ここから本文エリア

現在位置:asahi.com>関西>関西の住まい>ぷらっと沿線紀行> 記事

PR関西の不動産情報

捨てられかけた巨大駅 JR大阪駅

ぷらっと沿線紀行(47)

 午前8時、JR大阪駅の朝の通勤ラッシュはピークを迎える。5面10線のホームに近畿一円から通勤電車が到着し、はき出された人波は階段や通路を埋め尽くす。

写真再開発工事が進むJR大阪駅。ホームに北陸行きの特急を待つ乗客たちのシルエットが浮かび上がった
写真駅北側で行われる新ビル建設工事。北ヤードを含め、大阪の新しいシンボルとして生まれ変わる予定だ
写真過去の地盤沈下などの影響により、階段が迷路のように入り組むJR大阪駅の構内
写真朝のラッシュ時。大阪環状線のホームには、多くの乗客が列を作った=いずれも大阪市北区
写真JR大阪駅の西側、阪神高速池田線梅田出入り口の脇に移設された清水太右衛門殉職碑=大阪市北区梅田3丁目
地図  

 06年度の1日平均の乗車人員は約42万3千人。JR駅では新宿、池袋、東京、渋谷に次ぎ5位だが、「日本一」の時代があった。

 「汽車は、十五時間かかって、岐阜から大阪駅に着いた。(中略)大阪駅のホームからは、闇市の夥(おびただ)しいバラックが見えていた」

 作家、宮本輝さん(61)の自伝的大河小説「流転の海」の冒頭。実父をモデルにした主人公・松坂熊吾(くまご)が敗戦から1年半後の1947(昭和22)年3月、大阪駅前の闇市から再起を図る場面だ。

 当時大阪鉄道局にいた元衆院議員の野中広務さん(82)は「駅の南側は(密造酒の)どぶろく街。浮浪者が寝そべってバラックを建て、いまは想像もできない無残な姿でしたね」と話す。

 第5部まで刊行されてなお完結しない畢生(ひっせい)の大作を大阪駅から書き始めた理由を、宮本さんはこう明かす。「大阪という独特の多様性を持つ都市を中心に展開することを、まず最初にそれとなく、しかし強く、宣言しておきたかったのです。あらゆる関西人とおなじく、私にとって大阪駅は、無数の思い出の巣窟(そうくつ)です」

 人の往来と街の中心にある、この巨大駅を放棄し、別の場所に新駅をつくる構想があった。

■支えられ続けて、今

 昭和20年代後半、大阪駅は至る所で地盤沈下を起こしていた。

 駅東端では最大で1.8メートルも沈下し、線路の勾配(こうばい)は基準値の7倍を超えた。100メートル走ると2.5メートルの落差が生じる傾き(25パーミル)。コンコースにも段差ができた。いまも構内のあちこちに残る階段やスロープはその名残だ。

 大阪発東京行きの急行列車は出発直後、蒸気機関車の動輪がごう音をあげて空転した。機関車1両では足りず、2両で引いたことも。線路の下に砂利を詰めてかさ上げしたが、荷重でさらに沈む悪循環で、「東海道線最大の難所は大阪駅」といわれるほどだった。

    ◇

 1953(昭和28)年、後に国鉄総裁を務めた仁杉巌さん(92)は、国鉄大阪工事事務所の次長に就くと同時に対策を迫られた。鉄道技術研究所とチームを組んで原因究明にあたった。

 駅の地下を掘削調査すると、梅田粘土層と呼ばれる軟弱地盤が続き、地下約30メートルで天満砂礫(されき)層という固い地盤にやっとたどり着いた。梅田の語源は「埋め田」と言われるように、まるで豆腐の上に駅舎が載っている状態だった。

 高架橋の基礎くいには、天満層まで届く長いくいと、届かない短いくいが混在したため、等しく沈下せず、落差が生じていたのだ。

 仁杉さんは「確実に沈下を食い止められる工法があったわけではなかったので、今の大阪駅を捨ててもっと北の方に移してしまう案も実際に検討した」と振り返る。

 現在の東淀川駅付近に新「大阪駅」をつくる案だったが、現在駅の立地条件や大阪市の交通網に与える影響、巨額の費用の点などから断念したという。

 選ばれたのは、地中で短いくいを長いくいに取り換える、当時ほとんど例のなかった「アンダーピニング」という工法だった。

 直径1.2メートルの穴に人間が入り、スコップで土砂をかき出しながら地中を25メートル掘り進めるという過酷な作業。「無事故だったのが幸運なくらいの難工事」。当時大阪工事区長だった京都大名誉教授の天野光三さん(79)は「地震、来ないでくれよ」と念じながら部下の作業を見守った。

 62(昭和37)年までの5年間に計245本のくいが打たれ、沈下は止まった。同じ年、地下水のくみ上げを規制する法律が制定され、沈下原因も解消に向かった。

    ◇

 大阪駅北側では28階建ての新しい駅ビルの建築工事が進む。ホームの上には橋上駅が架けられ、その上を巨大ドームが覆う新駅として、2011年に生まれ変わる。

 4日未明、大阪駅に行った。午前1時8分、最後の乗客を乗せた熊本・大分行きの寝台特急「はやぶさ・富士」が、4番線から走り出た。赤いテールランプが闇に消えると、構内は静まりかえった。誰もいなくなったホームを踏みしめてみた。見えない地中にある先人の労苦が未来の駅を支える――。その遺産の大きさを思った。

(文・千葉 正義 写真・森井英二郎)

鉄っちゃんの聞きかじり<「安全の誓い」後輩に>

 大阪駅新北ビルの新築工事で、同駅の西外れにひっそり建っていた石碑に光が当たった。

 1907(明治40)年5月31日の夕方、当時近くにあった踏切で、6歳の女児が突然、遮断機をくぐって横断しようとした。列車が迫る中、踏切係だった岐阜県出身の清水太右衛門(当時54)が奮然と飛び込んで女児を救出。自らは列車に接触、丸1日後に息を引き取った。最期まで「危ない」と口にしていたという。

 太右衛門の勇気をたたえる声が上がり、同年、殉職碑が建立された。戦災で破損し、56年に再建されたが、最近では関係者でも知る人は少なくなっていた。

 新北ビルの建築現場に差し掛かることから昨年3月、西側に移設された。同5月の命日、大阪駅配属の新入社員ら21人が参加して数十年ぶりに慰霊式が開かれた。今後も毎年続け、安全の誓いを新たにする。

探索コース

 JR大阪駅南側に隣接する「アクティ大阪」の27階北展望ロビーに上ると、着々と工事が進む新北ビルの建築現場や大阪駅北ヤードの開発エリアが一望できる。展示ブースも設けられ、新設される橋上駅舎やドームの完成予想図が立体的なコンピューター・グラフィックスで上映されている。営業時間は午前10時〜午後11時、無料。

このページのトップに戻る