-レンブラントとその時代の金融システム----
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大航海時代の先に進むまえに、
フランク王国の歴史と
神聖ローマ皇帝の誕生をみておきます。
フランクの故郷は、ベルギーだったのです。
クローヴィスは、ベルギーのトゥールネより パリに出てきていますので、
メロヴィング朝の故地ですし、
・・・
ブルゴーニュ公は、徳川幕府の御三家みたいな位置づけのフランス王の親戚で、
目の上のたんこぶのフランドルをフランス王のものにするため、
フランス王シャルル5世が画策して、
弟のブルゴーニュ公フィリップ大胆公を、 フランドル伯継承者
マルグリット・ド・フランドルと結婚させたのでした。
ところが、ブルゴーニュ公が百年戦争の過程でフランスより独立を志向し、
独立への途中 シャルル突進公が ナンシーの戦いでスイス軍に敗れて戦死し、
一人娘のマリアが ハプスブルグのマクシミリアンと結婚したため、
ブルゴーニュ公国が、「瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)」のように
基本的にはそっくりハプスブルグ家のものとなったのでした。
http://homepage2.nifty.com/hj-hiyama/070717.htm
ベルギー への 誘い(いざない)2007/4/11 より
だから、フランス王は「われらのお姫さま」ブルゴーニュ女公マリーの娘を自国に連れてきたのでした。
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さて、初代フランク王といわれる
クローヴィス
の改宗は政治的にも必要なことだったようですが、その後の
カール大帝
にいたっては
「こんなことを知っていたらローマにこなかった
」と不機嫌そうにいったとか。
この教皇
レオ3世
による戴冠により「西洋の新たな歴史の扉が開かれた(
神聖ローマ皇帝誕生)」
800年にはローマ教皇がフランク王カールを「ローマ皇帝」に戴冠し、
東ローマ帝国から完全に自立したのである。 聖像破壊運動
wikipedia より
東ローマ帝国はイコン
などを作成する修道院を押さえたかったこともあり、聖像を禁止。
現在のイタリアの方はゲルマン人などへの布教には聖像などは不可欠。
コンスタンティノープル(=現在のイスタンブール)のローマ皇帝が上であったわけですが、勝手に現在のイタリア側のキリスト教の教皇が冠を与えたわけです。 ちなみにこの時、既に
西ローマ帝国
は滅んでいます。
この冠はロンバルディアの鉄王冠
という有名なものです。
1805年5月26日
「歴史の扉を閉じた」ナポレオン・ボナパルト
は教皇の目の前で、自ら通常の王冠をかぶった(これを描いたダビットの大作
があります)のですが、その後、この鉄王冠を使用してランゴバルド王国の儀式に従った宣誓を行ったのだそうです。
参考
・ 神聖ローマ皇帝一覧
・ ≪カールの戴冠 -- ヨーロッパ文明の誕生≫
より
8世紀後半、フランク王国のカール(シャルル)は他のゲルマン国家を次々と征服し、滅亡前の西ローマ帝国に匹敵するほどの勢力を築きつつありました。ローマ皇帝に圧迫され続けていたローマ教会の司教(教皇)レオ3世は、799年にフランク王国を訪れてカールに窮状を訴え、ローマ教会に対する支援を要請します。
翌800年の晩秋、カールは大軍を率いてローマにやってきました。12月25日、クリスマスのミサに出席するためにサン・ピエトロ聖堂を訪れたカールの身に、思いがけないことが起こります。祭壇に向かって跪いて祈りを終え、立ちあがろうとしたカールにレオ3世が近づき、彼の頭に皇帝冠を置いたのです。当時の年代記記者アインハルト(Einhard)によると、カールは予期しない突然の戴冠に驚き、「あのようなことが起こると分かっていれば聖堂には行かなかったであろう」と語ったといいます。しかし文明史の流れは個人の思惑を超えて事件の当事者を運んでゆきます。ゲルマン人であるフランク国王カールがローマ教皇により西ローマ皇帝として戴冠させられたこの瞬間に、ヨーロッパ文明が誕生したのです。