近代の歴史は、扱いが難しい。
歴史は、言うまでもなく学問として研究されるが、時代が近ければ政治がそれに評価を与える場面があるし、また国民感情とも深く関わっている。
例えば、「WW2において、日本はアジアを侵略し、アジア諸国に多大な被害を与えた」という評価がある。
これは、現在の国際政治の世界では一般的な評価であり、日本政府も公式にはこれに異を唱えることは難しい。
現在の国際秩序のベースはWW2の戦後処理の中で築かれており、日本もその価値観を受け入れているからだ。
一方、歴史学上はこれと違った評価もある。
それは、学問としての歴史学が、政治的判断から自由な立場にあるからだ。
学問上の議論は、自由であっていいし、そうあるべきだ。
しかし残念ながら、時代の近い歴史ほど、政治が学問を左右する。
例えば、ナチスの虐殺行為の真偽を問いただすような研究は、タブーに近い。
韓国内で学者が「慰安婦は売春婦だった」と主張するのは大変な勇気がいる。
それらの主張を快く思わない者にとっては、不快な主張が議論さえ許されずに封殺されるのは、心地よい状態かもしれない。
しかし、その状況が学問の発達を妨げる可能性について考えているだろうか。
事実認定に賛否両論が残る問題に対して政治が判断を下すことについて、危うさを感じることはないのだろうか。
研究者の間で「Aか?Bか?」と議論が分かれているところに、政治が「Aが正しい」と結論を下すのが、歴史学の健全な姿だろうか。
このような「学問への政治の介入」は、韓国ではしばしば歓迎される。
日本の教科書問題は典型的な例だろう。
教科書問題を純粋に学問的な問題と捉えているなら、日本に対してまず提案すべきは、修正要求ではなく専門家による充分な検討であったはずだ。
海外の慰安婦関連決議についても同様。
「国際社会から圧力をかけて日本に歴史を認めさせる」という発想は、政治介入以外の何物でもない。
結局、韓国人にとって、真実はどうでもよく、むしろ不快な真実を知るくらいなら己自身の手で自らを騙し続けたいのだろう。
彼らの「国民感情」が、その原動力となる。
国民感情が民主制(衆愚制?)のもとで政治的な力となり、学問への政治介入を後押しする。
この悪循環をどこかで断ち切らない限り、韓国人が歴史の真実に迫る日が来ることはあるまい。