安重根の評価
安重根への評価は日本の植民地支配及び彼の闘争行為を肯定するか否かで分かれる。
安重根(アン・ジュングン、1879年9月2日 - 1910年3月26日)は朝鮮の民族主義運動家。両班の家庭に生まれた。伊藤博文の暗殺者として有名。
現在の韓国では「抗日闘争の英雄」として評価され、「義士」と呼ばれており、暗殺者(テロリスト)であるものの、安を単なる殺人犯とする評価はまれである。またソウル特別市には安重根の偉業を伝える「安重根記念館」なるものもある。なお、暗殺行為を除いた人間安重根については、高潔であったとの評価が韓国では定着しているが、東学党の弾圧等の悪政にかかわっているという見方もある。
一方北朝鮮では救国の意志は認めるのの、安の「暗殺」手段は評価しない。「併合に対して消極的であった伊藤博文を暗殺の対象に選んだ」ためである。教科書では金日成の反面教師のように扱われる。
- 参考:映画『安重根が伊藤博文を撃つ』1979年 北朝鮮
日本
安重根は暗殺者であるが、その暗殺に意味を付加しうるかどうかは伊藤博文の政治業績をどう評価するかの思想的立場で評価が変わる。
・テロリスト説
伊藤博文は韓国併合の反対者であったことが有名だが、そこから「伊藤博文が朝鮮の独立をのぞんでいた」と見る立場からは、「伊藤博文暗殺こそが韓国併合を実現させた、あるいは実現を早めた」として、彼を「先の見えないテロリストである」と評する。
・義士説
1905年第二次日韓協約(乙巳保護条約)を結び、日本は韓国から外交権を奪って事実上の保護国とした。統監府が漢城に設け、初代韓国統監には伊藤博文が就任した。韓国支配の象徴的存在であった伊藤博文の暗殺は、民族の独立を願う志士の純粋な行動として、幕末の攘夷志士につながるところがあり、安重根の裁判を担当した日本の検事から「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆の声があがるほどであった。ただし、明治時代の日本人は、立場が違っても、相手を忠義の志と見れば、一定の敬意を払うことがめずらしくなかった。そうした敬意は、時流を見誤った愚かな行為という判断と必ずしも矛盾しない。
・人身御供説
伊藤博文の随行員として事件現場にいた外交官出身の貴族院議員である室田義文が、
1.伊藤博文に命中した弾丸はカービン銃のものと証言しているのに、安重根が持っていたのは拳銃である。
2.弾丸は伊藤博文の右上方から左下方へ向けて当たったと証言している。
ことなどから、伊藤博文に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない、という説が根強くある。この説では、安重根は、事件の真相を闇に葬るための人身御供とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%87%8D%E6%A0%B9