日本の反体制運動への弾圧と、その前後の時代との比較
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朝鮮総督府の時代には、 1910年の日韓併合から1919年の3.1独立運動の至るまでの10年間を見ると、
1913年の独立義軍府事件、光復団活動 1915年の国権恢復団中央部事件 1917年の光復会事件 など、秘密結社の活動や反抗事件があったものの、 きわめて散発的で、併合に対して行動で反対を示したことは、諸外国に比べて意外に少なかった。
少なくとも戦後、李承晩政権後の 朝鮮戦争を経ての10年間、あるいは15年間の韓国社会と比べると、 日韓併合後の10年間、あるいは統監府統治からの15年間は、 むしろ「日帝」時代のほうが朝鮮の社会としては安定していた、と言うべきではあるまいか。
以下の、その前後の時代と比較してみよう
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李朝時代の反体制運動に対する残虐な処刑
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李朝時代の反体制運動に対する残虐な処刑は、 朝鮮総督府時代に比べると、実に想像を絶するものであった。
李朝は19世紀に入ってから、カソリック教徒への激しい弾圧を続けた。
1801年の「(しんゆう)辛酉教獄」で、清国人宣教師の周文謨をはじめ300余名を処刑した 1839年の「(きがい)己亥教獄」でアンベールら三人のフランス人宣教師をはじめ200余人を処刑 1846年の「丙午教獄」で、金大建ら20余人を処刑 1866年の「丙寅邪獄」で、ブルマーをはじめとする9人のフランス人宣教師と、南鐘三ら数千人のカソリック教徒を逮捕、処刑した。 1865年から3年間、約8000余人のカソリック教徒を処刑という弾圧政策をとった。
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李承晩政権後の弾圧
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戦後の李承晩政権は、 1960年、学生運動(4.19革命)で追われるまで評判は芳しくなかった。
例えば、 済州島の「4.3事件」における3万人虐殺はアメリカ軍政支配下で、アメリカ軍の責にしたとしても、 1951年、居昌(コチャン)事件では、 (市民700余人を共産ゲリラ容疑で虐殺)では、国会調査委員会の調査では、各地方で虐殺された市民が8500余人と報告し、立法、司法、行政機関が合同で「良民虐殺事件処理特別措置法」まで制定した。
1951年、国民防衛軍事件では、 10万人が虐殺され、100万人の第二国民兵を飢えと疫病に追い込んだ。
(ポド)保導連盟事件では、 「ハンギョレ新聞」や「時事ジャーナル」によると30万人の虐殺があったと告発している。
白骨団(ベッコル)土峰団(トオボン)などの組織が 政敵を暗殺、処刑したり、野党国会議員50余名の強制連行事件、 1956年、野党副大統領、張勉(チャンミョン)の襲撃 1958年、政敵である進歩党党首曹奉岩(チョボンアム)のスパイ容疑での処刑
南北政権の反体制運動に対する不寛容さは、 総督府時代とはあうまりにも対照的ではあるまいか。
黄文雄著、中国・韓国の歴史歪曲(光文社)より引用
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国民補導連盟(国民保導連盟事件)1950年
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1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発するのですが、この直後に起きた事件ですね。
国民補導連盟とは、 今まで厳罰一辺倒だった共産分子への対応を改め、 自首期間中に、共産党の甘い言葉に騙された人は、 自首して国民保導連盟に 所属すれば、罪は問われない、としたもの。
左翼に 転向した人や、その家族たちを ‘助けて、正しく導く(補導)’という意味を持つ組職で、 事実上、李承晩政権の反対勢力をだった人に、罪を悔やみ、李承晩に忠誠する機会を与えるというものだった
ま、左翼組織に入ったことがあると当局が認識してい た人々を、 強制的に加入させた組織であり、あるいはかつて漢拏山に避難して隠れていた人々、 こういう人々が朝鮮戦争のさなかに予備検束され、韓国人自身の手で処刑されることになっていくわけで、朝鮮戦争中に左翼関係者を無抵抗で非武装の国民、合計30万人が虐殺した事件のようです。
以後、人民軍の占領地で起きた、仕返し虐殺の原因を提供する事にもなった。.
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