1876年 小笠原諸島
1885年 大東諸島
1891年 硫黄列島
1895年 尖閣諸島
1898年 南鳥島
1900年 沖大東島
1905年 竹島
1908年 中ノ鳥島(架空)
1931年 沖ノ鳥島
上の年表は、日本周辺の島を領土編入した年を示している。
もちろん、これが全てではないが。
なぜこのような「領土編入」を改めて宣言する必要があったのか?
それは、19世紀という時代が世界各地で領土に対する権利を囲い込む時代だったからだ。
韓国人は、「独島は古い時代から韓国の領土だった」と主張するが、古い時代の領土観を、現代的な感覚で考えてはいけない。
支配し統治をするには金も人もかかる。
昔の権力者は、支配する意味の無い小島などに、それほど領土としての興味を持たない。
ましてや竹島など、水も食糧も自給できない、つまり人の住めない岩礁だ。
現在のように領海や経済水域といった諸権利が付随するならともかく、古い時代に権力者が竹島の領有に関心を寄せていたと考えるのは大きな誤りだ。
それが、19世紀の帝国主義時代になると、列強は「無主の島」を探して占領し、自国領土としていった。
たとえば1876年に編入した小笠原諸島など、日本政府はだいぶ苦労した。
日本の開国前からアメリカの捕鯨船がこの島に頻繁に停泊し、少数ながら欧米人の住民もいた。
1853年に日本に来航したペリー提督は、小笠原に立ち寄り領有を宣言し、島の長官まで任命していった。
後に、当時の徳川政府がこのことを知ると、改めて役人を派遣して島を探検調査し、役人を駐在させ、領有の意思を示した。
ところが明治維新後も「日本は小笠原の領有権を放棄したのではないか」という外国からの問い合わせが相次ぎ、イギリス・アメリカなどと交渉を重ね、ようやく1876年に小笠原の領有を各国に通知するに至る。
それに刺激を受けたのかどうかは分からないが、その後、日本は周辺の「無主の島」(無人島)を探しては測量・調査し、領土に編入していった。
中には、「中ノ鳥島」という架空の島まで領土にしており、なかなか笑える。
しかしそれも、帝国主義の時代を生き抜くための日本の努力の足跡なのだろう。
そこで、竹島だ。
上で説明したように、当時の領有権主張は、「早い者勝ち」という側面がある。
住民がいるなら外国人が勝手に入ってくると紛争になるから、お互いの政府はその領有権に関心を寄せることになる。
しかし、普段はあまり気にしないような絶海の無人島の場合は、どうしても「早い者勝ち」になる。
当時の朝鮮政府が「領有権の囲い込み」にもっと関心を持っていれば、竹島の問題もまた違った形になっていたかもしれない。
しかし、所詮は後の祭りだ。
日本の方が朝鮮よりも竹島領有への関心が高く、いち早く行動を起こした、ということなのだ。
(ちなみに、竹島編入は日露戦争中であった。)
釈然としないだろうが、これは事実であり、当時においては合法的な手続きを踏んでいる。
時代の波に乗り遅れた朝鮮政府の、「竹島への無関心」という100年前の失敗を、今から抗議することで取り戻そうとしても、無駄なことだ。