今回は最初からお腹が空いていた。
三日目には全く立つ事も喋ることも出来なくなったと告白した。
「きっと帯広駅で亨に山形へ帰ったら殺されると言って別れたので、必ず迎えに来て助けてくれる。」と信じた。
私に涙を流しながら告白した。


公証人役場の時の証人夫婦の妻が
断食6日目に母へお茶の差し入れ!!




 平成14年9月6日、父親が口答遺言の公正証書を妹との間で作成した。
その大嶋夫婦の妻でもあり、又母親が平成13年夏に山形公証人役場へ妹夫婦に連れ回され時の証人だった。
その妻の方が監禁されている「離れ。」へ6日目の午後3時過ぎに突然現れた。
湯のみ茶碗に一杯のお茶を持って来て一緒に断食させられて寝かせられていた父親と二人に飲ませて帰った。
この時には、もうお茶も自分で飲めなかったと母が告白した。
 この時に一杯のお茶を飲んでからは記憶が無くなり気が付いたら山形大学の付属病院と後で判った。
「ピーポーピーポー」と一日何回も救急車の来る病院だった。
 平成16年に山形大学付属病院へ再入院したらしく平成14年度の入院資料は、5年以上経過している事から無かった。
私が調査してもそれ以前のことは判らなかったが、平成16年に入院した診断書は、入手できた。
この大嶋夫婦の夫は、母親の実印を改印するにあたっても証人で私は、2万円を払った。
 その妻であった。
母親の財産をで公証人へ行った時に、公証人が証人二人として紹介した夫婦でもあった。
父親の平成14年の口答遺言の時の証人でもあった。
 妹とは、その関係から何年も知っている関係の夫婦であった。

 

山形徳洲会病院へ転院させられ、更に、共に移動した
その看護師等や担当医へ賄賂を!!


 山形徳洲会病院が開業したのが平成17年10月である。
それに合わせて母親は、山形大学付属病院から母親の担当看護師や介護士と共に転院させられていた。
 従って、妹夫婦は山形大学付属病院の時から母親の担当看護師や介護士達に賄賂を使っていた。
その賄賂を使っていた事は、妹自ら渡しに母親へ逢いに平成17年10月9日山形徳洲会病院へ向かう時に言った。
「この病院は、特別に看護師や担当医に多額のお金を包んるから退院させられない。」と私に話した。
「だから亨君が勝手に退院させようとしたり、外出させる事は、私達の許可がなければ出来ない。」ことも言われた。

 

父親が他界前に 「騙され全部盗られた。」と
私へ告白!!




 平成17年12月1日、他界する二日前である。
時もの時間午後3時20分ころ私は、父親が入居している「さくらパレス」の二階個室へ入った。
一週間前に転んで腰を骨折しベットに寝ていたが、風邪も良くなっていた。
 「邪も良くなったから元気だと伝えて欲しい。」と母へ頼まれた。
そして、洗濯物を取りに行って又父親の部屋へ戻った。
私が「何か食べるか。」と聴いたら「いらない。」と言った。
暫くして父親が「亨は、札幌へ帰らないのか。」と聴いて来た。
「何言っているの、もう山形の実家へ戻って住んでいるから帰らない。」と答えた。
 
 父親が「●●に騙されて全部盗られたわ。」と私に言った。
私は「何盗られた。」と聴いたが父親は、何も言わなかった。
父親もボケているから何か盗られたのを気にして言ったのだろうと私は、思った。
直ぐ母親へ伝えるからと父親の個室から立ち去った。
妹に、次の日夕方電話が私の携帯に来たので出たら、「何も無かった。」と言った。
 その後、私は妹に聴いた。
「爺ちゃんの物何か取ったのか、怒っていた。」と言った。
妹は、「ボケた人の言う事だ。」と言って切られた。


妹が帰った30分後に
父親が呼吸不全での不自然死!!




  平成17年12月3日、山形の桜田「某パレス」の老人施設の個室へ入れられていた。
 認知症でボケた父親が息子が午後3時15分ころ行った。
 「婆ちゃんに腰も風邪も治ったので何でも無いと言って欲しい。」と頼まれた。
 洗濯物を引取り母親の入院している某病院へ向かった。
 妹が父親の個室へ一人で直ぐ後に来て約2時間も居て帰って帰ったことを係りの人から聞いた。
 約30分後に係員が介護へ回った時には既に心肺停止していたとのことであった。
 その日は、私のの日で洗濯物などの届け回収や様子を交替するのが妹と約束していた。
 娘が二回も出入りしたことは、一度も無いしおかしかった。
  妹は、自宅でも手作りの食事が少なく買い物の惣菜が多く洗濯物も病院から引き揚げたものは業者に出してた。
 母の方も業者をしいる人間で、漬物なども漬けない家庭的な主婦でなかった。
 妹の自宅では、事を一度も食べた事も無いし、風呂も入った事も無いと母が言った。
 私も一度も妹との食事もした記憶がなかった。


 

「札幌の兄が事業失敗で借金し失踪した。」と
近隣住民や親戚に妹夫婦が嘘を触れ歩き発覚!!



  平成5年に山形へ本社を移転した時には、既に山形市の知人や親戚などに、嘘を広めていた。
この娘夫婦は「兄は事業に失敗して行方不明になって連絡が付かない。」と言い回った。
「兄が父親や母親を脅して毎月札幌へ送金させ、そのお金で遊んで生活している。」など言い触らしていた。
口だけの嫌がらせのそれだけではなかった。
私を親戚に「来ても絶対に信用しないで追い返して欲しい。」と頼んでいたことが判った。
それに依って、親戚関係者からの年賀状や冠婚葬祭が一切平成に入ってから私へ来なかった。


 

アパート家賃預金通帳の引渡しや契約書の返還を
妹が拒否!!



 私が平成17年10月山形の実家へ移住した。
一週間してから妹が父母の収支関係の説明をした。
 「12月から父母の関係の金銭収支を全て引き渡すから。」と言い約束し帰った。
その後、アパートの入居者に挨拶の通知した。
その12月末になっても一切連絡も無いので平成18年の年明けてから内容証明の書面を送った。
 しかし、応じるどころか父親の遺骨を渡せと言って来た。
家賃振込み口座を変えて、アパートの入居者に書面通知した。
 それを知った妹が、直接入居者に電話で請求し早く家賃の振り込ませていた。
仲介の業者も妹でなければと事情を話しても断られた。
母親に対する脅しや嫌がらせが以前より酷くなって来た。
私は、仕事も無く生活に困窮して来ていた。
 母親が怒って「全ての財産の名義を亨に渡す。」と言い出した。
母が「行けないから、録音して公証人の先生に頼んで欲しい。」と言うので私は、録音機を買った。
母親が私に頼み、その母親の話の録音テープを持って山形公証人役場へ頼みに行った。
早速、母親の意向を録音して山形公証人 三浦宏一先生に聴かせた。
妹夫婦が返還を拒否していることを話した。

母が息子への全遺産相続に、
妹が成年後見人手続きで妨害!!

 

 この妹夫婦の一連の経過に対して、母親が怒った。
全ての財産の名義を亨に渡すので録音テープで録音して公証人の先生に頼で呼んで欲しいと母親言った。
その母親の話の録音テープを持って山形公証人に役場へ頼みに行った。
山形公証人役場の 三浦宏一先生が母親の録音テープを確認して母親の意向が確りしているので認めた。
 最初に、母親の実印の改印や妹夫婦から勝手に母親の住所の住民票が中桜田の妹自宅へ移動されていた。 
元へ戻すように勧められた。
その後口答遺言の公正証書を作成することを言われ、その証人に大嶋夫婦が紹介された。
それに依って、私は母親の改印や住民票の取り戻しを終了した。
私が札幌地裁の建物損壊損害賠償請求訴訟公判から帰った後作成することにした。
平成18年2月5日ころ作成することを公証人と約束していた。
  しかし、その証人から妹に連絡されて妹が直ぐ平成18年2月3日ころ、住民票を又自宅に戻したりした。
山形家庭裁判所へ母親の担当医に母の「認知症」の診断書を書かせていた。
母親の成年後見人の手続きを妹が申立てした。
 公証人と母親との口答遺言の作成も中止になり、直ぐ成年後見人の審判裁判が開始められた。

 

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