『独島(トクト)と対馬島(テマド)の領有権問題連係戦略』
こんにちは。『対馬島は我々の領土』の作詞及び製作者の崔東国(チェ・ドングク)です。
この曲の作詞及び製作背景について簡単に説明します。
1. 独島問題
日帝は『日清戦争』(1894年) 勝利後、大韓帝国を植民地化する目的でロシアを韓半島から追い出すため、『日露戦争』(1904年 2月)を起こした。日本海軍は独島に望楼を設置するために、1904年、軍艦を派遣してその準備調査を実施し、1905年2月、『無主地の領土編入』形態で独島を日本領土として編入(『竹島』と命名する。)し、日露戦争が1905年9月、日本の勝利で終結すると、1905年11月、『乙巳5条約』締結を強要して大韓帝国の『外交権』を侵奪し、1910年、韓日合併により大韓帝国は日本の統治下に入ることになった。すなわち、『日本の独島不法侵奪』は大韓帝国『韓半島全土の植民地化』とまさに連結していたという事実を忘れてはならない!
最近の日本政府の独島領有権主張自体が、1905年の日帝の不法独島侵奪の試みをこんにちに延長させる新帝国主義外交政策であり、膨脹主義政策なのだ。したがって、現在の『独島問題』は、日本の新帝国主義外交政策で発生した『民族的な問題』であることを肝に銘じ、積極的で攻勢的な対策を樹立・実行して、我々の子孫に恥ずかしい歴史を残すべきではありません。
2. 対馬島領有権問題
<対馬島の自然条件>
対馬島は釜山から53km、日本の九州本島からは147kmも離れていて、日本よりは韓国側に近く位置しており、その大きさは巨済島の二倍ほどになる。島全体の92%が山岳地域になっており、農作業可能な面積は島全体の3%に過ぎず、経済的に自立して暮らしにくい、自然条件が不毛な島であり、食糧を外部から調達しなければならない島だ。
<対馬島の歴史概括>
『高麗時代』中葉から『進奉船貿易体制』の下で、対馬島は高麗に従属し、高麗は対馬島主に『対馬島当官』という高麗官職と『万戸』という高麗の武官職を与えるなど、政治,経済的に対馬島は高麗に属したが、高麗末、高麗・蒙古連合軍の対馬島及び日本征伐と日本内部の事情による高麗と対馬島の関係断絶によって、対馬島人は食糧問題を解決するために『倭寇』に変質し、高麗末、数多くの略奪を行ない、高麗末以後にも対馬島は倭寇の巣窟(根拠地)になって朝鮮沿岸及び中国南部の岸で多くの掠奪を行うようになった。
朝鮮時代に入り、倭寇根絶の目的で数回、対馬島を征伐し、以後『受職倭人(朝鮮政府から官職を授けられた倭人)』制度及び高麗時代の進奉船貿易に似た『歳遣船貿易』などの体制の下で、再び対馬島は朝鮮に従属するようになった。
しかし、16世紀末、日本の戦国時代を統一した豊臣秀吉によって、朝鮮の地理及び実情を正確に知っている対馬島は『壬辰倭乱(文祿の役)侵略の前進基地』になって日本の手先になり、この時から対馬島(テマド)は『ツシマ』という日本式の名前に変わるようになり、朝鮮の影響力が弱まるにつれて日本の影響力が強化され、19世紀後半、日本の明治政府によって対馬島は完全に日本政府に編入されるようになった。
<李承晩大統領の対馬島返還要求>
1949年1月8日、李承晩大統領は新年の記者会見で、対馬島の領有権を主張し、日本に対馬島の返還を要求した。彼は建国直後の1948年8月に対馬島返還要求をした後、日本側で 物議が起こると、9月に再び対馬島属領に関する声明を発表し、以後にも繰り返し対馬島返還要求をしたが、日本側の抗議と当時の米国のマッカーサー司令部によって拒否された。
3. 独島と対馬島の領有権問題連係戦略
日本が独島問題に対して領有権を主張する際に提示する歴史的根拠と比較してみたとき、我々の『対馬島領有権』主張は、はるかに時期的淵源も深く、資料も豊富だと思われる。すなわち、今からでも対馬島に関する本格的な研究努力及び全国民的な関心を注がれるべきであり、日本が独島問題を提起するたびに我々は『対馬島領有権』主張を提起するべきなのだ。すなわち、韓日間の歴史を見たとき、我々は必ず『攻勢的な態度』を行なうべきであり、『対馬島領有権』問題を現在の独島のような外交的な問題にする必要があるのです。
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