1日に発足した75歳以上の長寿(後期高齢者)医療制度は、準備不足から保険証がお年寄りに行き渡らなかったり、制度が十分に周知されていないなど混乱のうちに始まった。厚生労働省は「大型の制度改正時はこんなもの」(幹部)と達観したふうだが、実際に制度を利用するお年寄りだけでなく、各地の議会や医師会が制度の見直し・撤回を求めるなど、反発は全国に広がっている。
「保険証が届いて、逆に腹が立った」。さいたま市南区に住む有道美奈さん(80)は憤りを口にした。同居する看護師の長女(45)の扶養家族だが、新たな保険料は自分の年金から負担する。「夫が早くに他界し自立して生きようとコツコツ貯金してきたのに。負担が増える分、病院にかかりにくくなるし将来施設に入るにしてもお金が足りなくなるかもしれない。今の制度もまたすぐ変わるのでは」と不安を募らせる。
厚労省は昨年11月、制度を説明したリーフレットを70万部発行、3月20日には政府広報を新聞折り込みで配布した。都道府県ごとに制度を運営する後期高齢者医療広域連合や自治体の担当者を集め、問い合わせへの回答例を示し準備を進めてきた。にもかかわらず対象者に保険証が届かず自治体に返送された数が少なくとも約6万件に上ることなどが、毎日新聞の調べで判明している。
さいたま市緑区の女性(61)は10日、特別養護老人ホームに入所する母親(95)に代わり、埼玉県川口市役所に新保険証を受け取りに来た。母親が以前1人で暮らしていた家に「転送不要」として郵送され、受け取れなかった。「行政にはもう少し早く対応してほしかった」と話す。川口市では3万694人のうち約670人分が返送され、約400人分を再発送したが、今度は「年金から天引きされるのか」との問い合わせが相次いでいる。
同県越谷市は新保険証の再発行数が多く悩む。受け取ったお年寄りがカード大の新保険証を保険証と思わず紛失するためで、200件近いという。約6万人のうち約1000人分が返送された東京都大田区では利用者が介護施設に移ったほか、家の改築で一時転居したケースもあった。10日、窓口を訪れた女性(81)は「保険証は届いたけれど制度が分かりにくい。目が悪いので、説明書を虫眼鏡で見ています」と話した。【山崎征克、稲田佳代、真野森作、清水健二】
自治体が準備不足に陥った一因には、高齢者の反発を恐れた与党が昨年末、急きょ保険料の軽減を打ち出したことが挙げられる。
75歳以上の1人当たり医療費は05年度で81万5000円と現役世代の5倍だ。新制度の理念の一つは「世代間の不公平是正」。高齢者にも収入に応じて保険料を払ってもらい、現役の負担軽減を目指した。そのため保険料を払う必要がなかった扶養を受ける約200万人のお年寄りも負担することになった。
06年6月、与党は新制度を柱とする医療制度改革関連法を強行採決で成立させた。しかし、昨年7月の参院選で惨敗し対応は一変した。高齢者の反発におびえ、当初の理念をかなぐり捨てて、補正予算で、高齢者負担の軽減策を模索した。
財政難で軽減幅はなかなか決まらなかったが、結局、08年4月の開始から半年間は、これまで扶養を受けていた人の保険料負担をゼロとし、同10月からの半年間は本来支払うべき保険料のうち10%を負担してもらうことで決着。来年4月以降の対応は今後検討する。与党が合意した時には10月30日になっていた。
厚労省は保険料の算定基準に関する政省令の自治体への通知時期を07年9月初旬に想定していた。だが自民党総裁選もあり通知時期は2カ月半遅れの11月末になった。
負担水準という国民が最も関心を寄せる部分が最後まで揺れ動き、自治体も年末まで広報作業に着手できなかった。熊本県広域連合長の幸山政史熊本市長は8日、「(国は)広域連合に戸惑いを与えた」と不満を口にした。【吉田啓志】
「保険料が上がる人は増えるのか、減るのか」
10日朝、国会内で開かれた民主党の会合。厚労省幹部は議員から口々に追及され、最後まで答えられなかった。15日には新制度の保険料の年金天引きが始まる。野党4党は14日にお年寄りのメッカ、東京・巣鴨のとげぬき地蔵尊近くで新制度反対の集会を開く。
日本の医療は治療をするほど費用がかかる出来高制が基本だが、新制度では糖尿病など慢性病の高齢者が、かかりつけ医で月に1度「後期高齢者診療料」(自己負担は原則600円)を支払うと、多くの検査や治療は何度受けても追加の出費が不要となった。国の狙いは過剰診療防止にあるが、診療料を受け取りながら、必要な治療すら行わない医師が出る可能性は残る。
広島県福山市や青森市など多くの医師会は「安さを売りにする医師が出てくる」と、会員に同診療料を算定しないよう求める文書を送った。山口県医師会も、各地区の医師会に慎重な対応を求めた。
新制度独自の体系として、「後期高齢者終末期相談支援料」も新設された。担当医が患者と相談し、あらかじめ死期間際の治療方針を文書化すれば医師に2000円の報酬が渡る制度だ。高額な延命治療を減らし、在宅でのみとりに誘導する意図がうかがえ、野党は「うば捨て山だ」と批判を強めている。
反発は地方議会にも広がっており、08年3月末時点で全国1865の自治体中、544議会が制度の見直しや撤回などを求めて決議した。強まる反発に、与党幹部からは「制度を撤回するしかない」(自民党参院幹部)の声も漏れ始めた。【吉田啓志】
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■ことば
08年度の75歳以上への医療給付費は約10.8兆円。うち5割を税金でまかなう。4割は現役世代の支援金(保険料)で支え、残り1割、1兆円強に高齢者の保険料を充てる。政府は新制度の呼び名を「長寿医療制度」へ変えたが、法律上の名称は「後期高齢者」のままだ。窓口での負担分はこれまでと同じく1割。
毎日新聞 2008年4月11日 東京朝刊