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「代替産業」育たず/脱・ポスト石炭(中)

2008年03月27日

写真

廃虚と化したネイブルランドの建物=大牟田市で

 「おれは『神様』と言われてるんばい」

 元「鉱害屋」の男性(71)は胸を張った。

 筑豊の田園地帯、嘉麻市上西郷地区。瓦付きの高塀で囲まれ、100坪を超えるような邸宅十数軒が連なる。約20年前、地盤沈下対策などの国の鉱害復旧事業で整備されたものだ。男性は地元から白紙委任状を集め役人との交渉を担い、事業着手を認めさせたという。

 茅葺(かや・ぶ)き屋根の民家が多かったというが、次々と建て替えられた。男性と一緒に活動した土建業者は「1軒あたり3千万〜5千万円の予算が落ち、業者も仕事にありつけた。鉱害さまさま、だよ」。

 今、この集落から若者は離れ、残っているのはほとんどお年寄りだけという。中小の土建業者も事業終息後は、次々とつぶれていった。「昔は黙っていても仕事があった。みんな努力しなかったもんなあ」。この業者は、しみじみ話した。

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 大牟田市中心街から西に約2キロ。貯炭場跡に建設されたテーマパーク「ネイブルランド」がひっそりと残骸(ざん・がい)を陽光にさらす。人気があったという水族館はカラスのすみかになっていた。

 三井三池炭鉱を抱えた同市の閉山対策の切り札として建設されたものの、開園3年余りで閉鎖に追い込まれた。87年度からの国の第8次石炭政策で減産が打ち出され、同炭鉱では下請けまで合わせて約3千人の労働者が失業する見通しになり、出てきたのがネイブルランド構想だった。

 当時はリゾート法が成立、全国でテーマパークが乱立し始めていた。市の幹部は「計画をやめたら市長の首が飛ぶような雰囲気もあった。それで行くところまで行った」と語った。

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 約半世紀続いた石炭政策の方向性は、通産相(当時)の諮問機関、石炭鉱業審議会と産炭地域振興審議会で道筋がつけられていた。当時の委員は「筑豊には、石炭政策に翻弄(ほん・ろう)されたという強烈な被害者意識があった。地元有力者が『国の都合でめちゃくちゃにしておいて、何だ!』と怒鳴り上げれば、要求がすんなり通った」と漏らす。

 添田町の山本文男町長(82)は、87年から全国鉱業市町村連合会長として国との交渉の前線に立った。「筑豊で100年は石炭を掘った。だから、100年は元に戻す施策が必要なんだ」と主張する。

 ただ、地域の自立を促す政策は実現できなかった。「石炭に代わる産業を用意すべきだったが、国への甘えを断ち切れなかった。私たちの努力が足りなかった」

 国から旧産炭地につぎこまれたカネのうち少なくとも2兆円が鉱害対策と失業対策の両事業に流れた。残ったのは地域の疲弊という現実。飯塚市の元幹部は言う。

 「みんな今日食うメシのことばかりで、未来を考えなかった」

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