卒業生に贈る言葉

布施小学校 平成14年度卒業生 卒業文集より

                                               四〜六年担任  北山 雅路
これから書くことは、今の君たちには難しすぎて、分からないことがあるかも知れない。しかし、人生の中で困ったり、悩んだりしたときにちょっと思い出して読んでほしい。そのときに初めて分かることがあるかも知れない。それでは、始めよう。

一、今まで

 君たちはこの布施小学校で生活をして、様々な経験をしてきた。卒業を前にして、今までの君たちの姿を思い返してみたい。
 十九人のクラス。この出会いは最良のものであった。個性にあふれたクラスであり、その個性がぶつかったり、支え合ったりする中で、お互いを成長させてきた。この出会いから友情を持ち続けることが、君たちにとって、自分を見失わず、自分に失望せず、人のことを思いやることのできる自分へと導くことができる基礎となっていくことだろう。
 見つめ続ける自然。この望月、そして布施。もう、当たり前になってしまっているかもしれない。しかし、この風景というものを決して、忘れてほしくない。いかに、この自然というものが君たちを育てたことか。そして、地域の人がこの自然をいかにして守ってきたか。田んぼ学習で学んだことは、私たちが自然と共存していることである。汗水流して自然と取り組む中に、人間としての基本的な生き方があるということである。
 導く者。今までお世話になった先生、親、地域の方々。君たちに関わってくれた人たちは、君たちを導いてきた。これからも君たちを導いてくれる存在に出会うだろう。しかし、すべてを言うがまま聞くことが恩に報いることではない。教えられてきたこと、見せてもらってきたこと、それらを自分自身の頭や体を使って考え、自分なりに実践していくことが大切なのである。
 この三つのものは、常に実感をもって君たちに影響を与え続けてきた。これは、テレビやゲーム、コンピュータにはない。将来に向けた大きな力となる礎なのである。 
 
 

二、現在

 君たちは今大きな変化の時を迎えている。今までは、何かが君たちの行き先を分かりやすく指し示してくれていた。それは教師であったり、両親、家族であったりした。しかし、これからは、自分自身で見つけなければならなくなる。それは、この人生が君たち自身のものだからである。その時期に足を踏み入れようとしているのである。これはいばらの道の入り口なのである。何かに傷つけられて痛い思いを沢山することだろう。あるいは、人を傷つけてしまうこともあるかもしれない。特に青春時代というものは、みんながまだ未熟なために、つらい思いをしたり、させたりしてしまうかもしれない。でもいつかは自分にあった、自分なりの歩き方や道といったものにしていくことができるはずである。 

三、未来

 「今」は「過去」の「結果」であり、「未来」の「原因」でもある。だから、未来というものは、決して勝手にやってきたりはしない。今の自分が未来の自分を決めていくのである。もう一度繰り返すが、決めていくのである。とすれば、自分の未来というものは、決して予め決まってしまっているものではなく、自分自身でいくらでも変更可能なものなのである。しかし、だからといって、すべてが思い通りに行くものではない。それは、他の人が自分の人生に強い影響を与えたり、自分が他人の人生を変えてしまったりするからである。将来というものは、自分の意志と周りの意志が混ざり合ってできてくる。だから人生はおもしろい。 

四、将来を決める力

 私は、君たちと長くて三年しか関わってこなかった。しかし、今の君たちの状態にはおおむね満足している。それは、未完であるということを含めてである。私は君たちを「よい子」にしたくなかった。かといって「悪い子」や「普通の子」という気持ちもなかった。あったのは、「よい大人への道」という意識である。 今は丁度様々な練習期間なのである。上手に行くこともうまくいかないことも沢山ある。悪いことをしたり、人にほめられりすることもする。すべては準備期間なのである。よく、今の時期にしか遊べないと言うが、それは真っ赤な嘘である。準備期間をしっかり過ごせた人は、大人になって、思い通りに生き、楽しく遊んだり、自分のやりたいことがたくさんできる。ただ、遊び方を覚えるのは確かに子どもの時であるから、ずうっと勉強ばかりにかかりきりになるのは、私も反対である。遊びも勉強も、やらなければならない時がある。
 「安易」「中途半端」ということに気をつけたい。ともすると人間は楽な方へ楽な方へと流されてしまう。これは、人間が生きていくための本能的なものだと思う。しかし、その本能的なものを乗り越えて、初めて人間は動物を越えることになる。「安易」これは、深く考えないということである。その場を適当にごまかして通り過ぎることでもある。すると、せっかく経験したことなのに、心や体に残らないのである。次に生かすことができないのである。「中途半端」これは途中で投げ出してしまうことである。あきらめてしまうということである。決してこのままでは、成功するはずはないのである。
 将来を自分の思うように決めていく力は、この反対の力である。「よく考えること」「あきらめない、投げ出さないこと」もう一つ付け加えるなら「我慢してじっと待つこと」である。この三つのことを絶えずできるようになったら、きっと素晴らしい人生になることだろう。 

五、未来を見通す力

 人間には未来を見通す力がある。また、物事の本質を見抜く力もある。普通それを洞察力という。これはどんな人間でも訓練次第で身につけることができる。ただ、その訓練そのものは簡単だが、それを持続させて、洞察力を身につけるのは容易なことではない。
 その訓練とは、自分のやったこと、周りで起こったことを振り返り、その原因が何であったか考えることである。何だそんなことかと思うかも知れない。しかし、普段は行っていないのである。一日の終わりに布団の中で五分でもいいから今日起こったこと、自分のやったことを思い出してみてほしい。そして、それがどうしてそのようになったのかを考えるのである。すると、そこに、いろいろな原因と結果の流れというものが見えてくる。それを他の似ている場合に当てはめていくと、未来を見通したり、本質を見抜いたりできるのである。 

六、自由

 「自由に生きたい。」「人に押しつけられて生きるのは嫌だ。」これは誰もが思うことである。ではどうすれば自由に生きられるのだろう。
 自由というのはどういうことなのだろう。私は自分の責任で何でもできるようになるということだと思う。君たちはまだ、自分で責任がとれない。何か悪いことをすれば、全部親が責任をとる。自分の知らないところで自分がやったわけでもないのに、「自分がいけなかった」とお父さんやお母さんは、君たちのために謝る訳だ。それが責任をとるということなのである。つまり、君たちはまだ責任がとれないだけ、不自由なのである。 自由になるためにはどうしたらいいのだろう。正しい判断と自律を身につけることだと思う。物事の善悪について、正しい判断のできない人に自由はあり得ない。また、正しい判断ができても、悪いことがやめられる自律の力がなければならない。そんなことを許したら、自分や他の人の自由や生命が脅かされてしまう。自分で行動の枠を決めることが自由への第一歩だと思う。
 自由は自分勝手とは違う。何でもかんでも自分の思い通りになればいいと感じている人もいるようだが、それはとても動物的な感情に支配されているのである。これはとても不自由な状態だと思う。我慢するという意志が自由に行えないからである。これがしたい、あれがしたいというときに、どうしても無理なときがある。このときに我慢ができる、自分を自分でコントロールできることがはるかに自由である。
 それは同時に大人になるということでもある。二十歳になれば自動的に大人扱いされる。しかし、だからといって、みんなが大人になっているわけではないだろう。でも、自分のやったことには責任をとってもらうことになる。大人になり切れていないのに、責任ばかりがやってくる。こんな不自由な世界もないだろう。
 行動の自由の他に、思考の自由というものがある。つまりは自由に考えられるということである。人間は思いこみを持って考えている。気がつかないうちにそうなっていることも多い。たとえば、自分はこれが苦手だというのもその一つである。これは、たまたま初めてやったときにうまくいかなかったりした時、そのことで自分が傷つかないように、苦手だと思うことで、救っているのである。また、差別や偏見というのも、同じような思いこみである。そのような思いこみを取り除いて考えるときに自由であると言える。思いこみというのは無意識であることが多いので、これこそ、自分をよく観察して、注意深く、そのことに気づかなくてはならない。 

七、素晴らしい君たちへ

 本当に君たちに出会えたことを幸せに思っている。この三年間に君たちと同様、私自身もとても成長させてもらった。初めての三年間見通せるということで、不安と期待があった。また少人数ということ、個性的なクラスであること、そして、同じ学年に自分しか教師がいないこと。日々自問自答の繰り返しであった。しかし、すべてのことがいい方へいい方へと導かれていったことは、この出会いがいかに大切であったかということの証明でもあったように思う。
 と、同時に、家の人たちに大きな感謝の気持ちを伝えたい。君たちを陰に日向に支えてくれた家族の力というものは、とても計り知れないのである。自分が子どもを持つ身になって分かることは、親というものがいかに子どものことを考えているかということである。そのことがこのクラスではとても機能されており、また、担任に対する深い理解に支えられて、君たちを関わる環境というものが実に幸せであったと思う。
 多分、私は一生忘れることはないだろう。この布施小学校で、君たちという素晴らしい子どもたちに恵まれ、実に充実感のある仕事をさせてもらったことを。
 君たちを育てたものは、親であり、自然であり、地域である。学校や教師はそれを手伝ったにすぎない。また、一番大切だったのは、君たち自身が成長しようとしていたことである。これから、どんどんと成長を続けていくことだろう。しかし、その成長はとどまることを知らない。私だって未だに成長期である。身体に関しては成長が止まっているが、精神であったり、心であったり、知能であったりといったところは、行き着く先が見えていない。
 自分自身が満足のいくように、生きてみよう。そして、いつかまた会おう。そして、お互いの成長に喜び合おう。 

八、最後に

 最後に、素晴らしい君たちに感謝を込めて次の言葉を贈ろう。
「人生は試行錯誤である。失敗をおそれずにがんばろう。」

    我狼