『日本の息吹』平成8年2月号掲載
日本の建国の歴史は皇室によって守られていた―。知られざる皇室の祭祀について一昨年の春まで六年間にわたり宮内庁掌典(宮中の祭祀を司る役職)として宮中にお仕えしてきた鎌田氏にお話を伺った。
鎌田 純一 元宮内庁掌典
かまた じゅんいち
大正12年大阪生まれ。昭和18年学徒出陣。駆逐艦航海士となる。21年国学院大学文学部国史学科卒業。30年同大学日本文化研究所研究員。35年同大学講師を兼任。37年皇学館大学助教授、40年同教授。53年神社本庁中央研修所講師を兼任。昭和63年より宮内庁掌典として宮中に仕え、平成元年祭事課長。平成6年に退職するまで、今上陛下の即位の礼、大嘗祭、神宮式年遷宮など皇室の重儀にあたる。皇太子殿下の御成婚に際しては雅子妃殿下への宮中祭祀、神宮祭祀の御進講を担当。皇学館大学名誉教授。
■ 国の始めと皇位の由来
― 天皇陛下は二月十一日の日はどのようにお過ごしでしょうか。
鎌田 思し召しによる宮中三殿への臨時御拝があります。戦後、GHQの圧力で紀元節祭は廃止されてしまい、紀元節祭という名称は使っていませんが、先帝(昭和天皇)は戦前の紀元節祭を受け継がれ、二月十一日には臨時御拝のお祭りを欠かさずなさいました。そして今の陛下もそれを受け縦がれ、そのまま行っておられます。またその日は橿原神宮に勅使を遣わしておられます。
《戦前の紀元節は元旦、天長節、明治節と並ぶ四大節で、宮中における紀元節祭は大祭であった。》
― 法律上の規定はなくなっても、陛下は前と同じようになされているわけですね。
鎌田 はい。思し召しです。陛下がお祭りをすると仰せられる、掌典職はご奉仕させて頂くわけです。宮中では年頭一月一日の四方拝、歳旦祭に続いて、一月三日に元始祭(げんしさい)が行われます。この元始祭は大祭、天皇御親祭で年の始めにあたり、皇位の大本と由来とを祝し、国家、国民の繁栄を三殿で祈られるお祭りです。
― ということは宮中では年頭にすでに我が国の国の始めを祝うお祭りを齋行されているわけですね。
鎌田 そうですね。つまり皇位のよってきたる大本と由来とを祝し、また実際に第一代の天皇が即位された日と、その両方を大切にされてきているのです。
― 皇位の大本とは何でしょうか?
鎌田 それは天照大御神が授けられた天壌無窮の神勅です。「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国はこれわが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。さきくませ。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむことまさに天壌(あめつち)と窮(きはま)り無かるべし」という神勅のまにまに瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨されてあと、やがて神武天皇が大和の橿原で御位に就かれるということになる。つまり、皇位は神勅に由来するということです。そして皇位の御しるしが三種の神器です。
― 正に神話に起源を持ち、神武天皇から天照大御神の御神勅にまで逆上ってお祝いするのが元始祭なわけですね。
■ 皇祖皇宗へのご崇敬
鎌田 私共にとって伊勢の神宮というと天照大御神、神様ですが、陛下にはご祖先なのです。第一のご祖先のお宮という念が非常にお強いことを、私は即位の礼、大嘗祭の後或いは式年遷宮の後、伊勢の神宮に御親謁になった陛下の本当にお喜びでいらっしゃるお姿によく拝見できた気がします。また、外国ご訪問のとき、天皇皇后両陛下、皇太子同妃両殿下の場合はご出発とご帰国のとき、必ず宮中三殿でお祭りがあり、伊勢の神宮、神武天皇陵、昭和天皇陵に御直拝あるいは御代拝なされます。他の皇族方の場合は賢所に御拝されてから行かれ、またご帰国のあとすぐに御拝なさいます。そのことは極めて厳重です。
その厳重さはお祭りにおける御所作やご研究の態度にも現れています。私自身が実際にお仕えさせて頂いて、陛下は日本のどの神主よりも御所作が厳格ですし、そのお祭りの意義或いは沿革について詳しく研究された上でお臨みであると拝見させて頂きました。ご即位後、伊勢の神宮に行かれたときにも、御所作について念を押され、ご下問になる。その厳格さに私は思わず感嘆し、きっと天照大御神様およろこびでいらっしゃるなあと感じました。
皇室の祭祀には明治から始まったお祭りもあります。そういったお祭り ―例えば先程の元始祭もそうですが― のときは特に陛下は明治天皇はどのようにあそばしたのだろうか、記録にないかということをよく聞かれました。それはお祭りの起源を尊ばれると同時に先帝が明治天皇ご崇敬の念極めてお厚かったことを今の陛下がそのまま受け継ごうとされるお姿でもあると拝するのです。
陛下は毎年、新嘗祭の御習礼(ごしゅらい)(※お稽古のこと)を必ず二、三度なされますが、大嘗祭のときには御習礼を六度もなさいました。陛下は御習礼といえども、少しも揺るがせにされない。一度は完成前の大嘗宮の中で御習礼あそばされましたが、そのときは、昭和天皇のご学友で、侍従もされた永積元掌典長を側におかれて「先帝と少しでも違っているところがあったら言うように」と仰せられて御習礼に臨まれました。また陛下が全皇族方に「大嘗宮を見ておくように」ということで、全皇族を完成前にご見学にお連れになられた。そして陛下はここのところに皇太子を入れていいか、と確認されて、皇太子殿下をおそばにお呼びになり、「ここのところをよく見ておくように」と仰せられる。ご長男教育を実によくあそばされると感じ入りました。
■ 祭祀への厳重なご姿勢
今年(平成七年)の一月一日、午前五時五十三分、関東方面で震度三の地震がありましたが、そのとき、私は今下っておりますが、ひやっとしましてね。といいますのは、その時分は歳旦祭で陛下が賢所でご拝礼されている最中なんです。後でききましたら、陛下はじっと平伏されていて決してお揺るぎにならなかった、勿論地震をお感じになったはずですけれどもね。それくらい陛下のお祭りに臨まれるご態度は厳粛なものなんですね。これが歴代天皇のご精神でいらっしゃる。国民全体が緩んだ中でも、陛下は決してお祭りを揺るがせにされることはないということを私はよくよく拝見させて頂きました。
宮中三殿の祭り主、つまり一般神社での宮司にあたるのはどなたかというと、それは陛下でいらっしゃる。陛下には、大祭小祭などのほかに旬(しゅん)祭の毎月一日には御直拝で御三殿に必ず御拝あそばしておられます。
《宮中三殿 ― 中央に天照大御神をお祀りされている賢所(かしこどころ)、向かって左手に神武天皇から昭和天皇までの天皇方、皇后、皇妃、皇族方の御霊をお祀り申し上げる皇霊殿、右手に天神地祇八百万神をお祀りされている神殿が鎮座まします》
― 毎月ですか。
鎌田 はい。私がお仕えしていた間、一度は外国に行ってらっしゃってご無理であったこと。もう一度は大雪で回廊に雪がたまってどうしようもなかったとき庭上からの御代拝ということがありましたが、その二回を除いてすべて、ご自身宮中三殿にいらっしゃっていました。宮中三殿には冷暖房の設備はありませんから、夏暖房、冬冷房です(笑)。また時間は早朝で、例えば歳旦祭は午前五時半ですから午前四時半頃には綾綺(りょうき)殿においでです。今の皇太后様が先帝が歳旦祭に出られるときお詠みになられた御歌で「星かげのかがやく空の朝まだき君はいでます歳旦祭に」(昭和五十年「祭り」)とありますね。
― 皇后陛下もお見送りされるわけですね。私たちが全然知らないところでのお祭りの営みですね。
鎌田 それは、私たちも考えなければいけないことですが、今は宮中祭祀を陛下の私的行事ということにしてしまっていますから、取材は一切させません。またいいかげんなことを書かれても困りますから。ただ、そのときどきの法令がどうであろうと、幕府の時代であろうと何であろうと陛下ご自身は天照大御神の御神勅以来のお祭りをきちんとあそばしていらっしゃるということです。そのことは先帝が今の陛下に、今の陛下が皇太子殿下にと如く、代々受け継がれて来たご伝統です。
■ 厳重な戒め
― 他の皇族の方々の祭祀へのご姿勢はいかがですか。
鎌田 各殿下妃殿下方熱心でいらっしゃいます。皇后陛下も敬神の念、極めてお厚くいらっしゃいますし、皇太子殿下もお祭りにご熱心で、ご研究も重ねておられます。ご専門の中世交通史に関連して、神社文書等も実に丹念にお調べでいらっしゃいます。御多端の御公務のなかで敬服のほかありません。
― 皇太子妃殿下には鎌田先生が御進講なさったのですか。
鎌田 はい、宮中祭祀、神宮祭祀について御進講させていただきました。『古事記』『日本書紀』などの古典にあたりながらご説明申し上げましたが、ご自身で皇族としてわきまえておかなければならないのは宮中祭祀だということをよく知ってらっしゃいました。外国の上流の人たちは皆宗教を持っていて自分を律している、それをよく見てこられているのだと思います。それから御拝のときも一を聞いて十を知ると申しますか、きちんとなされて、さすがにご聡明だなあと。秋篠宮殿下以下の皇族方からもよくご下問いただき、皆さんお祭りにご熱心です。そして、天皇陛下は全皇族方に対してきちんと範を垂れておられます。「鎌田掌典、皇族方を集めるから大嘗祭について話すように」とご下命頂いたこともございます。また例えば伊勢神宮の神嘗祭のときなど、全皇族方お慎みです。先帝もそうでしたが、陛下もご公務だからといってその日に皇族が外出されることは許されません。その戒めは厳重です。
― 最後に、今年(平成七年)は終戦から五十周年の年でしたが、英霊への思し召しについて何かご体験がございましたらおきかせ下さい。
鎌田 硫黄島を詠まれた御製、それから八月に遺族会に下賜された御製に英霊への深い思し召しを拝することができますが、私自身に「鎌田掌典は戦争中はどこにいたか」とご下問頂いたことがございました。「駆逐艦航海士として津軽海峡を主として敵潜水艦の哨戒と掃蕩の任に当っておりましたが、最後は艦載機群のために大破、航行不能となりました」とお応えすると、「戦死者は?」と仰せられる。「二七〇名乗檻のうち、二三名が戦死。五十数名が重傷を負いました」すると陛下には「慰霊のことは」と。そこで「遺体の残っていた者は、陸揚げして火葬しましたが、その後毎年七月十四日にその地で慰霊祭を行っております」と申し上げますと「慰霊のことはよくするように」と仰せられました。先帝が大東亜戦争の戦没者に対していかにお心を注がれたかということをよく知っておられ、それを御継承なされているお姿を尊く拝しました。(平成七年十二月二十日取材)
歴史 ─ 悠久の歴史と先人の歩みに学ぶ