BRANDON LEE
 


「ブランドンは、天国で父ブルースと逢えて喜んでいる事でしょう。二人一緒だから寂しくないと思います。二人の人生は短かったですが、本当に幸せな人生だったと思います …」(リンダ・リー・キャドウェル)
photoジャッキー・チェン、ユン・ピョウ、サモ・ハン、チャック・ノリス、スティーブン・セガール、ドニー・イエン、そしてジェット・リー…今なお多くのスターに影響を与え続ける伝説の男ブルース・リー。死後30年経っても、彼を超えるアクションスターは誕生していない。そして、今後も現れる事はないだろう。
史上最もブルースに近付いた男と言えば、それはブルースの息子ブランドン・リーおいて他にない。
父親譲りの超人的運動神経と強力なカリスマ性、ハンサムなマスクに加えて、他のアクションスターにはない繊細な演技力をも備えたブランドンには、俳優として無限の可能性があった。
彼ならブルースを超える事も決して不可能ではなかったと思う。
しかしブランドンは、その才能が開花する直前、突然我々の前から去っていってしまった。

1993年3月31日…今からちょうど10年前の事である。その時、彼は5本目の主演作となる『THE CROW』の撮影中であった。輝かしい未来が約束されていたはずのブランドン。あの日、彼の身に何が起こったのか? 当時の雑誌にその日の模様が詳しくレポートされていたので、それとあわせ、彼の一生をもう一度振り返ってみたいと思う。
 

SHADOW OF THE DRAGON
1965年2月1日、ブランドン・リーは、史上最強のアクションスターブルース・リーとその妻リンダの長男として、この世に生を受けた。もっともこの時は、天下のブルース・リーもまだ無名の存在、アメリカの武術界では若き達人として、それなりに名前が知られていたものの、ハリウッドではまだデビューすらしていなかった。
ブルースは、ブランドン誕生の数日後に20世紀フォックスのスクリーンテストを受けるのである。

photoテストの結果は見事に合格! デビュー作でいきなりテレビシリーズの準主役に抜擢されるなど、新人俳優としては恵まれたスタートを切ったブルースであったが、その後の俳優人生は、決して平坦な道のりではなかった。彼は、途中で何度も大きな壁にブチ当たるのである。だがブルースは決してあきらめなかった。立ちはだかる壁を一つ一つぶち破り、ひたすら頂点を目指して走り続けた。結果、世界中に『ブルース・リー』の名を轟かせる事に成功したのである。
リー一家にとても幸せな日々が訪れたが、それは長くは続かなかった…
1973年7月20日、ブルースは突然にこの世を去ってしまうのである。
世界最強と呼ばれた男のあまりにも早すぎる死を、誰よりも信じる事が出来なかったのは、当時まだわずか8才のブランドンであった。ブランドンにとって最愛の父であり、また最高のヒーローでもあったブルースの死を彼はどうしても受け入れる事が出来なかった。そして更に、深い悲しみに沈む彼に追い討ちをかけるように新たな不幸が襲ってくるのである。それは、心ないマスコミによって捏造されたブルースの死にまつわる様々なスキャンダラスな噂であった。それにより幼いブランドンの心は打ちのめされ、ひどく傷付けられてしまった…。
香港にとどまって生活するのは、子供の教育のためにも良くないと判断した母リンダは、逃れるように、ブランドン達を連れてアメリカへ帰国するが、そこでの生活も彼にとっては決して生易しいものではなかった。転校して新しい学校に入る度に、彼が「ブルース・リーの息子」だという事が分かると、必ずを喧嘩を売ってくる奴らがいたからだ。そんな不良達と喧嘩を繰り返す内に、彼自身もまた荒れていき、周りから問題児と呼ばれるようになってしまった。ブランドンは、2つの高校から退学・放校処分を受けてしまうのである。3つ目の高校を何とか卒業する事が出来たブランドンは、ボストンのエマーソンカレッジに入学、そこで演劇を学び、マンハッタンで演技の勉強をした。
photo彼は父ブルースと同じく職業に俳優を志したのであった。
もっとも彼は父のようなアクションスターではなく、ジャック・ニコルソンのような性格俳優になりたいと思っていた。しかしブランドンはどこへ行っても、誰もが彼の事を「ブルース・リーの息子」という目でしか見てはくれない事に気付かされるようになる。映画の出演依頼は来るが、どれもクンフー映画かブルース・リーの伝記映画へのオファーばかりであった。

彼は本意ではなかったものの、自分のデビュー作に『カンフーファイター』(1985年)を選ぶ事にした。本作は70年代初期の人気テレビシリーズ『燃えよカンフー』の続編で、ブランドンに与えられた役柄は、デビット・キャラダインが扮する少林僧ケインの生き別れた息子の役であった。(*奇しくも『燃えよカンフー』は父ブルースが、東洋人という事を理由に降板させられた番組だった)
白人が作ったテレビドラマという事もあって、アクションの出来はそれほど良くはないが、ブランドンの熱演は少なからず評判を呼び、彼には前にも増して映画やテレビの出演依頼が来るようになった。だが、その中身は相変わらずクンフーアクションばかりであった…。
「自分はクンフースターになるつもりはない」と、オファーを断り続けていたブランドンであったが、遂にスクリーンデビューの機会が訪れた。彼が自身のデビュー作に選んだのは、当時の香港で勢いがあった映画会社D&Bが製作する『ファイアードラゴン』(1987年)であった。
「伝説の男ブルース・リーの息子が遂にスクリーンデビューを果たす」という事で、かなりの注目を集めた本作であったが、残念ながら地元香港でも大ヒットさせる事は出来なかった。

photo何故なら、アメリカのファンと同じように香港の人間もブランドンに父親と同じ様なクンフースターになる事を期待していたからだった。そしてむしろその期待は、香港のファンの方が大きかったのである。しかし、そんな観客の望みと裏腹に、この作品は銃撃戦やカーアクションがメインでクンフーアクションがほとんどなかったのである。また記者会見などで「自分と父親は違う人間だ。父親と同じ事はしたくない」等と発言した事も一部ファンの反感を買う結果となってしまった。
周囲が自分に何を望んでいるかが分からないブランドンではなかったが、その期待と自分がやりたい事とのギャップの大きさは彼を大いに悩ませる事となった。
D&Bはブランドンの次回作に、『皇家戦士』を大ヒットさせて同社の看板スターとなったミシェール・キングの共演で『IN THE LINE OF DUTY(皇家師姐)』を予定していたが、残念ながらこの企画が実現する事はなかった。
アクションスターというレッテルを貼られる事を極端に嫌っていた彼は、作品のクランクインを前に香港を去ってしまうのである。(ブランドンと女性アクションスターNo.1のミシェールとの共演は本当に見たかった。残念…)
香港映画界には、父ブルースの影が色濃く残り過ぎており、ブランドンをブルース抜きで見てくれる人間は誰一人としていなかった。そしてそれは彼にとって何よりも耐えられない事であったのだ。
次にブランドンは西ドイツ製作の『バトルドラゴン』(1989年)に出演するが、これは作品的にも興行的にもパッとしない結果に終わってしまう事となった。ブランドンは偉大すぎる父の影から逃れようと一人でもがき苦しんでいた…


photo「ブルース・リーの息子」…その巨大なプレッシャーに押し潰されそうになっていたブランドンだったが、ここで一大転機が訪れる事になる。彼はアメリカに戻り、ドルフ・ラングレンと『リトルトーキョー殺人課』(1991年)の撮影に入るのであった。今まで父との違いにこだわり、頑なにクンフーを封印してきたブランドンであったが、ここで遂にその"伝家の宝刀"を抜いたのである。マーシャル・アーツの神様と呼ばれたブルース・リー直伝のブランドンのアクションには目を見張るものがあった。183センチの長身を誇るブランドンの体から繰り出されるパンチやキックはスピーディ且つパワフルで、彼がアクションスターになるのを長年待ち続け、見守ってきたファンを驚喜させた。
ブルース亡き後、ドラゴンの名を真に継げる者が遂にここに誕生したのだ。
だが、あれほどまでにクンフーを拒んできた彼に何があったのか?彼はインタビュー等でこう語っていた。
「長い間、僕は父の影だった。それが嫌でたまらなかった。で、俳優になって、クンフー映画以外の作品に出たいと思うようになったんだ。でもなかなか自分のやりたい事が出来ずにくさっていた。だけどやっと分かったよ。僕は僕だ。それを受け入れるべきだってね。気持ちが吹っ切れると道が開けてきた。僕はその道を歩き始め、皆に望まれる事をやり始めた。そして名を上げて、それから自分が作りたい映画を作れるようにしたいと思ってるんだ。」
photo『リトルトーキョー殺人課』は、大ヒットとまではいかなかったが、ブランドンのアクションや演技はなかなかの評判で、業界における足がかりとなった。そして彼は最初のギャラを受け取ると8万ドルでスポーツカーを購入し、自分の成功を少しばかりアピールしたのである。
そして同年、彼はレニー・ハーリン監督のもとで働いていたエリザ・ハットンと出会う(彼女は後にキーファー・サザーラントの会社でストーリーエディターを務める事になる)。ブランドンは彼女に一目惚れをし、二人は間もなく深く愛し合うようになった。
そして1992年の8月、アメリカで公開された『ラピッド・ファイアー』で、遂にブランドンはハリウッド映画に一枚看板での主演を果たしたのである。本作は興行的にも大成功を収め、ブランドンは栄光への階段をまた一段上へと昇ったのだった。
『ラピッド・ファイアー』でのブランドンは、前作『リトルトーキョー殺人課』よりも更に輝きを増していた。当時、マーシャルアーツスターと言えばジャン・クロード・ヴァンダムやスティーブン・セガール等が人気を博していたが、ブランドンのアクションの切れは彼らのそれを遙かに凌いでおり、彼が近い内にNo.1の座に着くのは誰の目にも明らかだった
その後、ブランドンは20世紀フォックスと3本の出演契約を交わし、『ラピッド・ファイアー』の宣伝キャンペーンで世界中を駆け巡る事になる。彼はこの映画に賭けていた。
この映画が、自分を長い間覆っていた父親の影を打ち破ってくれると思えたからだった。そして事実そうなった。『ラピッドファイアー』の成功のお陰で、彼は遂に、初めて自ら出演したいと思えるような作品と巡り会う事が出来たのである。だが…それは最悪の結末へのカウントダウンが始まった瞬間でもあった…

THE CROW
ブランドンの心を掴んだ作品、それが『THE CROW〜飛翔伝説〜』であった。この映画はブランドンにとって更なる飛躍のチャンスであり、彼は作品の完成前から、自ら精力的にパブリシティをこなしていた。マスコミに写真を撮らせ、電話取材に応じ、セットを訪れた記者と話をしていた。彼はこの映画で、真の意味での大スターとなるはずであった…
『THE CROW』のバックにはパラマウント映画が控えていたし、国際的名プロデューサーとして知られるエドワード・プレスマンもついていた。
photo原作は漫画家ジェームス・オバーが、恋人を交通事故で亡くした後に描きカルト的人気を誇っていたホラーコミックで、それを基にしてSF作家のジョン・シャリーと、ホラー作家のデビット・J・スコウが脚本を書き上げた。
ブランドンは、92年の夏に初めてその脚本を読んで非常に気に入り、熱烈な売り込み攻勢をかけた。だがプレスマンが最初に選んだのは、クリスチャン・スレイターだった。しかしスレイターがこの役を蹴ったので、プレスマンは改めてブランドンに目を向けた。まだ今の彼なら、スレイターと比較するとギャラが安くつくし、マイナス面はなかったからだ。彼は75万ドルと興行収入のごく低いパーセンテージで契約した。『THE CROW』の脚本を非常に気に入っていたブランドンは、2本の続編に出演する契約まで交わしていた

11月末頃までに、『THE CROW』のメインキャストはほとんど決定し、ノースカロライナ州のウィルミントンに製作オフィスが開設された。カルロコ撮影所は、空っぽのオフィスや倉庫が建ち並ぶ道路沿いにあり、ハリウッドの華やかさとは対照的な所である。
ウィルミントンが選ばれたのは、この地が非常に安上がりに映画製作が出来る場所だからであった。ノースカロライナ州は法律で労働組合加入の強制を禁止していたために、ここの労働者の多くはニューヨークやロサンゼルス等、他の大都市の同業者とひけを取らない技術を持っているにも拘わらず、
低賃金・重労働という過酷な条件の基で働かされていた。そのおかげでプロデューサーは労働コストを2割から3割も節約出来たのである
そのためプロデュサー達はこの地を重宝しており、ノースカロライナ州は、映画製作の収益が1990年には全米第2位となって、地域経済に4億ドル以上も還元していた。この州では1983年から約10年間で、50本余りの映画(『スーパーマリオ魔界帝国の女神』etc.)が撮影されており、ハリウッドがインディペンデント映画全盛になりつつあった当時、ウィルミントンはさながらブームタウンの様相を呈しはじめていた。
しかし映画産業で生計を立てているこの場所の住人にとっては、決していいことばかりではなかった。
労働者は、プロデューサー連中に対抗する手段を何も持っていなかったために、業界から干されるのが怖くて、彼らのどんな理不尽な要求にも無言で応えなければいけなかったからである…
多くの映画と同様に、『THE CROW』もトップレベルの仕事をこなすために優秀なスタッフを雇い入れていたが、経費節約のため賃金が安くてすむ経験の浅い人間にもどんどん仕事をまわしていた。
例えば小道具責任者のダニエル・カットナーだ。彼は友人である美術監督のサイモン・マートンの紹介によってこの仕事に付いていた。28才(当時)のカットナーは、仕事熱心で勤勉な男だったが、普通ならこんな複雑な撮影を任せられるほどの経験者ではなかった。そしてカットナーは、衣装の担当や録音の経験がある恋人のシャーリン・ヘイマーを助手として雇っていた。
そして、ノースカロライナの撮影で雇われた小道具係や照明、カメラ助手などのほとんどは組合に加入してない地元の人間だった。おまけに、プロデューサーは更に予算を節約しようとして、必要最小限のスタッフしか雇ってはいなかった
通常の作品なら俳優全員にひとりずつスタンド・インを付けるのだが、『THE CROW』では一度に二人以上のスタンド・インがセットに入る事はほとんどなかったし、時にはハリウッド映画産業安全委員会の基準を無視していた。多人数の第2班がするべきことを、数人の助手にこっそり撮らせていたのである。彼らは僅か1200万ドルの予算で3000万ドル規模の大作映画を作ろうとしていたのだった…

IN THE HELL
1993年2月1日に『THE CROW』は撮影開始となった。だがそれは正に波乱の幕開けでもあった。初日からいきなり大きなトラブルが発生してしまうのである。クレーンのバケットに乗って作業していた大道具係のジム・マーティシウスがうっかり高圧線に触れ、大火傷を負ってしまったのだ。スタジオは騒然となり、何人かのスタッフが慌ててジムを助けに行った。その時、製作担当のグラント・ヒルは他のスタッフに平然とこう尋ねたのである。「停電の心配はないだろうな?」と…。これで現場の雰囲気はかなり悪化した。
また監督アレックス・プロヤスのやり方が、スタッフの士気を低下させてしまうものだった。妥協知らずの彼は、どんなシーンでも決して満足しなかったのだ。
映画『スピリット・オブ・ジ・エア』で評判を取ったオーストラリア出身の彼にとって『THE CROW』は、初めてのアメリカ映画だった。そのために彼は、全てを自分の思い通りにしたかったのだ。プロヤスは、自分のイメージ通りの映像が撮れるまで何度も繰り返しNGを出し続けた。彼のオーストラリア人らしい気さくさは救いになったが、そのしつこさに撮影班は悲鳴をあげていた。
キャストとスタッフは、薄暗いセットで1日12時間から14時間も過ごさなければならず、わずかな休息を取っただけで、すぐにまたセットに戻って仕事をこなさなければならなかった。
photoとりわけカットナーとヘイマーは凄まじい激務に追われ、心身ともにボロボロの状態であった。自動火器を使用する1週間だけは、地元の銃火器専門家ジム・モイヤーを雇ったが、その時を別にすれば、拳銃の管理は煙草や銀食器と共にカットナーとヘイマーに任されていた。猫の手も借りたい彼らは、寝る間も惜しんで、次のシーンに必要な物を買い漁っていた。ある晩、忙しいカットナーに気付いたスタッフが、「どうして人を雇って買い物を手伝わせないんだい?」と尋ねたことがあったが、彼は肩をすくめてこう答えた。「残念ながらそんな予算はないんだ…」
もちろん長い勤務時間も劣悪な労働条件も、映画撮影の現場では珍しい事ではない。だが、今回ほど過酷な現場の経験はなかった、とスタッフの誰もが口を揃えるほど酷いものであった
また物語自体の暗さも皆の気を滅入らせ、疲れさせてしまう要因の一つとなっていた。そのうえ真冬だというのに、疑似の雨を降らせる夜間撮影が多く、睡眠も思うように取れない。誰もが疲れ果て、注意力散漫になっていた。当然のことながら、小さな事故が起こりだした
9時間連続で働いていたスタントマンが、屋根の上での斬り合いシーンの真っ最中に、足を滑らせて転んでしまった。幸い屋根の端に引っかかったが、肋骨を2本折った。またセットを組み立てていた建設作業員は、滑った拍子に自分の手にスクリュードライバーで穴を開けてしまった。
あまりに忙し過ぎて、誰もが安全にまで気を配っている余裕はなかったのである。
そして度重なるトラブルや重労働にキレた大道具係は、怒り狂って小道具部屋の中を車で走り回ってメチャメチャにしてしまった。
更に3月13日には、嵐でほとんどのセットが倒壊してしまった。
事態は悪い方に悪い方に進んでいるように思えた。だがプロデューサーに文句を言う人間は誰一人としていなかった。もしそんなことを口にすれば、次の日からこの業界で喰っていくことは出来なくなってしまうからだ。誰もがトラブルメーカーというレッテルを貼られるのを怖れていた。
そんな彼らのやる気を起こしたのは、ラッシュの出来の良さだけだった。ブランドンは本当に素晴らしかった。彼らが苦心惨憺して作り上げた、暗く不気味な役柄が、生命を宿していたのだ。
しかし、あの悲劇的な事故の1週間ほど前に、映画の完成保険を引き受けていたフィルムファイナンス社がセットを訪れると、現場のプレッシャーは更に高まり、最悪の雰囲気となってしまった。
これは特に異例というわけではなかったが、疲れ果てたスタッフにとっては意気消沈する出来事であった。それは最も厳しい一週間だった。なにしろ撮影が行われていたのは、足を動かす度に埃が舞い上がる古いセメント工場である。スタントは爆発が多かったし、あらゆるシーンで自動火器の銃撃戦があった。カメラ助手は、この1週間で計90時間もセットの中で働かされていた。
過酷な撮影で、コカインが用いられるのは、ハリウッド映画界のダーティな部分として知られているが、『THE CROW』ではそれがあまりにもあからさまだった。元々、この地は信心深い地域であり、ドラッグの使用は深刻に受け取られてしまう土地柄であるのにもかかわらず、こんな類のジョークが現場では飛び交っていた。誰かが現場でくしゃみをすると「今ので50ドルが消えちまったな」「大当たり!」ってな感じだ。また深夜3時か4時頃に、セットから少しの間だけ姿を消し、鼻を拭きながら、元気になって戻ってくる連中もいた。
そして事件の4日前の土曜日、ブランドンはマネージャーで親友であるジャン・マコーマックに電話をかけた。「ジャン、俺はもう1週間もの間、ほとんど寝てないよ。何があったか、話す気も起きないほどクタクタさ。ここでは人間らしい生活は全く出来ない…
ブランドンから話を聞いたマコーマックと、ブランドンのエージェントであるマイク・シンプソンは、月曜日にプレスマンに電話で抗議した。プレスマンは彼らに、「ウィルミントンでの撮影責任者であるロバート・ローゼンに言ってくれ」と答えた。そこでマコーマックはローゼンに電話で詰め寄ろうとするが、彼は平然とこう言い放った、「映画を完成させることが最優先だ、俺はそのためにはどんな障害でも排除する!」
この心ない言葉にマコーマックは激怒し、こう叫んだ。
「アンタの映画なんか知ったこっちゃないわ。あなたたちはブランドンを殺そうとしてるのよ!」この時は、これが現実のものになるとは誰も思ってはいなかった。もちろんこの台詞を言ったマコーマック本人でさえも…

THE BULLET OF DEATH
photoここで話は事件の3週間前に遡る。発端は、実はそこにあったのだ。
撮影部隊の第2班がクローズアップ撮影のために模擬弾(本物のように見えるが、弾薬は入ってない)を必要としていた。ところが小道具部には、44マグナムの模擬弾が1発もなかった
そこで翌朝、地元の小道具ショップで、プロが作った模擬弾を買う代わりに、カットナーとブランドンの友人でスタント・コーディネーターのジェフ・イマダ、それに特殊効果責任者のブルース・マーリンの3人で、イマダのトランクに入っていた実弾を利用して作ることにした。マーリンは実弾をプライヤーでバラバラにし、弾薬を抜いてから組み立てた。本物の模擬弾と違って、弾薬が残っていたし、雷管も付いていたので、銃に装填し、数回発射して火薬を発火させた。だが、銃が第2班に渡された時、1発の雷管が生きていたのである
それでもまだ決定的な手落ちとは言えなかった。このような映画では、銃の管理と責任を負うべき、経験豊かな小道具係が、銃を第2班に手渡す。ところが『THE CROW』にはそのような人物がいなかった。銃は視覚効果コンサルタントのアンドリュー・メイソンによって、時計やティーポットと同じように、第2班に貸し出されてしまったのである。メイソンは、カメラ技師に銃を手渡すと、そのまま立ち去ってしまった。
撮影するのは、銃撃シーンにほんの一瞬見せる、銃身のクローズアップだった。スタンド・インは、撮影の準備の間に、銃を手に馴染ませようと2、3度引き金を引いた。その時、パンという小さな音がしてカメラ技師が驚いた。しかし、彼は銃について素人だったので、それをどう解釈すればいいのか分からなかった。ここが運命の分かれ道であった。生き残っていた一発の雷管が模擬弾の中で破裂し、弾薬の残りを発火させた。弾丸は銃身の途中まで撃ち出され、そこで止まったのだ。専門家なら、間違いなくその音を理解し、銃身の中を見て、弾丸を取り除いたことだろう。またそのカメラ技師は、撮影中に1発の弾頭がなくなったことに気付いていたらしいが、不幸なことに彼はその事をそれほど大した事とは思わずに、カットナーに報告するのを怠った。
そして、その日の撮影が終了した。模擬弾は全て抜かれたが、なくなった弾頭に付いては誰もカットナーに報告していない。銃と弾丸は小道具トラックに返却された。
それでもまだ事件を回避出来るチャンスはあった。普通なら銃が小道具トラックに返却される度に、手入れをすることになっていたからだ。だが実際、カットナーとヘイマーは手を抜いてしまった。彼らは何の手入れもせず、実弾が込められた銃をそのまま小道具トラックに返却してしまっていた

FINAL NIGHT
そして運命の3月30日となった。この日は午後7時45分から撮影を開始することになっていたが、
最初のカチンコが叩かれた時は、既に9時半近くになっていた。その日は、58日間と予定されていた撮影の50日目で、スタッフは極度の疲労に苦しんでいた
『THE CROW』は、デビルズナイトと呼ばれるハロウィンの前日、麻薬密売組織に恋人と共に惨殺されたエリック・ドレイブンが、カラスの神秘的な力を借りて1年後甦り、殺した奴らに復讐していくというストーリーで、バイオレンス満載の不気味な雰囲気を持った作品であった。
その夜は数分程度の9シーンを撮影することになっており、事件はブランドンが演じるエリックの、人生の回想シーンの撮影で起きた。
セットは狙い通りゾッとするような感じを漂わせている。インダストリアルの支柱が立ち、埃っぽい骨董品が置いてある広々としたロフトは、ロックスターの寝室のようだ。そこへデビット・パトリック・ケリー演じるTバードと、マイケル・マッシー演じるファンボーイが率いるヤクの売人たちが強盗に押し入る。
ブランドンは最初の数ショットに出番がなかったので、セットに着いたのは真夜中だった。撮影中ずっと彼は、痩せこけた状態で顔色が悪かった。彼は役柄のルックスをブラッククロウズのシンガー:クリス・ロビンソン風にしようと考え、役に相応しい悪鬼じみた凄みを出すために7キロも減量していたのだ。
ブランドンは、撮影の合間にスタンド・インの一人サラ・セイドマンと雑談、彼は彼女に「昨日はここ数週間で初めて熟睡したよ。本物の人間に戻ったような気分だ」と微笑みながら語った。
そしてブランドンは問題シーンのリハーサルのために呼ばれた。
すごく単純なショットで、数回の段取りが行われた。マッシーとケリー、それにチンピラ達がロフトに押し入り、ソフィア・シャイナスが演じるブランドンの恋人をレイプしようとする。すると突然ドアが開き、ブランドンが何も知らずに食料品の袋を抱えて入ってくる(袋には着弾したように見せるため、小さな爆竹が仕掛けてある)。マッシーが拳銃を引き抜き、振り向きざまに引き金を引く。撃たれたブランドンは膝をつき、カメラに顔を向けながら倒れる。ケリーがブランドンに駆け寄って、一言二言アドリブで罵声を浴びせてシーンは終わる。トータルで2分ほどのシーンだ。通常リハーサルでは作り物の銃が使われ、本物は必要になるまで厳重に保管されている。だが『THE CROW』では少々手抜きがあった。彼らは少しでも時間を節約しようと、本物の銃を使ってリハーサルを行ってしまったのだ。銃は銀色の輝きを美しく放つ44マグナムだ。ヘイマーが銃をしまってあるビニール袋を開けると、1発の模擬弾が転がり出た。彼女はそれについて考えることなく、いつものように大急ぎでシリンダーをチェックすると、銃身を調べることなくマッシーに手渡した。これもまた時間を節約するための手抜きだったのだろう。まだこの時点では、他の4発の模擬弾と1個の空薬莢は、小道具カートに置いた袋に入っていた。
そしてリハーサルの後、ブランドンがプロヤス監督に、主人公には恋人の叫び声が聞こえるはずだ、と指摘したので、ウォークマンを聞いている設定に変更された。数分後ようやく準備が整い、カットナーが、空砲の入ったビニール袋を持ってマッシーに歩み寄った。彼はカートに置かれた銃の袋に、1発の弾丸がなくなっている事に気付いた。彼は数週間前にその銃を第2班が使ったことを思い出した。だが問題があったのなら、彼が聞いていないなんて事は有り得なかった。なにせ無線で連絡できる場所にいたのだから。それなのに誰も言ってこなかった。彼は何か腑に落ちないものを感じながらもマッシーから銃を受け取り、空砲を装填する事にした。だがまだ弾頭は銃身に残っており、ブランドンの腹に撃ち込まれるのを待っていた。
カットナーは、44マグナムに1発だけ空砲を込めた。「おい、みんな装填したぞ!」と彼は叫んで、全員に空砲には実弾と同じだけの弾薬が入っていることを警告した。現場での銃の使用に少しでも経験がある者なら、このような近距離で使用するには危険な量の弾薬だと気がついたことだろう。何しろ、銃が発砲された時、銃口からブランドンまで3.5メートルの距離しかなかったのだ。しかし誰も異を唱えなかった。これが、この後の事件をお膳立てした、数多くの悲劇的な過失と判断ミスの一番最後の不注意だった。
そして銃がマッシーに手渡され、キャスト・スタッフがそれぞれの持ち場についた。
第1助監督のスティーブ・アンドリュースが叫んだ。
「静かに!カメラ、スタート!アクション!」
撮影は予定通りに進行した。レイプ…ドアが開く…ブランドンが部屋に入る…マッシーが振り返ってよろめきながら銃を引き抜く。マッシーは、ブランドンの少し横を狙おうとしたが、体勢が崩れたため、銃をいい加減に向けて引き金を引いた。閃光がひらめき、銃声が響いて、セットの中に大きく反響した。
ブランドンは打ち合わせ通り爆竹を破裂させ、食料品を飛び散らせた。ところが今回ブランドンは、前のめりに倒れなかった。彼は体をくの字に折り、腹を手で押さえながら、顔を歪めて床に崩れた。顔がドアにぶつかった。ケリーが彼のそばまで行って、見下ろした。
そしてアドリブでマッシーに叫んだ。「あーあ、撃っちまいやがって! どうするんだ、このボケ!」。
ケリーは罵りながら右往左往していたし、シャイナスは絶叫し、チンピラの一人は彼女を黙らせようとしていた。ブランドンは腕を振って自分の苦悶を知らせようとしたが、撮影に没頭しているキャストとスタッフは気付かなかった。あるスタッフは「変だな? リハーサルと倒れ方が違うじゃないか…」と思ったという。だが他の人々は凄い熱演だと感心して見入っていた。
床に倒れていたブランドンが「カット、誰かカットと言ってくれ…」と弱々しく呟いていたのをスタッフの一人が耳にした。しかし、その程度で皆の注意を引けるはずもなかった。ようやくプロヤスが叫んだ「カット!」。演技は終わった。ところがブランドンは頭をドアにもたせかけ、じっと横たわったまま動かない。顎を胸に沈め、目を微かに開いていた。心配したスタッフと共にセットに付き添いのクライド・ベイシー医師が彼に駆け寄った。
「大丈夫か? ブランドン」
だがそれに対するブランドンの答えはなかった…。

撃たれて倒れた時、ブランドンはセットに一つしかないドアにもたれていた。そのためスタッフは、意識をほとんどなくし、青ざめた顔をした彼の脇を1列になって外へ出なければならなかった。皮膚が裂けたように見える傷は右脇腹の3センチ位下にあり、血は傷口に溜まっていた。床に血は見えなかったが、食料品の袋からミルクがこぼれていた。
外へ出たスタッフは、闇の中で救急車を待っていたが、どれほど重大な事態かはまだ完全に認識してはいなかった。ほとんどの者は爆竹が爆発して、その破片が彼の体に食い込んだだけだろうとタカをくくっていたのである。引き金を引いたマッシーは、真っ青な顔をしてショックを受けていたが、何が起きたのかを理解してるようには思えなかった。
数分で救急車が到着した。救急隊員がブランドンをストレッチャーに乗せて運び出した時、突然スタッフは理解した。「これはただのケガじゃない」
その時ベイシー医師は、ブランドンに懸命に心臓蘇生を施していた(スタッフは後で、ブランドンの心臓はセットで1度、病院に向かう途中でも1度停止した事を知った)。それでもスタッフはまだ望みを抱いていた
救急車が去った後、スタッフは解散した。およそ30人が、ニューハノーバー地域医療センターの急患室に赴き、ひたすら願っていた。明け方に出てきた医師は、待ち続けた彼らに、出来る限りの手は尽くしたが、物体(この時は弾丸とは言わなかった)をブランドンの脊椎から摘出することは出来なかったと告げた。
大動脈が切れ、内臓の損傷もひどい。おまけに大量の出血をしていて、見通しは暗かった。ジェフ・イマダは、すぐにアトランタへ飛んだ。そして彼は、婚約者がどれほど危険な状態か知らないままにロスからやってきたハットンをつかまえた。彼は「ブランドンの怪我は思ったよりも悪いようだ」と、彼女に優しく話した。
事故の3日前、ハットンとの婚約記念パーティーが豪華絢爛たるホテル・ベルエアで開かれたばかりであった。彼女はブランドンとの新生活を夢見つつ、プレゼントの箱を開けていた。それなのに彼女の夢は今破れようとしている。お昼に飛行機がウィルミントンに着陸すると、イマダは彼女を病院に直接連れていった。だがその1時間後の午後1時4分にブランドンは息を引き取ったのである…二人は、93年4月17日、つまり『THE CROW』の撮影終了直後にメキシコで結婚式を挙げる予定であった
ブランドンの死亡を告げるニュースが様々な媒体で流され、世界中が悲しみと衝撃に包まれた…
翌朝、ブランドンの遺体は解剖のために、近くのジャクソンビル市にあるオズワルド記念病院へ移送された。その日の午後、ウィルミントン警察署が、「ブランドンの体から銃弾が発見された」と、衝撃的な事実を発表したのである。たちまちマスコミは大騒ぎし、世界中から記者がやって来た。
"殺人事件の捜査を!!"…「バラエティ」誌。
"実弾は装填されていた"…「ニューヨークポスト」紙。

というような派手な見出しが躍った。またタブロイド紙では、中国人ギャングや謎の狙撃手が犯人ではないかと騒いだのだ。そして親子2代が若くして悲劇的な死を遂げた事で何かの呪いや祟りではないか?と口にする者もいた。それに加えて、ブランドンの事故の状況が、父ブルース・リーの映画『死亡遊戯(1978年)』の一場面にそっくりであった事も多くの憶測を招く要因となった。
しかしスタッフは、そうでない事を知っていた。これはあまりにも不注意と不幸な偶然が重なりすぎたために起こってしまった事故であった


photoブランドンは4月3日の土曜日、シアトルのレイクビュー墓地にある父ブルースの墓の隣に埋葬された。翌日、ブランドンの友人達は、ロスにあるポリー・バーゲンの家に集まった。母親のリンダは「ブランドンを偲ぶ集いにして欲しい」と客にスピーチした。武道関係の知人やキーファー・サザーラント、スティーブン・セガールなど約300人が参加。友人達はブランドンにまつわるエピソードを披露し、雰囲気を明るくしようとした。しかしイマダとハットンは、話をする元気がなかった。プレスマンとローゼンも沈鬱な面もちで現れた。ローゼンはやがてマコーマックに歩み寄り、お悔やみを述べた。
「慰めの言葉も出ないよ」
実際、あるはずもなかった。なにしろブランドンと親しかった人々にとって、彼の突然の死の悲しみは、まだ始まったばかりだったからだ。あんなにも逞しく、あんなに深く愛され、あんなに大きく希望を抱いた若者が死んでしまうなんて、とても信じられないというのが皆の偽らざる気持ちであった。「腹が立って仕方がないわ。全然、話にならないわよ。危険なスタントで命を落としたなら、まだ諦めもつくわ。だけど腕いっぱいに食料品を抱えて、ドアを開けた途端に死んでしまうなんて…」と、怒りと悲しみの中でマコーマックは語った。彼女にとって、一番納得出来ないのはブランドンの死の無意味さだった…
ただ、この事件が製作現場における銃の取り扱いを考え直すきっかけになったのは、唯一の慰めであったと言えるだろう。皆の意見は、銃火器の専門家は、俳優にもっと銃に関する知識を与えるべきだという点で一致していた。何と言っても、最終的に銃を手にし、引き金を引くのは俳優なのだから。同時に、どんな撮影にも銃に関してのみ責任を負う火器担当者がいなければならない。拳銃は、腕時計や灰皿と同じようなものと見なしては絶対にいけないのだ。
そしてもう一つ大事な事は、ブランドンの死が撮影現場での行き過ぎた経費節減や尻叩きに対して、敢然と異を唱える勇気を労働者に与えるだろうということである。

ブランドンの死後、『THE CROW』は一時お蔵入りになることも検討されたが、撮影もほぼ終わりに近付いていたことや、婚約者のエリザ・ハットンや母リンダ・リーが完成を強く願ったために製作は再開される事となった。脚本は若干の手直しを施され、予算も1200万ドルから2400万ドルへと大幅にアップされた。そしてブランドンの撮り残したシーンには、CG合成等の当時最新の技術が使用されたのである。
翌94年に映画は完成し、公開されて大ヒットを記録した。『THE CROW』は全米初登場第1位を獲得した。また興行的に大成功を収めただけでなく、ブランドンの演技は、批評家達にも絶賛された。ブランドンは、父親の名前無しでも充分にやっていける事を遂に証明出来たのである。
スクリーンに甦ったブランドンは、溢れんばかりの魅力に輝いていた。

BRANDON LEE THE LAST INTERVIEW
最後に、『THE CROW』撮影中に行われ、宣材として各マスコミに配られる予定であったブランドンの最後のインタビューをここに掲載する。
(ブランドンを「」、インタビュアーを「」と表示)

B:初めて会った時、アレックス・プロヤス監督から、主人公エリック・ドレイブンの目を通して見た映画を撮りたいと言われたんだ。エリックは…死んで、また生き返る。それで、自分でもとても面白いと思ったんだけれど、こんな疑問がわいてきた。例えば、死んでから1年も経てば、彼が愛した人や、彼を愛していた人達は、彼を失ったという事実をやっとの思いで受け入れているはずだ。そんなとき突然に、彼は2日間だけ、この世に甦ることになる…そんな事になったら、1年もかけて彼を失った事を受け入れようとしてきた人達の生活を乱してはいけないと、そうは思わないだろうか?彼は、誰も見たことがない視点から世の中を眺められるはずだ。それが、この役を演じる一番の魅力だった。死の世界から甦った男はこんな風に見えなければならない、等という基準は一つもないんだからね。
『シェルタリング・スカイ』(1949年ポール・ボウルス著)に、こんな素晴らしい1節がある。「我々は、自分達がいつ死ぬのか知らないから、人生を涸れない泉か何かのように考えがちだ。しかし、何であろうと数に限りはある…。幼かった頃の、ある午後の日のことを、これから何度思い出すだろう?…あの大切な一時。あれ無しでは自分の人生は語れない、と思えるあの午後の事を。後4回か5回? そんなものだろうか? では、後何回、満月が昇るのを見るだろう?おそらく、20回ぐらいだろう。それでもなお、我々は際限なく見られる気でいるのだ」
ちょっと回りくどい表現だけど、言ってる事はよくわかる。人は誰でも永遠に生き続けるような気でいるから、何もかもあって当然の事として受け止めがちだ。友達を失ったり、死にそうな目に遭ったりして初めて、世の中の出来事や、まわりの人達の大切さが分かる。この人とはもう2度と会えないかもしれない、と思ったり、外に食事に出掛けるようなありふれた事も、これが最後かもしれないと思ったり…そういう事さ。そう思って初めて、人生の一瞬一瞬の大切さが分かるんだ。
そして、思った。もし僕が死んで、1年経って生き返るとしたら、誰に会いたいだろう、って。もちろん、婚約者のエリザだね。彼女とは、この撮影が終わったら結婚するんだ。ところがエリックの場合は、一番会いたい人がこの世にいない。そこに彼の悲劇性がある。

I:(エリックを演じる上で)肉体的にひどく痛めつけられますね?銃で撃たれ、ナイフで刺され、また銃で撃たれる。何か役作りの上で心がけた事は?
B:
そう、ひどく痛めつけられる。死の世界から甦った時、エリックは最初、自分が何処にいるか分からないんだ。どうやって此処に来たかも分からない…そんな男はどんな風に見えるだろう?まずあまり健康的ではおかしいだろうね。だから役作りのために体重を落としたよ。
それから、あまりぬくぬくと暖まらないようにした。撮影中にこんな寒い思いをするのは何年ぶりだろう?気温5度の雨の日に、靴も履かずにわざわざ外に出たこともある。そうする事で役に存在感が出せたら、と思ったんだ…つまり、彼は感情的にも、肉体的にも、精神的にも、ボロボロのはずだから。何か肉体的に追い詰められていたら、少しでも役に近づけるのじゃないかと思ったんだ。

I:とてもアクションの多い映画ですが、アクションシーンにはどんな気持ちで取り組んだのでしょう?
B:正直言って、今回ほど暴力的な手段に出る主人公に共感を覚える作品は初めてだ。エリックは殺されたんだ。彼が愛した女性も、レイプされて殺された。そして彼は復讐のために甦った。僕が同じ目に遭っていたら、きっと同じ事をしていたと思う。

I:エリックは、服装もメイキャップも喋り方もとてもユニークです。その事について、何か?
B:ぎりぎりまで追い詰められた人間は、他人から見たら狂ってるとしか思えない事をするんじゃないかと思う…。限界まで追い詰められた結果、エリックはメイキャップをしてクロウという外的人格に変身するんだ。自分ではどうする事も出来ない時、それ以上の事が出来る外的人格に変身するというワケさ。

I:それで、エリックは何を手にするのでしょう?
B:愛するシェリーと、もっといい世界へ行ける事になっている。これって面白いだろう? 人によって受け止め方が違うんだから。クリスチャンは天国だと考えるだろうし、輪廻転生の事を思う人もいるだろう。映画でも、ハッキリした事は言っていない。再びシェリーと巡り合って、もっといい世界へ行く機会が与えられる、としか言っていないんだ。

I:この映画には邪悪で陰険なユーモアのセンスが伺えますが?
B:ある意味で、エリックは完全に狂っている。確かに、エリックのユーモアのセンスは邪悪で陰険だけれど、彼は、そんな馬鹿げた事を言うのが当たり前なほど、ギリギリまで追い詰められているんだ。
僕も同じような経験がある。4年ほど前だったか、家に泥棒が入った事があった。男が部屋を物色している時、ちょうど僕が家に戻ってきたんだ。僕は窓を突き破って部屋に飛び込んだ。そして、男に飛びかかっていった。警官が来た時、僕と男はもう一度窓を突き破って、外の舗道で取っ組み合っていたんだ。僕は、男が持っていたナイフを奪って、男の目頭に押し付けていた。ちょうどその時、警官がパトカーでやって来た。僕は、このままでは、何が起こったか警官には分からないだろう、と咄嗟にそう思った。周りにいた野次馬は、「警官を呼べ! 警官だ!」って、叫んでいるばかりだったから。
僕はさっと立ち上がって男から2、3歩離れ、ナイフを道に放り出した。そして、両手を挙げて叫んだんだ。「僕はいい男だ! いい男なんだ!」その時は、そう言うのが当然だと思った。でも、後で考えると、何であんな事を言ったんだろうって、おかしくて仕方がなかった。あの時の思いが映画の中で表現出来たらって思うよ。
原作コミックの中に大好きな台詞があるんだ。エリックが敵を殺す場面なんだけれど、何発か銃を撃ってから「魔法の弾丸理論(ケネディ大統領が暗殺された時に受けた複数の傷が一つの銃弾によるものだという無理のある考え方の事)はお呼びじゃないな」って言うんだ。僕はこんな感じでやりたいと思っている。まず誰かを叩きのめしてから、こう言う。「ケネディの暗殺についてどう思う?」そして、バン、バン、バン!と銃を撃ってから、更に言うんだ。「魔法の弾丸理論はお呼びじゃないな」って。でも、映画で使うかどうかはまだ分からない。

I:今回の映画では運命が大きなテーマになっていると思います。登場人物が過去の出来事と密接に関わっているでしょう?ブランドン・リーの運命についてどう思いますか?
B:僕個人の話しかい?今の僕は、寒くて死にそうだ。ここは本当に寒いだろ?僕自身の運命についてはよく分からないけれど、この役をやらせてもらえて本当に運が良かったと思っているよ…
(1993年3月19日収録)

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ブランドン・リー…我々ファンの期待を一身に背負い、それに見事応えてくれたブランドン。あなたの名前は、父親ブルースと共に永遠にファンの心から消える事はないでしょう。素晴らしい作品を残してくれて、本当にありがとう。どうか安らかに眠って下さい…

(参考文献「衝撃スクープ!ブランドン・リー予言された死の記録」他)
 
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