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オペラ「コジ・ファン・トゥッテ Cosi fan tutte K.588」
<作曲の経緯>
引越し好き(?)のモーツァルトは、1788年6月17日、ヴェーリンガーガッセ135番地(現ヴェーリンガーシュトラーセ16番地)にヴィーン9回目の転居をした。6月26日に「交響曲第39番K.543」、「ピアノ・ソナタK.545」などを完成したが、同月29日には長女テレジア(第4子)が死去している。モーツァルトにとって私生活がどのように創作に影響を与えるものか、多くの人によって興味がもたれてきた。当然、多大な影響があったであろう。だが、この非凡なる大天才は、この点においても凡庸ではなかった。次々と悲しみの中でも大作を生み出していく。長女の死の直後の7月10日に最後の「クラヴィアとヴァイオリンのためのソナタK.547」を作曲、同月25日には「交響曲第40番K.550」を完成し、つづいて8月10日「交響曲第41番K.551“ジュピター”」を完成した。
12月、宮廷劇場での舞踏会のために、「ドイツ舞曲K.567」と「12のメヌエットK.568」を作曲している。これは経済状態の悪化によるためか、こうした機会音楽の作品が多く書かれるようになっていく。この年の6月から84年に入会したフリーメイスンの同志プフベルクオーストリア(1741-1822)に借金の依頼が始り1)、モーツァルトの死の年まで続く。現在、20か21通のプフベルクへ対する借金依頼の手紙が残されている。彼は音楽好きでヴィーンの富裕な織物業者で、晩年のモーツァルトの度重なる借金の申し込みに応じた唯一の人物であった。借金した総額は、1415フローリンにのぼっている。
1789年1月初めにユーデンプラッツ245番地(現4番地)に、10回目の転居をした。2月21日王宮内の舞踏会のために「6つのドイツ舞曲K.571」を作曲し、3月6日にはスヴィーテンの依頼で編曲したヘンデルHändelドイツ→イギリス(1685-1759)の「メサイアK.572」がヨーハン・エステルハージー伯爵邸で初演された。4月8日リヒノフスキー侯爵とプラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ポツダムへ行く。それは侯爵のすすめに従い、家計の逼迫を改善するためであった。出発したその日に、ヴィーンから北西50km離れた南ボヘミアのブトヴィッツ(現チェスケー・ブディヴィツェ)から妻に手紙を書いている2)。この2ヶ月の旅行の間、妻へせっせと出す手紙を見ると、その行間に彼の妻への強い愛、それとは噛み合ってない妻のさめた態度(?)、そして妻に対する不倫疑惑の苦しみが感じられ、読む者の胸をつく3)。ポツダムでプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に謁見を願うが、26日、代理として宮廷音楽総監督デュポールがモーツァルトに会っている。29日にピアノ作品「デュポールのメヌエットの主題による9つの変奏曲K.573」を作曲した。
6月、ヴィーンに戻る。7月に妻コンスタンツェが病気になり、そのためさらに経済状態が悪化し、プフベルクに経済的援助を依頼した4)。プフベルクは500フローリンの申し出に対して150フローリンを送っている。8月初めにコンスタンツェは、療養のためバーデンに向う。おそらくモーツァルトもバーデンに15日から18日まで滞在したと思われる。19日ごろにヴィーンに帰るが、その後も夫モーツァルトの妻への疑惑は増大していった5)。29日ブルク劇場で「フィガロの結婚」が上演され、スザンナ役のデル・ベーネのために新たに2曲(K.577、K.579)が追加された。この上演の成功をきっかけに10月に、ヨーゼフ2世から待望のオペラの仕事を依頼されることになった。今回も台本はダ・ポンテが受け持ち、イタリア語による2幕のオペラ・ブッファ「コジ・ファン・トゥッテ」であった。作曲は1789年10月から年末か1790年1月にかけて行われた。11月、次女(第五子)アンナが生れ、1時間で死ぬ。大晦日には自宅でハイドンとプフベルクを招いて試演し6)、1月21日、劇場での最初のオーケストラ付試演が行われた。
オペラ・ブッファ「コジ・ファン・トゥッテ」のドラマはモーツァルトの私生活と重なる。ナポリの2人姉妹と同じく彼自身も、アロイジアとコンスタンツェという姉妹に恋をした。そして妻コンスタンツェの不倫疑惑では、大いに苦しんでいた。愛の喜び、別離の悲しみ、たわむれの求愛、ゆるし合い(これは「フィガロの結婚」のフィナーレでも見られた。コンスタンツェともゆるし合ってすべてを解決したかったのではなかろうか)の題材は、モーツァルト自身の問題であり、彼は深く共感することができた。また彼は私生活を創作によって昇華させる人でもあった。
かくして新作オペラ「コジ・ファン・トゥッテ」は、1790年1月26日、ブルク劇場で初演された。一応の成功だったが、すぐに不幸な出来事が起った。最大のパトロン、皇帝ヨーゼフ2世が病に倒れ、容体が悪化していった。そうした中でこのオペラの上演が進み、その後2月にかけて5回目の上演が終った直後、2月20日に皇帝ヨーゼフ2世が死去した。直接的にはこの新作オペラの続演の中断を意味し、そのため劇場は2ヶ月間閉鎖されてしまった。
啓蒙主義に熱心であった皇帝は「フィガロの結婚」についても最大の支持者だったという見解もある(従来の説では反フィガロ派であったという意見が強かったが)。皇帝は音楽についてそれ程深い理解はないものの、モーツァルトの音楽に対して好意的であったともいわれている。それにひきかえ、3月13日にあとを継いだ弟の次帝レオポルト2世は、先帝とちがって劇場や音楽に対して関心がうすかった。モーツァルトは早速、次席の副楽長の地位を新皇に帝請願するが、受け入れられなかった。ダ・ポンテは1791年にヴィーンを去ることになるのである。
[注] *制作者と引用箇所の固有名詞に表記の違いがあります
1)海老沢 敏・高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 Y/白水社/p421-424/685 モーツァルトよりヴィーンのミヒャエル・プフベルクに ヴィーン、1788年6月
2)
692 モーツァルトよりヴィーンの妻に ブトヴィッツ、[1789年4月8日] かわいい奥さん! 公爵が馬の取引きでかけ合っている最中なので、この機会を利用して、うれしいことに、きみに、心の小鳩ちゃんにひとこと手紙を書く。−具合はどう?−ぼくがきみを思っていると同じくらい、たびたびぼくを思ってくれてる?−ぼくはいつだってきみの肖像画をながめ−そして涙をながしている−半ばうれしく、半ばかなしくて! 海老沢 敏・高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 Y/p493-494より |
3)
695 モーツァルトよりヴィーンの妻に ドレースデン、1789年4月16日 夜11時半 いとしい女房どの、ぼくはきみにたくさんお願いがあるんだ。−‥‥‥(略)‥‥‥よっつ。ぼくの愛を固く信じること。−きみのかわいい肖像画を目の前に置かないで、手紙を書いたことなんて一度もないよ。‥‥‥(略)‥‥‥いつつ。お願いだから、きみとぼくの名誉を考慮して振舞うだけでなく、外見にも気をつけること。‥‥‥(略)‥‥‥きみに一0九五0六四三七0八二回キスして、抱きしめる(これで発音練習ができるね)。 海老沢 敏・高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 Y/p501-504より |
* 同 Y/p512-514/696 モーツァルトよりヴィーンの妻に ライプツィヒ、1789年5月16日
698 モーツァルトよりヴィーンの妻に ベルリン、1789年5月23日 4日には−4日だろうな? いとおしいわが女房どののもとへ。−きみのこの上もなく美しい愛の巣をきれいに整えておいてね。実際、ぼくの小僧っ児はそれだけの値打ちがあるからね。こいつはまったく品行方正で、きみの最高にきれいなxxxxしか欲しがらないんだ。このいたずらっ児をちょっと想像してみてよ。やつはぼくがこうして書いている間に、テーブルの上にひょっこり頭を出し、[身をのりだして]ぼくに[問いかけて]くるんだ。でもぼくはすかさず鼻っ柱を小指で一発小突いて[やった]−すると[小僧っ児]はほんの[・・・]になった。でもいまじゃ、こいつめ[ますます]燃え上がり、ほとんどもう抑えることができないんだ。 海老沢 敏・高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 Y/p521-524より |
4)同 Y/p529-531/700 モーツァルトよりヴィーンのミヒャエル・プフベルクに[ヴィーン]1789年7月12日
5)同 Y/p536-537/703 モーツァルトよりヴィーン近郊バーデンの妻に[ヴィーン、1789年8月中旬以前]
703 モーツァルトよりヴィーン近郊バーデンの妻に [ヴィーン、1789年8月中旬以前] ただ、ひとつ望みたいことは、ときどきあんなはしたない態度を取らないでほしいということだ。某君に対して、きみはあまいにもなれなれしすぎるよ・・・・・・。某君だって、彼がバーデンにまだいたとき、まったく同じだった。−某君たちが、きっときみより親しい女性とつき合うときでも、きみに対してほど不作法にならないのをよく考えてくれよ。いつもは丁重な男で、ことに女性たちに礼儀正しい某君でさえも、きみの態度ゆえに、実にいやらしい、下品きわまりない、無礼な言葉を手紙でつい書くはめになったにちがいない。− 女というものは、つねに尊敬されるようにしていなければいけないよ。−さもないと、世間の話題になるだけだ。 海老沢 敏・高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 Y/p536-537より |
6)同 Y/p544-545/705 モーツァルトよりヴィーンのミヒャエル・プフベルクに[ヴィーン、1789年12月]
<台本について>
1788年、皇帝ヨーゼフ2世は、財政難のためにイタリア・オペラ団を解散しようと決心した。だが、ダ・ポンテの懸命の画策が功をなしてオペラ団の存続が認められた。そうした後に、「コジ・ファン・トゥッテ」の仕事が持ちかけられた。これはダ・ポンテにとってもモーツァルトにとっても大きな意味をもつことであった。共通する点は、生活がかかった仕事であったということ。しかし、20世紀に入るまでこの台本の評価は低かったが、現在、「コジ・ファン・トゥッテ」はダ・ポンテの代表作とされている。
「コジ・ファン・トゥッテ」をダ・ポンテは何かの焼き直しでなく、自分の構想で独自に組立てたと考えられている。つまりオリジナルなのである。しかし、これと類似した物語が過去になかったわけではない。そうしたいくつかの例をあげてみる。ボッカッチオ「デカメロン」、オヴィディウス「チェファルスとプロクリス」、アリオスト「怒れるオルランド」、セルバンテス「ドン・キホーテ」、マリヴォー喜劇「愛と偶然の戯れ」などがあるが、種本になったとは考えられない。
登場人物は6人で、役の上では同等に扱われている。それぞれの人物が等価で対置される。対照的なキャラクターの姉妹、2人の若い士官(テノールとバリトン)、同じ本質を持ち世間の皮肉な観察者の2人の哲学者と女中が対におかれている。オペラ・アンサンブルの理想型を形成可能な台本であった。
<音楽的特徴>
モーツァルトの他のオペラと区別できる点は、全曲の3分の2が重唱で、冒頭から3つの3重唱から始り、第1幕の真ん中と2つの各幕のフィナーレに6重唱がおかれている点である。第1幕の2組の恋人たちとドン・アルフォンソの別れの5重唱は、オペラ・アンサンブルの極地といえる。2人の士官は見せかけの悲しみ、2人の姉妹は心からの悲しみ、ドン・アルフォンソは皮肉と揶揄が絡み合う。こうしたアンサンブルがごく自然に響き渡る。これぞバロックに誕生したオペラが求めていた頂点のひとつかもしれない。
1790年1月26日、ブルク劇場で初演されたオペラ・ブッファ「コジ・ファン・トゥッテ」の上演は、5回目の上演が終った直後の2月20日、皇帝の死によって中止されるという不幸な自体となった。劇場が2ヶ月間閉鎖されてしまったからである。その後、6月から8月にかけて5回再演されただけで、あまり省みられるオペラにはならなかった。19世紀に入ってパリやロンドン、イタリアのいくつかの都市で演奏されたが、強い反響はなかった。ロマン派時代(1820-1900)を通して、この物語を軽いドタバタ劇としてしか評価されなかった。それに反してモーツァルトの音楽そのものについては評価が高く、音楽の高さにふさわしい台本の必要性が論じられた。そのため台本を全く換えた演奏の試みも行われたりもした。
モーツァルト晩年のよく知られ、名作と名高いオペラに「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」、「魔笛」があげられる。これらと比べて、「コジ・ファン・トゥッテ」を一段低いものと位置づけがされてきたが、今世紀に入ってやっとオペラ・ブッファの正当な伝統に属するものとして、またすぐれたオペラとして評価されるに至った。
モーツァルトの他の作品と比べると、やや個性がうすく、淡彩な印象を与える。しかしその分、音楽自体に清麗な美しさに充ちている。また典型的なロココの華麗にして艶美な様式が、ただよっている。下品さは完全に無縁であると敢えていおう。このオペラに最高のモーツァルト美学を感じるのは筆者だけであろうか。私見ではあるが、モーツァルト最後のオペラ・セーリア「ティトの慈悲」(1791年)とオペラ・ブッファ「コジ・ファン・トゥッテ」(1790年)は、対をなすモーツァルトの重要作品であり、共有するモーツァルトの世界があると考えるものである。どちらも音楽自体が特別に流麗で、中でも女声の重唱が秀逸である。
<物語>
18世紀のナポリ
[登場人物]
フィオルディリージ:ナポリの貴婦人、姉(S)、ドラベッラ:フィオルディリージの妹(Ms)
フェルランド:士官、ドラベッラの恋人(T)、グリエルモ:士官、フィオルディリージの恋人(Br)
ドン・アルフォンソ:老哲学者(Bs)、デスピーナ:姉妹に仕える女中(S)
第1幕
第1場
人生を達観する老哲学者ドン・アルフォンソが2人の青年士官グリエルモとフェルランドと、女性の愛が信頼できるものかどうか議論をしている。2人の青年士官はフィオルディリージとドラベッラ姉妹と各々婚約している。彼女たちが愛をうら切ることはあり得ないと2人は主張してすでに勝ち気分で、女は信じるに値しないいうドン・アルフォンと賭けをする。
第2場
姉妹フィオルディリーナとドラベッラは庭で自分たちの恋人の待ちながら、お互いの恋の思いを話し合っている。
第3場
しかし、ドン・アルフォンソ1人が姉妹の所へ現れ、2人の士官は出征することになったと告げる。賭を実証するための芝居であったが、もちろん彼女たちは気づかない。驚く姉妹のもとへグリエルモとフェルランドが別れの挨拶のためやって来る。
第4場
姉妹は悲しみにくれている。2人ははやさしく姉妹を慰める。その悲しむ姿を見て2人は自分たちの賭の勝利を感じる。これを見てドン・アルフォンソは笑いをこらえる。
第5場
雇われた偽の軍隊が迎えにやってくる。いよいよ出征の船が出るからである。涙の別れをする2組のカップル。姉妹は毎日手紙を書くよう2人の士官に求めている。勇ましく2人は去っていく。
第6場
悲しみの2人の姉妹はいなくなった婚約者たちの航海の無事を祈る。ほくそ笑むドン・アルフォンソ!
第7場
ドン・アルフォンソは自分で自分の役者ぶりをほめている。
第8場
女中デスピーナが登場。彼女が好きな物はお金、男で、自分の女中稼業の不平をぶっつける。
第9場
ヒステリックにやって来た姉妹に朝食をすすめる。そして悲しむ2人を見て、恋人がいなくなれば好都合、新しい恋を求めなさいと浮気をすすめ、焚きつける。ドラベッラはデスピーナを叱りつける。姉妹は感傷に浸っている。
第10場
ドン・アルフォンソはこの女中に共謀を求め、計略を始める。
第11場
出征したはずの2人の士官は魅力的なアルバニア人に変装して姉妹の前に現れ、各々の婚約者でない姉妹に求愛する。驚いた姉妹は強くはねつけ、拒絶する。
第12場
ドン・アルフォンソは2人がにやにやしてるので、どうして笑っているのだねとたずねる。というのは今のところ2人の姉妹の貞操は固いからである。ドン・アルフォンソは戦いはこれからだと宣告する。
第13場
ドン・アルフォンソとデスピーナは笑いが止まらない。
第14場
姉妹たちはこの突然襲ってきた出来事を嘆いている。
第15場
ドン・アルフォンソと2人のアルバニア人がもつれるように入ってくる。2人は偽の毒薬を飲んで死んだまねをする。すると姉妹は驚き、医者を女中に呼ばせる。
第16場
デスピーナが医者に扮して現れ、おもしろ可笑しく手当を施すふりをする。快復したふりをする2人は、しつこく姉妹にキスを求める。姉妹はカンカンに怒り出して大混乱となる。
第2幕
第1場
女中デスピーナは姉妹にお説教を始める。女は15歳ともなれば心得ておかねばなりません。浮気をすべし、あの2人のアルバニア人にもと愛を向けなさいと。
第2場
デスピーナの説教の甲斐あって姉妹はその気になってくる。どっちがいいかしらといい始め、私は褐色の髪の方がいいという風に。
第3場
ドン・アルフォンソは姉妹を庭へ呼ぶ。
第4場
庭に横着けした2人のアルバニア人は、庭に出て来た姉妹の前でセレナードを楽士と共に歌い始める。
第5場
庭で語らい始めた2組のカップル。フェルランドとフィオルディリージは散歩に出てしまう。残ったグリエルモはドラベッラを口説き始める。そしてドラベッラは首にかけていたフェルランドの肖像の入ったロケットを、グリエルモのハートの首飾りと交換してしまう。これにグリエルモは友人の恋人が、かくも早く陥落したことに勝利感と罪悪感を感じてしまう。
第6場
一方、フィオルディリージとフェルランド組。フィオルディリージはガードが固く、まだ落ちそうではない。
第7場
1人になったフィオルディリージは戦場のグリエルモ思っている。
第8場
フェルランドとグリエルモの男性組が登場。先ず、フェルランドがフィオルディリージの不落ちを報告する。喜ぶグリエルモ! しかしドラベッラが落ちたことを聞いてフェルランドは動転する。
第9場
フェルランドに同情してグリエルモは女の浮気ぽさをなじる。フェルナンドはドラベッラを思い切ることができず、彼女への愛を独白する。
第10場
デスピーナと2姉妹がおしゃべり。うきうきである。
第11場
鉄の女フィオルディリージは思い悩み、自分も恋人の後を追って戦場に行こうといい出す。
第12場
ドン・アルフォンソから発破をかけられたフェルランドが登場。剣を抜いてフィオルディリージに与え、自分を刺すようにといって迫る。だが彼女は難攻不落。しかし次第に新しい愛に陥落してしまい、甘美な愛に酔う。
第13場
ともに敗軍の将になったフェルランドとグリエルモ! この2人は現実に戻って怒りを表すが、ドン・アルフォンソはゆるしてやれ、そして悟れ、女はみんなこうしたものCosi fan tutte(コジ・ファン・トゥッテ)と2人の男を諭す。
第14場
そこへデスピーナも現れて、この顛末を2人の青年に認めさす。
第15場
デスピーナとドン・アルフォンソは結婚式の式場の準備を始める。
第16場
2組の花嫁花婿の登場! わき起こる祝いの合唱。
第17場
ドン・アルフォンソが公証人の到着を告げる。現れたのはデスピーナが化けた偽の公証人である。そして結婚証書の署名を終えた時、突然響く軍隊帰還の音! フェルランドとグリエルモが帰って来たのだ。あわてふためく一同! その間にアルバニア人たちは別室で軍服姿に替える。かくしてフェルランドとグリエルモが登場。彼女らは真っ青になって口もきけない。
大混乱のうちにドン・アルフォンソの説教によって姉妹もゆるしを乞い、すべては丸くおさまる。4人は元鞘に収まる。
参考ディスク
DVD UCBD-9014「コジ・ファン・トゥッテ」(発売2003/11/21)
ニコラウス・アーノンクール指揮、ジャン・ポネル演出
ヴォルフガング・トロイ撮影監督
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団
フィオルディリージ:エディタ・グルベローヴァ(S)
ドラベッラ:デローレス・ジーグラー(S)
グリエルモ:フェルチョ・フルラネット(Br)
フェルランド:ルイス・リマ(T)
デスピーナ:テレサ・ストラータス(S)
ドン・アルフォンソ:パオロ・モンタルソロ(Bs)
制作:1988年
2001-2003
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