true tears雑感 真心の想像力
2008/02/02/Sat
「true tearsの真心の想像力って言葉についてちょっと思った。やさしさ、というのは想像力の別名ともいえるかなって。人は他者のことはほんとにはわかんない。どれだけ他者のことを親身に思っても、そこはぜったいに気づけない領域というのがあって、それは思いやりが足りないとかそういうのでなくて、人が個性ある一個の人格であるかぎり、他人には気づけないしかたない部分というのはあるよね、という話。でもそれなら人は他人のことなんてわかんないのだから他人のことは放っとこうよとかんたんに割り切れるものでもなくて、だれか他者といっしょに生活してくことは社会に生きる以上、けして逃れることはできないこと。だからやさしさというのは価値をもつものであって、そのやさしさは他者のわかんない部分を考慮することであるから、それはつまりやさしさというのは想像力だっていってもいいかなって思う。どこまで想像して、どこまで干渉するか。それはまた少しむずかしいのだけど。」
「ま、そうかしらね。他者の身の上を想像するから、そこに共感や同情が生まれる余地があるわけだし、逆にお節介やよけいなことをしてしまう人というのは、自身の過度の想像力に振り回されているともいえるかしら。」
『幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。もちろん、他人の幸福について考えねばならぬというのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。』
三木清「人生論ノート」
「真心の想像力、というとき、それは何かなと考えると、私はそれは私が好きな人に対して、私が幸せになることでないかなって思った。三木先生は他人を思いやることは大切なことにはちがいないけど、でもあなたの愛する人にとって、あなたが幸せであること以上の思いやりが、ほかにあるだろうかって教えてる。他者のこと、他人のため、人のため。そういった利他主義に潜むある欺瞞。それは何かなといえば、私が好きな人にとって私が私を大切に考えることよりも、その人に報いる術がほかにあるようにみせること。私は、私を愛さなくちゃいけない。なぜならそれが他者の愛に応えるいちばん素敵な方法なのだから。‥それを忘れてしまって、他者のために身をすり減らす人は、何より他者のことを思ってない。だから幸福はひとつの徳であるんだって、三木先生は伝えてる。」
「他人のために、というのは免罪符にはならないのよね。自己犠牲がすべてよいものだとはいえない。なぜならそれは他者をその実何等考慮してないから、か。己を省みさせられる言葉ね、これは。」
「真心の想像力というのは、だから、あるやさしさの純粋な表現のことなんじゃないかな。乃絵のおばあさんは幸福であったから、乃絵の涙を救えたんだよ。だから涙を探すことよりまず、彼女は自分のことを考えなきゃいけない。そうでなきゃ、きっと、涙はたとえ見つけられても、無意味なものに映るんじゃないかな。幸福は徳で、そしてひとつの力なのだから。」
「幸福はやさしさと無縁でなく、そして己が幸福であることが何よりのやさしさの表現であるということがあるもの、か。本当、そうかしらね。いたずらに他者に自分を犠牲にすることが、その他者に益あるとは限らないもの。自分を大切に思うところから始めましょう、ということかしらね。そういうものね、これは。」
『愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのでなく、反対に、彼等は幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すところである。』
三木清「人生論ノート」
三木清「人生論ノート」
「ま、そうかしらね。他者の身の上を想像するから、そこに共感や同情が生まれる余地があるわけだし、逆にお節介やよけいなことをしてしまう人というのは、自身の過度の想像力に振り回されているともいえるかしら。」
『幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。もちろん、他人の幸福について考えねばならぬというのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。』
三木清「人生論ノート」
「真心の想像力、というとき、それは何かなと考えると、私はそれは私が好きな人に対して、私が幸せになることでないかなって思った。三木先生は他人を思いやることは大切なことにはちがいないけど、でもあなたの愛する人にとって、あなたが幸せであること以上の思いやりが、ほかにあるだろうかって教えてる。他者のこと、他人のため、人のため。そういった利他主義に潜むある欺瞞。それは何かなといえば、私が好きな人にとって私が私を大切に考えることよりも、その人に報いる術がほかにあるようにみせること。私は、私を愛さなくちゃいけない。なぜならそれが他者の愛に応えるいちばん素敵な方法なのだから。‥それを忘れてしまって、他者のために身をすり減らす人は、何より他者のことを思ってない。だから幸福はひとつの徳であるんだって、三木先生は伝えてる。」
「他人のために、というのは免罪符にはならないのよね。自己犠牲がすべてよいものだとはいえない。なぜならそれは他者をその実何等考慮してないから、か。己を省みさせられる言葉ね、これは。」
「真心の想像力というのは、だから、あるやさしさの純粋な表現のことなんじゃないかな。乃絵のおばあさんは幸福であったから、乃絵の涙を救えたんだよ。だから涙を探すことよりまず、彼女は自分のことを考えなきゃいけない。そうでなきゃ、きっと、涙はたとえ見つけられても、無意味なものに映るんじゃないかな。幸福は徳で、そしてひとつの力なのだから。」
「幸福はやさしさと無縁でなく、そして己が幸福であることが何よりのやさしさの表現であるということがあるもの、か。本当、そうかしらね。いたずらに他者に自分を犠牲にすることが、その他者に益あるとは限らないもの。自分を大切に思うところから始めましょう、ということかしらね。そういうものね、これは。」
『愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのでなく、反対に、彼等は幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すところである。』
三木清「人生論ノート」
三木清「人生論ノート」